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「醜い女」と捨てた元婚約者が、眼鏡を外した私を口説いてきます――残念ですが、私はもう隣国公爵の婚約者です

作者: 浅葱きしろ
掲載日:2026/07/03

選んでいただきありがとうございます。

ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。

 宮廷音楽の甘やかな旋律が、夜会のホールを微温い空気で満たしていた。祖国の夜会は、いつだって鼻をつく香水の匂いと、他人の噂話で膨らんだ脂ぎった笑い声に満ちていた。

 その光の中心で、私はうつむき、必死に肩を震わせていた。


 「聞こえなかったのか、イリス!お前のような煤まみれで暗い女は、我がベルトラン公爵家にふさわしくない。婚約は今この瞬間を以て破棄する!」


 頭上から降ってきたのは、私の婚約者であるルイス・ベルトランの、朗々とした、そしてひどく悦に入った声だった。

 ルイスの隣には、私の義理の妹であるクララが寄り添っている。

華やかに波打つ栗色の髪に、贅沢なフリルをあしらった薄ピンクのシルクドレスを纏い、磨かれた真珠の首飾りを揺らすクララは、ルイスのたくましい腕にすがりつき、上目遣いに私を見ていた。


可憐で、儚げで、そして「お姉様を追い落としてやった」という強欲な優越感に満ちた瞳。


 それに対する私は、義母からあてがわれたボロ布同然の灰色ドレスに、手入れを禁じられて煤けた金髪、さらに視力を落とすためにかけさせられていた分厚い瓶底眼鏡という、惨め極まりない姿だった。


 (落ち着け。絶対に笑うな。ここで吹き出したら台無しだ)


 私はいっそ喉を鳴らして笑い出したい衝動をこらえ、爪が手のひらに食い込むほど握り拳を作った。うつむいた顔を隠すように、眼鏡の奥で目を細める。悲しみに震える哀れな令嬢を演じるのは、想像以上に顔の筋肉を使う。


 「ル、ルイス様……なぜ、そのようなことを……」

 「なぜだと?己の姿を鏡で見てから言うがいい」


 ルイスは鼻で笑った。冷たい視線が、私の惨めな装いをねめ回す。


 「僕は公爵家の嫡男だ。その僕の隣に、そんな薄汚れた女が立つなど我が公爵家の汚点以外の何物でもない。真実の愛に目覚めたのだ。僕は、クララと生涯を共にする」


 (真実の愛、ねえ)


 心の中で、乾いた冷笑がこぼれた。

 ルイスが私をゴミのように扱ってきた日々が、脳裏をかすめる。


 私の誕生日に、「君のような地味な女にはこれで十分だ」と、自分が使い古して穴の空いた革手袋を床に投げつけてよこしたこと。


 土砂降りの雨の日、クララを馬車に優しくエスコートした後、私に向かって「君は煤だらけだから馬車が汚れる。歩いて来い」と吐き捨て、泥道を、晴れていたとしても到底令嬢が歩かないような距離を歩かせたこと。


 実家の商取引の書類作業を押し付けられ、徹夜で目を充血させていた私を見て、「醜い顔がさらに酷くなっている。僕の隣を歩くなら少しは化粧で隠す努力をしたらどうだ」と不快そうに顔を歪めたこと。えぇえぇ、化粧ではとても隠し切れないクマがありましたとも。


 そんな男の妻になり、一生を捧げるなど、こちらから願い下げだ。


 「ルイス様、何を言っておられるのです!」


 背後で、私の父親であるヴァルデック子爵が悲鳴のような声を上げた。顔色は紙のように白く、額には嫌な汗が浮かんでいる。父親はルイスの袖を掴み、狂ったように首を横に振った。


 「婚約破棄などと、公衆の面前で……!いけません、それだけは絶対に!」

 「くどいぞ、ヴァルデック子爵。これは僕とクララの意思だ。すでに二人の愛は本物だと証明されている」


 ルイスは父親の手を鬱陶しそうに振り払った。クララが嬉しそうに、ルイスの胸に頬を寄せる。

 父親がここまで狼狽している理由は、ただ一つ。

 私の亡き実母が遺した、莫大な持参金の存在だ。

 実母は大富豪の商家の娘で、父と結婚する際に交わされた金銭に関する誓約魔法があった。「この持参金は、実母の血を引くイリスが成人するか嫁ぐ際、イリスが全額引き継ぐ。それまでは子爵家が管理する」というもの。


 そしてそこには、明確な誓約が刻まれていた。

 『イリスが合意していない状態で、婚約者側または子爵家関係者が一方的に婚約を破棄し、婚約関係を破綻させた場合、その事実が確定した瞬間に、管理下に置かれていた実母の遺産の全額が自動的にイリスの専有口座へと強制移行される。不履行の場合、子爵家の全財産を差し押さえる』


 私は現在十九歳。成人の二十歳になる直前だったため、実家が管理権を握っていた。父親はこの誓約を知っていた。だからこそ、私を「無能な雑用係」として家に縛り付け、ルイスと結婚させることで、持参金を実質的に子爵家とルイスで共同管理し、贅沢に使い込み続ける計画を裏で立てていたのだ。実際そこそこ使い込まれているのを私は知っていた。


 だが、愚かなルイスはその誓約を知らなかった。この魔法契約には「詳細を契約当事者および受益者以外に口外した時点で即座に遺産は全額召し上げる」という秘匿誓約があったため、父親はルイスに内容を叫んで止めることもできなかったのだ。クララも、その母親である後妻も、お金は当然自分たちのものと思い込み、すでに大金を使い込んでいた。


 ルイスが婚約破棄を声高に宣言し、その事実が周囲の証言によって確定した今、不可逆の呪文が発動した。


 私の脳内に、契約が履行されたことを示すかすかな魔力の共鳴が響く。実母の遺産は、たった今、口座に残された遺産の全額と、それまでに彼らが使い込んだ金額に相当する返還請求権が、私個人の隠し口座へと自動的にロックされ、完全に移行された。


 「……分かりました」


 私はゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥で、涙ぐむフリをしながら声を震わせる

 「そこまでおっしゃるなら、喜んでお受けいたしますわ、ルイス様。私は身一つで、この国から去らせていただきます」


 「ふん、殊勝なことだ。せいぜいどこかの修道院で一生を悔い改めて過ごすことだな」


 ルイスは勝ち誇った顔でクララの肩を抱き、背を向けた。クララは勝ち誇った笑みを私に残し、大勢の貴族たちの拍手と祝福の中に消えていく。


 「ああ……なんということを……」


 父親はただ、絶望に目を見開いたまま立ち尽くしていた。これから訪れる、持参金返還という名の破滅の重さに、今さら気づいたのだろう。


 (お気の毒に。でも、自業自得よ)


 私は冷めた紅茶を飲み干すような気分で、夜会の会場を後にした。

 その夜のうちに、私は最低限の荷物だけを持って、子爵邸の裏門から出た。

 そこには、一台の地味な馬車が待機していた。


 「お待ちしておりました、イリス様」


 馬車の窓から顔を覗かせたのは、隣国のアルカディア公爵ヴァリアンからの使者だった。

 私は馬車に乗り込み、深くシートにもたれかかった。何ヶ月も前から、実家の商取引の書類作成を通じて、私は隣国の大貴族であるヴァリアンと文通を重ねていた。私の事務処理能力と、実家の持つ取引ルートの価値を見抜いた彼は、私に「就職」と「安全な亡命」を提案してくれたのだ。未成年の私でも、隣国の絶対的権力者であるヴァリアンが身元を保証すれば、亡命の手続きなど赤子の手をひねるより容易かった。


 この国にいては、公爵家や子爵家の権力で、無理やり連れ戻されるか、あるいは暗殺されかねない。だが、隣国の軍事と商業を握るヴァリアンの腕の中であれば、彼らなど虫ケラも同然だった。


 「さあ、行きましょう」


 馬車が闇に向かって走り出す。私は鼻梁を押し上げて眼鏡の位置を直しながら、心地よい疲労感とともに目を閉じた。



 それから数ヶ月が経った。

 隣国のアルカディア公爵領は、私の祖国とは比べものにならないほど豊かで、活気に満ちていた。


 何より、十分に与えられる食事と、泥のように眠れる静かな夜が、私の身体を劇的に変えていた。実家にいた頃の、骨と皮ばかりの痩せ衰えた身体にはふっくらとした健康的な肉がつき、煤けて絡まっていた金髪は、公爵お抱えの美容師たちの手によって絹のような輝きを取り戻した。そして、視力を下げるためだけにかけさせられていた粗悪な瓶底眼鏡を外した私の顔は、自分でも驚くほど、亡き実母の生き写しのような絶世の美女のそれだった。


 私はあくまで、有能な労働力として、対等なビジネスパートナーになるつもりでここに来たはずだった。それなのに、この公爵はなぜか私の距離感を無視してくる。執務中、さりげなく背後から書類を覗き込んできた彼の吐息が耳朶をくすぐるたび、あるいは、疲れた私を気遣って彼が自ら淹れた極上の紅茶を手渡してくるたび、私の胸の奥が不器用な音を立てて跳ねる。

 打算だけで動いていたはずの私が、彼を見上げるだけで熱さを感じるのは、非常に困る誤算だった。彼も彼で、私の能力を称賛する裏で、どこか獲物を狙うような、だがどうしようもなく甘い視線を向けてくるのだ。お互いに腹の内を探り合っているようで、その実、恋という名の迷宮で足をもたつかせている自覚はあった。


 「本当に見事な仕事ぶりだ、イリス。君が来てから、領地の商取引にかかる時間が半分になった。どうだい、そろそろ僕の補佐官ではなく、生涯のパートナーとしての契約にサインする気にはなってくれたかな?」


 執務室の机で書類に目を通していたヴァリアンが、悪戯っぽく笑いながら私を見上げた。

 一見すると、彫刻のように整った顔立ちに、緩く波打つ黒髪。女性を惑わすような軽薄に見える笑みを浮かべているが、その双眸の奥には底知れない冷徹さと知性が光っている。祖国では「隣国の冷酷な若き公爵」と恐れられているが、私の前ではただのしっぽを振る犬のようになる。


 「まだ試用期間中ですわ、ヴァリアン閣下。私は打算的な女ですもの。あなたの価値を十分に品定めさせていただきませんと」


 「手厳しいな。だが、そういうところもたまらなく愛おしいよ」


 ヴァリアンは立ち上がり、私の手を取って指先に軽く唇を寄せた。その熱さに、私の心臓が小さく跳ねる。

 そんな私たちが、社交界に向けて正式な婚約のお披露目を行うことになった。本来、国を跨いだ貴族の婚約には複雑な手続きが必要だが、ヴァリアンは本国の王室をねじ伏せ、驚異的な迅速さで婚約の内諾を取り付けてしまったのだ。


 会場は、アルカディア公爵邸の大広間。


 美しい刺繍が施された群青のドレスを身に纏い、ヴァリアンのエスコートで大階段を下りる私の姿に、会場中の貴族たちから息を呑む音が漏れた。

 その華やかな人混みの片隅に、見覚えのある、そしてひどく場違いな二人の姿を見つけた。

 ルイスとクララだ。

 二人の顔には、かつての尊大な余裕は微塵もなかった。着ているドレスや燕尾服は一見豪華だが、どことなくくたびれており、何よりその目は、獲物を探す飢えた獣のようにぎらついている。


 実母の遺産を全額強制的に移転され、使い込んだ分の返還を求められたヴァルデック子爵家は、支払う現金がなく債務不履行となり、差し押さえられた領地や邸宅は競売にかけられ破産。本国では、口座凍結の解除を狙って虚偽の報告を行った父親と義母が「公文書偽造および国家に対する詐欺罪」の主犯としてすでに逮捕されていた。


 ルイスの公爵家も、犯罪者となったヴァルデック家との婚姻を嫌い、ルイスに婚約破棄を命じたが、彼は「真実の愛」を主張して婚約解消を拒絶。激怒した公爵は廃嫡手続きを開始し、資金援助もすべて打ち切っていた。本国で指名手配され、あえて泳がされているとも知らず、困窮したルイスたちは藁にもすがる思いでいたのだ。そこへ、ヴァリアンから「商取引の相談がある」と公式の招待状が届き、彼らは融資を得るチャンスと舞い上がってこの夜会にやってきたのだ。すべてはヴァリアンが仕掛けた罠だとも知らずに。

 ヴァリアンと私がホールに下り立つと、ルイスとクララはまるで光に群がる羽虫のように、人波をかき分けてすり寄ってきた。


 「アルカディア公爵閣下!お初にお目にかかります、ベルトラン公爵家が嫡男、ルイスと申します。こちらは私の婚約者のクララです」


 ルイスは慇懃無礼に頭を下げた。だが、その視線はヴァリアンではなく、隣に立つ私に注がれている。

 ルイスの瞳が、驚愕と、下卑た熱情に揺れた。目の前にいるのが、かつて自分が「煤まみれの無能」と呼んで踏みつけた元婚約者だとは、夢にも思っていないのだろう。

 実家での私は、顔全体に意図的に煤を塗られ、髪はボサボサに絡まり、度入りの瓶底眼鏡で顔立ちが完全に歪んで見えていた。声も常にうつむいて蚊の鳴くような声しか出せなかった。対して目の前にいるのは、肌の煤を落として健康的な艶を取り戻し、凛とした淑女の発声で話す絶世の美女だ。彼が同一人物だと気づくはずもなかった。


 「そして……お隣にいらっしゃる美しい婚約者様。お噂以上の素晴らしい気品だ。あなたの前に立つだけで、こちらの呼吸が止まってしまいそうだ」


 ルイスは私の手を取ろうと手を伸ばしかけ、ヴァリアンの冷ややかな視線に気づいて慌てて引っ込めた。

 隣のクララは、ルイスが自分を無視して私に見惚れていることに、顔を真っ赤にして嫉妬の炎を燃やしている。だが、ヴァリアンに取り入るため、必死に愛嬌のある笑顔を作り、淑女らしくお辞儀をした。


 「本当に……お美しいお方。閣下の新しい婚約者様は、まるでおとぎ話の姫君のようですわ」


 「お褒めいただき光栄ですわ、ヴァルデック家のお嬢様。それに、ベルトラン公爵令息様も」

 私は扇で口元を隠し、淑女の微笑みを浮かべた。


 (本当に、笑わせてくれるわね)


 かつて私に破れた手袋を投げつけ、雨の中に置き去りにし、「醜い顔」と嘲笑った男が、今、私の正体すら分からずに必死に媚びへつらっている。

 ルイスはさらにすり寄るようにして、声を潜めた。


 「いやあ、我が本国の淑女たちなど、閣下の婚約者様の爪の垢を煎じて飲むべきですな。私の現在の婚約者であるクララも、まあ、そこそこに愛嬌はありますが……閣下の婚約者様の、その圧倒的な気品と美しさには到底及びません。比べ物にするのも失礼なほどだ」


 後ろでクララが、ヒュッ、と小さく息を呑んで爪を食い込ませるのが見えた。自分の婚約者が、目の前の「見知らぬ美女」の前で自分を貶めたのだ。その屈辱と怒りで、クララの肩が小刻みに震えている。


(ここは貴族らしく優雅に振る舞いなさいな、何も成長していないのね)


 私は内心の抱腹絶倒を完璧に押し殺し、ただ憐れむような目を二人に向けた。


 「さて、ベルトラン公爵令息。君たちが求めていた融資の件だったね。公の場でする話でもない。少し場所を変えよう」


 ヴァリアンが静かに提案すると、ルイスとクララは救われたような顔をして何度も頷いた。

 私たちはホールから少し離れた、人の声が届かない静かなサロンへと移動した。厚手の絨毯が足音を吸い込み、重厚な扉が閉まると、ホールの喧騒は完全にシャットアウトされた。

 ヴァリアンは一人用の革張りソファに深く腰掛け、私はその傍らに立った。ルイスとクララは落ち着かない様子で対面のソファに並んで座る。

 ルイスは交渉を有利に進めようと、再び機嫌を取るように身を乗り出した。


 「いや、それにしても閣下の婚約者様は本当に素晴らしい。先ほども申しましたが、我が国の愚かな淑女どもに爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ」

 私は、邪魔にならないよう素晴らしい配慮をする優秀な侍女が淹れてくれた紅茶のカップをソーサーに戻した。カチャリ、と小さな磁器の音が響く。

 そして、人差し指をすっと伸ばし、美しく整えられた鼻梁の付け根を押し上げる仕草をした。


 ルイスが、ハッと息を呑んで目を見開いた。

 その独特の指の動き、そして眼鏡を外した私の素顔が亡き実母に生き写しであること、さらには声のトーンの重なりから、ルイスは遅まきながら目の前の美女が「イリス」であることに気づいたのだ。


 「そう言っていただけて光栄ですわ、ルイス様。――ですが、私の爪の垢など、煎じて飲んでもお腹を壊すだけだと思いますけれど?」


 サロンの中に、凍りつくような沈黙が落ちた。

 ルイスの口が、金魚のように開閉する。クララはソファからずり落ちそうになりながら、私を凝視していた。


 「お前……まさか、イリス……!?」

 「嘘よ……そんな、お姉様……?なんで、どうしてあなたがこんなところに……その顔は、何なのよ……!」

 「お久しぶりですわ、お父様とルイス様のお人形でしかなかった、私の可愛い妹クララ」


 私は冷ややかに目を細め、かつて実家で浴びせられた言葉たちを思い浮かべながら、優雅に一礼した。


 「紹介しよう」


 ヴァリアンがソファにもたれかかったまま、愉しげに言った。


 「僕の有能な補佐官であり、愛しい婚約者――イリス・ヴァルデックだ。彼女は我がアルカディア公爵領の正式な庇護下にあり、君たちが『逃亡した』と騒いでいた時期から、こちらで正当な取引の手続きを行い、自らの意思で暮らしている。つまり」


 ヴァリアンの双眸が、鋭い氷のように細められた。


 「君たちが本国で提出した虚偽の告訴状は、持参金の返還を免れるために無実のイリスを陥れようとした、真っ赤な『虚偽告訴および国家に対する詐欺罪、ならびに財産横領罪』の動かぬ証拠ということになるね?すでに本国の司法機関には、僕からすべての事実と証拠を報告済みだ」


 本国の司法機関から正式に発行された逮捕状と身柄引き渡し要請書を手にしたヴァリアンが軽く手を叩くと、重厚な扉が再び開き、本国の執行官を伴った公爵領の衛兵たちが整然と入ってきた。


 「な、なぜだ……どうしてこんなことに……」


 ルイスは膝の力が抜けたように床へへたり込み、絶望に視線を彷徨わせた。


 「こんなことってないわ!!!!」


 クララは狂ったように叫び、頭を振って突然立ち上がった。指示通り這いつくばるルイスを冷酷に見捨てると、私を押し除けるようにして、ソファに座るヴァリアンの元へと駆け寄った。


 「閣下!助けてください!私は何も知らないのです!すべてはお父様と、そこのルイス様が勝手にやったことですわ!私は……私は怖かったの!お姉様が怖くて……お姉様の部屋から私たちが物を持っていったときも、お姉様が何も言わないから不気味で怖くて、嘘をつくしかなかったのよ!」


 クララは涙をこれでもかと溢れさせ、可憐な被害者を演じながら、ヴァリアンの胸へと飛び込もうとした。

 だが、ヴァリアンは冷ややかな笑みを浮かべたまま、クララが触れる直前に、その両肩を長い手でしっかりと掴んで静止させた。優しく、だが絶対に近づけさせない強い力で、彼女を突き放す。


 「おや」


 ヴァリアンは極上の笑みを浮かべたまま、首を傾げた。

 「自分の婚約者が捕まりそうになった途端、別の男の胸に飛び込んで泣きつくのかい?君のその“変わり身の早さ”の方が、僕にはよっぽど怖くてゾッとするよ」


 「え……?」


 クララは一瞬、何を言われたのか理解できず、涙に濡れた顔で呆然と立ち尽くした。

 その隙を逃さず、衛兵たちがクララの左右から腕を掴み、ガッチリと捕縛した。


 「離して!痛いわ!お姉様!すべてはあなたが元凶ね!?」


 暴れるクララを見下ろしながら、私はヴァリアンの隣に静かに歩み寄った。ヴァリアンは自然な動作で私の腰を引き寄せ、その腕の中に囲い込む。

 私は、絶望と怒りで顔を歪めるクララに向けて、冷たい笑みを投げかけた。


 「ええ、そうかもしれないわね。でも私もあなたの嘘と強欲さが『怖かったですわ』、クララ」


 かつて私を虐げ、何かにつけて「お姉様が不気味で怖かったから」と自己正当化の言い訳に使っていたその言葉を、そっくりそのまま、最大の皮肉としてお返しして差し上げた。

 クララは虚偽告訴の共犯者として、ルイスは告訴状捏造の協力者として、衛兵たちによって引きずられるようにサロンから連行されていった。彼らは本国へ送還され、すでに逮捕されている父親や義母とともに、厳しい審問と処罰を受けることになるだろう。使い込まれて不足していた持参金は、誓約魔法の執行に基づく債務不履行の差し押さえにより、ヴァルデック家のすべての領地と邸宅を、代理人のヴァリアンが私の返還債権と相殺する形で落札し、私のものとなっている。

 バタン、と扉が閉まり、サロンに再び静寂が戻った。


 「ふう、やれやれ。これで邪魔者は消えたね」


 ヴァリアンは私の腰に回した腕に力を込め、耳元で甘く囁いた。


 「さて、試用期間は終了ですね、ヴァリアン閣下。私の打算的な復讐劇を、これほど見事に手伝ってくださるなんて」

 「おや、それだけかい?僕が欲しいのは、君の有能な頭脳だけじゃないと知っているだろう、イリス」


 ヴァリアンは私の顎を指先で優しく持ち上げ、その熱い視線で私を射抜いた。


 「合格をいただけるのかな?僕の、愛おしい君」


 「ええ。生涯をかけて、あなたを品定めし続けて差し上げますわ」


 私が悪戯っぽく微笑むと、ヴァリアンは嬉しそうに目を細め、私の唇に優しく、しかし確かな独占欲を込めて、自らの唇を重ねた。


少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたなら嬉しいです。


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ここまで読んでくださったことに、改めて感謝を。


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― 新着の感想 ―
少しではなく大いに面白かったです。 ルイスが廃嫡となってもクララを選んだ事は意外でした。
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