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焦って僕が止めようとすると、彼女の白い腹の左側に、引っ掻いたような傷痕があった。
「……あぁ、確かにこの傷はアリサのだ」
昔みんなでキャンプに行って、バーベキューをしていた時に、炎が爆ぜたことがあった。
爆ぜた炎は千紗に当たりそうになり、これはアリサが千紗を守った時に負った傷だ。
彼女は少しむすっとした表情で僕に言う。
「まだ疑っているでしょう」
「え……いや、さすがにすぐには……ちょっと、頭が追いつかないよ」
「疑っているのなら、何か、問題を出して」
「え?」
「アリサには答えられないけど、私なら答えられる質問をすればいい」
「えっと……、千紗の好きな食べ物?」
「好きな食べ物はオムライス、嫌いな食べ物は納豆。キウイは好きだけど、アレルギーで食べられない。だけどそんなの、アリサでも知ってる」
「あ、そうだよな」
ありきたりな質問をしてしまった。僕は腕を組んで悩む。
「勉強関係の方がいいかな。難しい公式とか」
「アリサのことをバカだと思ってる?」
「思ってないって。アリサがバカなんじゃなくて、千紗が頭良すぎるだけだよ。ただ、高校生じゃ分からない問題をたずねたとしても、それって僕も正解かどうか分からないな……」
家族のアリサが知らなくて、僕が知っている千紗の問題……なかなか難しい。
「アリサは確か、地理は苦手だったっけ……フランスの首都は?」
「パリ」
「ドイツの首都は?」
「ベルリン」
「じゃあスリランカの首都は?」
「スリジャヤワルダナプラコッテ。やっぱりアリサをバカにしてるでしょう」
「してないよ」
僕は頭を抱えてうなった。最後のはアリサには言えなさそうだけど。
「虹」
僕は、ふと思いついた単語を口にした。
千紗と二人で出かけた日で一番に思い出した。たしか、文化祭の買い出しか何かの日だった。
「あの日……」
目の前の少女は、僕が話すより先に静かに言った。
「あの日、虹が出ていた。景は、虹を見て綺麗だと喜んだ。虹なんて、久しぶりに見たと言って笑った。大気中に浮遊する水滴がプリズムの役割をし、水滴の中を屈折・反射することで、虹が見られる。虹は赤から紫までの、光のスペクトルが並んだ円弧状の光。色はそれぞれ違う波長を持っていて、違う角度で反射する。だから七色に見える。色の順番は赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。条件さえ揃えば、いつだって作れる。月の光でだって、虹は見られる。景がそんなに虹を見たいのなら、いつでも見せてあげると話した」
彼女はあの日と一言一句違わぬ言葉で、そう言った。
そのことは、少なくとも僕は誰にも話していない。
クラスの友だちも、アリサにも。必要のないことは言葉にしない千紗の性格上、アリサに事細かに話したということは考え辛い……。
僕はふっと息を吐いて微笑む。
「あまりにも、ロマンがない言い方だと思わない?」
「私は、景の希望を叶えてあげたいと思っただけ。虹の原理は分かるから、簡単に作れるということを伝えたかった」
それを聞いた僕は、しばらくその時のことを思い出して、クスクスと笑った。
それからベッドに座る少女の手を、ぎゅっと握り締める。
「……本当に、千紗なのか?」
気が付くと、指が震えていた。
アリサに千紗から話していたとしても、そんな細かいところまで再現できるだろうか?
それにもし聞いていたとしても、自分の経験ならともかく、他人の思い出を即座に話すことができるだろうか?
「もういくつか質問してもいい?」
「いくらでも」
僕は一瞬躊躇したが、やがて質問を続けた。
「最初から、このことを聞けばよかったかな。アリサは知らないはずだよね。中学二年の、冬さ……」
少しも迷った様子がなく、アリサは――いや、千紗は即座に回答した。
「景が私に告白した日のこと?」
千紗は困ったように少し眉を寄せ、流れる髪の毛を耳にかけた。
表情も、話し方も、声も。
何より考え事をしている時にするその癖が、千紗そのものだった。
「うん……本当に、千紗なんだ……。夢みたいだ」
僕はアリサを――いや、アリサの姿をした千紗を、ぎゅっと抱きしめた。
瞳から、勝手にボロボロ涙がこぼれる。なんだか最近の僕は、泣いてばかりだ。
千紗は子供をあやすように、僕の背中をとんとんと撫でた。
「景、落ち着いて」
彼女の声はあまりにも冷静で、その温度差に勝手に苛立つ。
「落ち着けるわけないじゃないかっ! 僕、千紗はもう死んだと思って……」
情けないと思うのに、涙が止まらない。
「本当に、本当に千紗なんだよな!?」
「うん。少なくとも、私はそう考えている」
「もう、一生会えないと思った。僕やおばさんたちが、ずっとどんな気持ちだったか……!」
涙は止まらないけれど、仕方ない。二度と会うことができないはずの、大好きな女の子が、また僕の前に現れたのだ。
彼女の身体はもう燃えてしまったけれど、千紗は確かに、僕の目の前にいる。
「私の身体は、もうなくなってしまった?」
「うん。僕、千紗の葬式に出たんだよ。目の前が真っ暗になった。その日からしばらく、千紗の夢ばっかり見た。千紗のことを追いかけるのに、もうすぐで手が握れるってところで、千紗はいつも消えてしまうんだ」
千紗は静かに僕の言葉に耳を傾けている。
「もうあんな思い、二度としたくない。よかった、千紗、よかった……!」
それから僕ははっとして、彼女の肩をつかみ、千紗に確認する。
「なぁ、アリサは!? アリサもちゃんと、いるんだよな!?」
「うん、もちろん。今は、身体の中で眠っている」
「そっか」
「事故のショックのせいか、まだ目覚めないみたい」
僕はほっと息をついた。
「……私のお葬式、したんだ。ちょっと見てみたかった」
「それってどういう感情なの……。自分の身体が燃えるところなんて、見たい?」
「でも、めったにできない経験でしょう。自分の葬式に出るなんて。知的好奇心がそそられる」
やっぱり千紗は、少し変わっている。
千紗は少し考えながら、ゆっくりした口調で言う。
「信じてもらえるか分からないけれど……魂の部屋、みたいなところがあって」
「魂の部屋?」
「そこはぼんやり明るくて。でも部屋には、私しかいなかった。狭くて、本当に私だけがいられる場所で、私は膝を抱えて、そこに座っていた。だけど、隣にもうひとつ部屋があって。その中にアリサがいるのが、確かに分かった」
実際にそういう場所があるというよりは、あくまでイメージの話なんだろうけれど。
「その魂の部屋で、アリサと会話はできたの?」
「ううん、できない。存在していることの認識はできるけれど、何度叫んでも、アリサには私の声は聞こえていないみたいだった」
説明が終わると、千紗は疲れたようにパチパチと瞬きして、喉を押さえた。
「一度にたくさん話したら、喉が渇いた……」
僕は冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを取り出す。
「コーヒーでいい?」
「普通にお茶か水がいいんだけど……。景、確かめようとしてるでしょう」
「ごめん。だけど、アリサはストレートのコーヒーが飲めないだろ」
ガラスのコップにアイスコーヒーを注ぐと、千紗はやれやれと言った表情で受け取り、ごくごくと飲み干した。
あぁ、やっぱり千紗なのかな。だってアリサは、ブラックコーヒーを飲まない。
つい実験染みたことをしてしまう自分を反省した。
「景の困惑も分かる。正直アリサの身体の中に私とアリサの魂が入っていると考えるより、アリサの精神が異常をきたしたと考えるほうが、現実的」
「身も蓋もない。だけど、どうして先に千紗の魂が目覚めたんだろう?」
「景に呼ばれた気がしたから」
「そう、か」
僕に呼ばれたから、来てくれたのか? もしそうだとしたら、だいぶ嬉しい。
「千紗とアリサも、会話できればよかったのにな」
「残念だけれど、仕方ない」
僕たちの間には、やわらかな空気が漂っていた。
だが、千紗はすっと目を細めて、真剣な口調で言った。
「このことはまだ、誰にも話さないで欲しい」
「まぁ最初から、誰かにふれまわるつもりはないけど……」
話したって、誰も信じてくれないだろう。
「ただ、時期を見て、おじさんとおばさんには話してもいいんじゃないか?」
死んだはずの娘が魂だけであれ、生きているのなら、両親だったら当然知りたいはずだ。
しかし千紗は首を横に振る。
「私はこのことは、景以外の誰にも話したくない」
「でも……」
千紗は友人なんていないと話していたが、千紗の葬儀には、大勢の人間が集まっていた。千紗が知らなかったとしても、彼女に憧れたり尊敬している人間は多かったのだろう。その誰にも真実を伝えられないなんて、悲しすぎるじゃないか。
「本当は、誰にも打ち明けずに、アリサのふりをするつもりだった。けれど、私とアリサは違いすぎる。なかなか、難しくて……。第三者の協力が必要と考えて、一番に景に話した。適任者は、景以外には思いつかなかったから」
言っていることは分かったが、なんだかチクチクする言い方だった。
「分かったよ。とりあえず、千紗に会えたことは嬉しいし。僕も、できることは協力するから」
そう答えると、千紗の唇は弧を描いた。貴重な千紗の笑顔に、僕はつられて微笑んでしまう。
正直、困惑の感情も大きかった。
だけど、もう一度千紗に会えたんだ。とりあえず今は、素直に喜ぼう。




