3-2
アリサが細い腕を伸ばし、僕の服を、弱々しい力でつかんだ。
振り返ると、彼女はひどく真剣な瞳を僕に向けていた。
「……話したいことが、あるの」
「もちろん。何、アリサ?」
そう問うと、彼女はなぜかほんの少し悲しそうに、眉を寄せる。
続きを聞こうとしたが、そこで面会終了のアナウンスと音楽が、スピーカーから流れ出す。
「あ……もうちょっと残っちゃダメかな……」
僕が迷っていると、アリサは笑って言った。
「私もまだ確信がないから。明日、ゆっくり話してもいい?」
アリサにしては珍しく、はっきりしない物良いだ。僕はアリサに微笑んだ。
「いいよ、明日でも明後日でも、何日先でも。退院できるまで、毎日お見舞いに来るし、退院してからも、しばらく毎日家に行くから」
そう答えると、アリサは照れくさそうに目を細めた。
「ありがとう。今までも、毎日病院に来てくれたんでしょう」
「……怖かったんだ、毎日来ないと、アリサがもう目覚めないんじゃないかって」
思わず本音をこぼしてしまってから、はっとした。せっかくアリサが目覚めたのに、ネガティブなことを言ってどうする。
「だから、アリサが目を覚ましてくれて、本当に嬉しいんだ。また明日ね、アリサ」
「……うん、また明日」
♢
「本当によかったわね、アリサちゃん」
帰りのタクシーに揺られながら、母は安心したようにそう言った。
千紗とアリサのことで僕はずっと沈んでいたし、それも心配だったのだろう。僕は素直にそうだね、と答える。
だが――ほんの少しだけ、引っかかることがある。
アリサは、さっき病院で僕の名前を、『景』と呼んだ。
アリサは最初に出会った幼稚園児の頃から、僕をずっと『景君』と呼んでいた。
どうして急に、呼び方を変えたのだろう。
喉が痛かったから、単純に短い言葉で呼びたかったのだろうか?
だが、咄嗟に名前を呼んだら、それが無意識であればあるほど、普段使っている呼び方で呼んでしまわないだろうか?
……まぁ、些細なことだ。そういう気分だった、というだけかもしれない。
家に帰ってからも、僕は嬉しさと興奮でほとんど眠れなかった。
ほぼ一睡もできなかったので翌朝になるとさすがに眠かったが、制服を着ながら、やはり落ち着かない気持ちだった。
もう学校なんて、行ってる場合じゃない!
全部サボって、本当ならすぐでも病院に飛んで行きたかった。面会時間がはじまるのと同時に病室に行って、今日はずっとアリサの側にいたい。
けれどあの事故のあと、しばらく学校を休んでしまったし、さすがに欠席はできなかった。
リビングに朝食を食べに行くと、僕の気持ちを見透かしてか、母さんが笑いながら言った。
「大丈夫よ、景。さっき冬月さんにメッセージをもらったけど、アリサちゃん、とっても元気だって。検査も順調だし、落ち着いたら、リハビリをするんですって。しばらく寝たきりだったから、退院までは、もう少し時間がかかるけど……。だから、ちゃんと学校に行ってから、お見舞いに行きなさい」
「うん、分かった!」
授業が終わると、気がはやるのを押さえながら、急いで病院に向かった。
アリサが目覚めて嬉しいのももちろんだが……もう一度きちんと確認しないと、不安なのだ。もしかしたら、またアリサが眠り続けてしまうのではないかと。
毎日のように来て、すっかり見慣れてしまった病院だけど、アリサが目覚めたというだけで、まったく違う場所に見える。
それまではなんだか憂鬱に見えた壁の色さえ、素晴らしいもののような気がしてきた。
大げさかもしれないが、真っ暗で閉じていた世界に、光が満ち溢れて生まれ変わったようだった。出会う人全員を抱きしめて、ダンスを踊りたいくらいだ。
僕は急ぎ足で廊下を歩き、アリサがいる病室の扉を開く。
アリサは、ちゃんと僕を待っていてくれた。
ベッドに座って、こちらに視線を向ける。
鏡を見なくても、自分がふにゃふにゃとにやけているのが分かる。
「具合はどう? 食欲はある? 何かお見舞い持って来ようかなって思ったんだけど、何がいいのか分からなくって」
アリサは穏やかな瞳で僕の顔を見て……それから、落ち着いた声で僕の名前を呼んだ。
「景」
その呼び方に、思わず息をのむ。
まるで心臓を素手でつかまれたような気分だった。
アリサの眼差しが、彼女の纏う空気が。
――あまりにも、千紗にそっくりだったから。
いや、元々顔はほとんど同じなのだ。
でも、アリサと千紗は雰囲気が全然違う。アリサはいつもにこにこ笑っていて、キラキラしていて明るくよく話した。千紗は無表情で、穏やかで、用事がない時は、自分から話すこともあまりない。
それに、名前の呼び方も。
アリサはいつも、僕のことを「景君」と呼ぶ。一方千紗は、僕のことを「景」と呼んだ。
ベッドに座っている少女は、冴えた月のような眼差しと、抑揚のない静かな響きを僕に向ける。
それは完全に、僕の知っている千紗そのものだった。
「……アリサ、もしかして、具合が悪い?」
アリサはガラス玉みたいな瞳で、じっと僕を見ている。
「なんか、雰囲気が違うから少し驚いたよ」
長い黒髪が、さらりと揺れる。
「景。今から言うことを、落ち着いて聞いて」
どうして突然名前の呼び方を変えたんだ?
軽く笑ってそう言おうとした僕に向かって、アリサは信じられないことを言った。
「私、千紗なの」
驚いて、また呼吸が止まるかと思った。
「……どういう意味?」
「私は、千紗なの」
思わず叫びだしそうになって、ぐっと拳を握り締め、何とかそれを自制する。
――落ち着け。
まだアリサは、目を覚ましたばっかりなんだ。混乱しているのかもしれない。
「……アリサ、いくらなんでもその冗談は、笑えないよ」
「冗談じゃない。アリサが眠っている間、身体を貸してもらうことにした」
「何、言って……」
「おそらく、事故の影響。人格を形成するもの――魂という言葉が分かりやすいと思うけれど、現在アリサの身体に、アリサの魂、そして私の魂の、二つの魂が同居している状態」
「魂……?」
アリサの身体の中に、千紗の魂がいる? つまり、僕が話しているのは、千紗だって?
僕は一瞬のうちに、様々な可能性を考えた。
事故の時アリサは頭を強く打って、それでおかしなことを言い出したのかもしれない。
千紗が死んだと知ったショックで、千紗に似た性格を演じてしまっているとか。精神的な病には詳しくはないが、そういう病があってもおかしくはない。
何しろ、千紗とアリサは双子の姉妹だ。
傍目に見ても仲が良かったし、どんなに親しい人間でも割って入れない、二人にしかない絆があった。千紗とアリサは互いに半身のようなものだったのだろう。千紗を失ったアリサのショックは、計り知れない。
僕が黙り込んでいると、アリサは困惑したように言った。
「私の頭がおかしくなったと思っているでしょう。無理もない。私も、自分で言っていて、半信半疑」
「いや、おかしいとは……」
「容易に想像できるのは、解離性同一性障害。かつては多重人格と呼ばれていたから、そちらの方が馴染みがあるかもしれない。精神的に大きなダメージやストレスを負ったことにより、本来とは違う別の人格が現れる疾患。けれど、私自身はこれに該当しないと考えている」
その言葉を聞いていた僕は、口元に手を当て、大きな溜め息をついてから言った。
「すごく……バカな言い方だけど……今の喋り方、すっごく千紗っぽかった」
彼女はしらっとした口調で話す。
「そうでしょう。本人だもの」
僕はまだ疑いながらも、考えを口にした。
「たとえアリサが自分を千紗だと思い込んでも、自分の知らない知識までは話せないと思うんだ」
「それはそう。自分を大人だと思い込んでいる小学生は、大学の入試問題を解けない」
「……魂がどうのっていうより、事故で死んだのは、千紗じゃなくてアリサだった可能性を考える方が、まだ現実的だけど」
「確かにその方が自然だけど、これは間違いなくアリサの身体。ほら、見て」
そう言って彼女は、突然パジャマの裾をめくりあげる。
「ちょっ、何して……!」
ここだけ看護師さんに目撃されたら、勘違いされそうな光景だ。




