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テセウスの船はもう見えない  作者: 御守いちる


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3-1



転機は突然だった。


その日もいつものように、学校の帰りに病院へお見舞いに行った。

アリサが目覚めるまで、僕は絶対に毎日病院に通うつもりだった。半ば強迫観念に近い思いがあった。

たとえ、どれだけ年月がかかっても。


でも、本当にそんなことが可能なのだろうか。

一年、二年、三年、もっと年月が経って、それでもアリサが目覚めなくても、僕は毎日アリサに会いに来ることができるだろうか?


アリサは眠ったままなのに、僕は高校を卒業し、大人になって、そのうちだんだん足が遠ざかって、それでもアリサがずっと目覚めなかったら――。


振り払いたいのに、少しでも気を抜くと、不安に胸を掻きむしられる。

病室の窓を開けて空気を入れ換えて、ぼんやりと外を眺めた。

アリサの部屋は日当たりがいい。昼間だと、ぽかぽかした日差しが差し込んでいる。

僕は返事が返ってこないことを分かりながらも、今日もアリサに話しかけた。


「良い天気だよ、アリサ。今年の梅雨は、あんまり雨が降らなかったな。去年みたいに、暑い日が続くの

かな。瀬川は部活がグラウンドでできるから、喜んでるけど。雨で体育館の練習になると、筋トレとかになっちゃうんだってさ」


そんな他愛のない内容を、話した時だった。

背中で、何かがかすかに動く気配を感じた。


「……け……い……」


背後にあるベッドから、今にも消えてしまいそうな、掠れた声が聞こえた。僕は目を見開き、信じられないと思いながら振り返る。


「アリサ……?」


幻聴だろうか。

しかし名前を呼ぶと、彼女はほんとうに少しだけ唇を上げ、薄く微笑んだ。

ずっと閉じられたままだった目蓋が、重そうに瞬きをする。

そして唇をゆっくりと動かし、やはり弱々しく細い声で言う。


「景……」


ずっと喋っていなかったから、声が枯れているのだろう。

だけど僕は彼女の声を、確かに聞いた。

アリサの声が、僕の鼓膜を、全身を震わせた。


「っ……! アリサ! 意識が、意識が戻っ……!」


僕は彼女の近くに駆け寄り、アリサの手をぎゅっと握りしめる。

しっかりと顔を見たいと思うのに、ぶわっと涙があふれ、勝手に視界がぼやけてしまう。

言葉の途中で色んな感情があふれてきて、一言も喋れなくなってしまった。

彼女が目覚めるのを、どれだけ望んだだろう。

アリサはまだ夢を見ているような表情で、目線だけを動かし、周囲を観察する。


「……ここ、病……院?」


僕ははっとして、その問いかけに答える。


「そうだよ! 事故のこと、覚えてる?」

「事故……?」

「いや、それよりおばさんとおじさんに連絡しないと! あ、あと看護師さんを呼んだ方がいいよな! 待ってて、アリサ!」


僕は病室から廊下に飛び出し、歩いていた看護師さんをつかまえた。

看護師さんは僕の様子にぎょっとした顔をする。勢いあまって、足がもつれて転びそうになった。


「すみません、すみません! 早く来て下さい! アリサが目を覚ましたんですっ!」


看護師さんの腕を引っ張りながら、まだ現実なのか信じられなかった。

その後担当の医師がきて、アリサは検査をすることになった。

おじさんとおばさんも急いで病院に駆けつけた。


けっこうな騒ぎになってしまった。

僕はアリサが別の部屋で検査している間、ずっとそわそわしながら廊下をうろついていた。

時間がたつにつれて、ようやく喜びが脳に伝達された。


嬉しい、嬉しい、嬉しい!

さっきまでは驚きで現実味がなかったけれど、じわじわと喜びが全身に広がっていく。

まだこれが現実なのか、信じられなかった。もしかしたら、夢じゃないか?

僕は無意味に何度も何度も頬をつねった。



やがて、アリサは病室に戻って来た。

アリサは色々検査されたみたいだけど、このまま経過が順調だったら、リハビリが完了すれば退院できるらしい。

それを聞いて、僕は何度もよかった、と呟いた。

自分の意思に反して勝手に涙が出てくるのが恥ずかしかったが、アリサのおじさんもおばさんもボロボロ泣いていたので、思わず三人で抱き合って喜んだ。

アリサが目覚めて、本当によかった。当のアリサ本人が、一番落ち着いているように見えた。

アリサはベッドで横になり、おじさんとおばさんに事故のことを説明された。彼女は事故の日の記憶を、ゆっくりと辿っているようだ。


「……そう。あの日から……そんなに時間が経っているんだ……」


納得したように頷いてから、アリサは不思議そうに二人の顔を見る。おばさんは僕の肩に手を添えながら言った。


「景君が、毎日お見舞いに来てくれたのよ! ありがとう。アリサが目覚めたのも、景君のおかげかもしれない」

「いえ、僕は本当に何もしてないんで……」


アリサは真剣な表情で、静かに問いかけた。

「ねぇ、お父さん、お母さん。……千紗、は?」

先ほどまでの楽しかった空気が萎んでしまったように、病室がしんと静まる。

「千紗は……」

おじさんが悲しそうに顔を歪め、それから静かに告げる。

「千紗はあの時の事故で、死んでしまったんだ。即死だった」

アリサは目を見開き、一言だけ呟いた。

「そう……」

「千紗がいなくなってしまった悲しみが癒えることはないよ。きっと、一生。だけど、アリサ、お前が目覚めてくれて、本当によかった。千紗を失ったうえに、アリサまで目覚めなかったら、私たちは永遠に立ち直れないところだった」


そう言って、おじさんとおばさんはアリサのことを抱きしめた。

家族団欒の時間を邪魔するのは、野暮だろう。

僕もアリサと話したくてたまらなかったが、しばらく席を外すことにした。とはいえ、アリサと話したいという気持ちはおさまらなかった。


しばらく病院をうろうろしていたが、やることもないし、ずっとそわそわして落ち着かない。

やがて面会終了時間直前に病室に戻ると、アリサの両親といつ到着したのか、うちの母が、和気あいあいと会話していた。


なんだ、うちの親もいたならもう少し早く病室に戻ればよかった。

もうすぐ九時半を過ぎるが、まだみんな夕飯もまだ食べてなかったので、帰りにアリサ以外の全員で食事をして帰ろうということになったらしい。


僕は、アリサに声をかけて帰宅することにした。

「疲れただろ、母さんまで来て騒いじゃって」

そう話すと、アリサは小さく微笑んで言う。

「ううん、みんなに喜んでもらえて、私も嬉しい」


まだ声は出しづらそうだが、きっとすぐに回復するだろう。

彼女の笑顔を見られただけで、また涙が出そうになった。

「今日はゆっくり休んで。明日、また絶対面会に来るから」

そう言って、部屋を出ようとした時だ。



「――景」



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