2-1
「景、学校は?」
「今日も休む」
朝母に声をかけられると、部屋の中からそう返事をするのが習慣になっていた。
初七日が過ぎた。
千紗とアリサのおじさんとおばさんはげっそりと痩せ細り、見ているだけで気の毒だった。
学校を休む日が一週間を超えると、さすがに母はそわそわしだした。
父の機嫌を伺っているようだ。青い顔をしている母には申し訳ないが、僕はまだ立ち直れなかった。
父は、相変わらず不機嫌そうな顔で僕を睨んだ。
僕はずっと、父が怖かった。幼い頃から、僕も母も、常に父の機嫌を伺っていた気がする。
けれど今の僕は、前ほど父のことを脅威だと感じなくなっていた。なんだかもう、全部どうでもよかった。
ある日父から呼び出され、久しぶりに顔を合わせると、彼は僕に問いかけた。
「いつまで学校を休む気だ」
「……もう少ししたら、行くから」
事情が事情だから強くは言えないが、このまま僕が不登校になってしまうのも望ましくないと思っているのだろう。
分かっている。分かっているけれど、登校すれば、嫌でも千紗とアリサのいない学校を目の当たりにしてしまう。だからどうしても、行く気になれなかった。
そのくせ、僕はアリサの病院には毎日通うようにしていた。
昼過ぎまで自分の部屋で閉じこもり、ゴロゴロしている。その頃には両親はふたりとも仕事に行ってしまっているので、もそもそとパンを食べる。それから自転車でアリサの入院している病院に向かうのが、ここ数日の流れだった。
我ながら、ろくでもない人間だと思う。
しかし病院に行ってアリサが生きているのを確認しなければ、アリサまでいなくなってしまうような妄想にかられた。
平日の昼間でも、総合病院の受付には長蛇の列が出来ていた。
看護師さんはみんな忙しそうだなぁと考えながらリノリウムの床を歩き、真っ白な壁を横目で見る。
最初は看護師さんに「学校は?」と聞かれるのが気まずかったが、何日か通ううちに、すっかり顔なじみになり、世間話までするようになってしまった。
僕はアリサの病室の扉をそっと開く。
二人部屋だが、運良く同室の人が退院したばかりで、部屋にいるのはアリサだけだ。
部屋の棚にはアリサの友人からの手紙やお見舞いの品が、山積みになっている。僕はベッドの横に置いてある椅子に腰掛けた。
「アリサ、具合はどう?」
やはり返事は返ってこない。
だけど眠っている間も、相手に声は届いているという話を、前に千紗から聞いたことがあった。だから僕はなるべくここに来ている間は、積極的にアリサに話しかけるようにしていた。
「今日は良い天気だよ。でも、もうすぐ梅雨だね。アリサは梅雨になると、髪の毛がはねるからって、嫌がっていたよね」
『梅雨なんて嫌いっ!』と叫んでいたアリサの姿を、懐かしく思う。
点滴で栄養が送られているが、それだけでは足りないのか、アリサの顔は少し痩せたように感じる。
千紗が死んでから、十日が過ぎた。
だけど、アリサは目覚めない。
医師の話では、数日後に目が覚めるかもしれないし、もしかしたら、何年も眠り続けるかもしれないらしい。最悪、一生目覚めない可能性だって、ないとは言い切れないと。
僕は人形のように眠っているアリサを見て、途方もない恐怖にのみこまれそうになった。
このままじゃ、千紗だけでなく、アリサまで失ってしまうかもしれない。最悪の想像をして、頭を横に振る。
「アリサ、僕の声、聞こえる?」
何度問いかけても、返事はなかった。
家に帰ると、仕事が終わったばかりらしい母に声をかけられた。
「景、よかったわ、帰ってきてくれて。電話したんだけど」
言われてスマホを見ると、確かに通知が入っていた。
「ごめん、気付かなかった。何かあったの?」
母さんは僕を気づかうように問いかける。
「景のクラスの子が来てくれて、今リビングにいるんだけど……大丈夫?」
息子にまで、そんなに気をつかっていたら疲れてしまわないだろうか。
「誰?」
「瀬川君って子なんだけど」
――瀬川?
意外な人物に、僕は目を見開いた。
おそらく今までも何度か電話をくれていた担任が、僕を気づかって生徒の誰かに「様子を見に行ってくれ」と頼んだのだとは、察しがついた。
それにしたって、なぜ瀬川を選んだのだろう。
まぁ、僕には挨拶くらいはする人はいても、まだクラスに特別親しいと言える友人もいないんだけど。だからたまたま前の席に座っていた瀬川に白羽の矢が立ったのだろうか。だとしたら、彼にとってはいい迷惑だろう。申し訳ないと考えるのと同時に、またあの不機嫌そうな顔をされたら嫌だなぁと、少し胃が痛んだ。
「そっか、分かった、すぐに行くよ」
リビングの扉を開けると、瀬川がソファに座ってお茶を飲んでいた。
学校でしか会わない瀬川が僕の家にいるのは、なんだか変な感じだ。
たった十日かそこらしか経っていないのに、ずいぶん懐かしい気がした。
瀬川は相変わらず野球に打ち込んでいるらしく、前に会った時より日焼けしていた。思わず自分の生白い腕と比べてしまう。健康的で生き生きとした彼の姿が、眩しいと思う。瀬川は生命力に溢れていた。まるで僕とは別の種類の生き物みたいだ。
瀬川は物怖じしない様子で、話し始めた。
「……急に来て悪いな。担任に、様子見てこいって言われてさ」
「瀬川は、そういうことやらないと思ってた」
「何でだよ」
「周囲の人に興味とか、あんまりなさそうなイメージだなって」
瀬川は溜め息を吐きながら言った。
「無関心とか鉄仮面とか言われるけど、別に普通だよ。そもそも野球はチームプレイだし。他人に感心なかったら、やれないって」
「そういう、ものなんだ」
僕は瀬川を見て、少しだけ千紗に似ているかもしれないと思った。分かりにくいだけで、本当は優しい人なのかもしれない。
「どうしてんのか気になったし。元気か? って、元気なわけないよな」
瀬川はだいたいの事情を知っているようだ。気を使ってくれているからか、いつもより角の取れた話し方だった。
「ありがとう、部活で忙しいのに、わざわざ来てくれて」
「別に」
そう言ってから、瀬川はふっと笑った。
「どうしたの?」
「いや、すげー棒読みだと思って」
緊張しているのを見破られ、僕はドキリとした。
「俺のこと苦手だと思ってるだろ?」
「いや……そんなことないけど。瀬川がっていうか、誰にでも人見知りしてしまうだけだから」
「別に取って食いやしないよ」
瀬川は鞄からプリントの束を取り出した。
「これ、宿題とかノートとか。一応、俺がとってるんだけど、全部はとりきれてないかも」
「え、そんなことまでしてくれてたのか。申し訳ないな」
「別に、俺がやりたくてやっただけだから」
僕は受け取ったノートを、パラパラとめくってみる。
瀬川の字は、想像よりずっと几帳面で、整然として読みやすい。勝手なイメージだけれど、身体が大きいから、何となく乱雑なイメージを持っていた。
綺麗な文字が、何ページも何ページも並んでいる。
部活の練習だってキツいだろうに、二人分のノートを取るのは、どれだけ大変だったのだろう。そもそも僕の記憶では、瀬川は授業中、よく居眠りしていた。それなのに、僕のために頑張ってくれたのだろうか。
涙腺がバカになっているのか、そんな瀬川の様子を想像しただけで声が詰まった。
「本当に、ありがとう。……すごく、嬉しいよ」
自分を待ってくれている人がいるというだけで、ほんのりと胸があたたかくなった。
「学校、来れそうか?」
「……うん、考えてみる。瀬川のおかげで、ちょっと元気出た気がする」
そう話すと、彼は眉を寄せてむずがゆそうな顔をした。
「お前、よくそんなことが言えるな」
「え? 本当に嬉しかったんだよ」
「……いや、別にいいや。とにかく、無理すんなよ」
瀬川は僕の肩をぽんと叩いて、帰っていった。
僕は彼が出ていった後、もう一度ノートを眺める。
瀬川のぶっきらぼうな口調を思い出すと、少し口元が緩んだ。
そわそわとこちらの様子を気にしていた母に、声をかけた。
「母さん、僕、明日から学校に行こうと思う」
そう話すと、母はほっとしたようだった。
……これでいいんだ。いい加減、現実を受け止めないといけない。
千紗がこの世にいないことは悲しいけれど、僕が泣いていたって、千紗が帰ってくるわけじゃない。




