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テセウスの船はもう見えない  作者: 御守いちる


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10-1



やがて僕たちは高校を卒業し、東京の大学に進学することになった。

大学自体は別のところだが、僕たちは実家を出て、二人で暮らそうと決意していた。

互いの両親への許可ももらった。


反対されるのを覚悟していたが、同じ部屋でではなく、隣の部屋を契約するのなら、と思いの他あっさりと許しが出た。


まだ大学への入学が決まったばかりだから、未来のことは分からないけれど、卒業したら、僕たちは結婚するつもりだ。


本当はすぐにでも結婚したかったけれど、僕たちの両親は言った。


たくさんの人に出会って、ゆっくり考えて、それでも互いを好きだと思ったら、結論を出しなさいと。

その通りだと思った。


きっと気持ちが変わることはないけれど、どれだけ時間がかかってもいい。

隣に千紗が、いてくれればいい。



二月を過ぎると、家を出るために荷造りを始めた。

電車で一時間くらいで行き来できるし、そんなに距離は離れていないとはいえ、ずっと住んでいた家から出るのは、少し寂しいものがあった。

まあ父さんは、僕がいない方がせいせいするだろうけど。


大学の話をしてから最近ますます家に帰ってこなくなったし、父さんも僕の顔を見たくないのだろう。

父の望んだ法学部に進まなかったことも、てっきり大声で怒鳴られて反対されるかと思ったが、すんなり受け入れられてしまった。もはや見放されているのかもしれない。


「よし、これで大体必要な物は準備できたかな?」

僕はダンボールを積んで、ガムテープでとめる。

物が少なくなると、部屋の中も、だいぶガランとした。まぁ長期の休みには戻って来るんだけど。

母さんが階段をのぼってきて、僕に声をかける。

「景、準備は終わった?」

「うん、大体は」

「渡さないといけない物があったのよ」

「何?」

「これ、お父さんから」


そう言って母さんが差し出したのは、僕が子供の頃好きだった、ピアニストのCDだった。

最初に浮かんだ感情は、困惑だ。

「……え? 何これ、嫌味?」

思わずそう口にすると、母さんは堪えきれなくなったように笑った。

「違うわよ。あのね、お父さん、ずっと後悔していたのよ」

「え?」

「景の将来のためを思ってピアノを辞めるように言ったけれど、それが景を苦しめることになったって。でも、不器用だから、上手に伝えられなくて。そのCDも、ずっと前から渡そうとしていたのよ。本当に、何年も何年も前から。だから、持って行ってあげて」

僕はそれを聞いて、指先でCDのジャケットをそっと撫でる。

「……ほんと、どうしようもないね、父さんは」

「そうでしょう?」


僕たちは、ずっとまともに親子として接してこなかった。

だけど大学生活が落ち着いて、今度帰省する時は、一度ゆっくりと父さんと会話しよう。素直にそう思うことが出来た。





「春になったら、大学生だね。あんまり想像できないけど、僕たちも、色々変わるのかな」


高校の卒業式も終わり、春休み、僕と千紗は近所のカフェにいた。

家に近くにあるこのカフェには、色々思い出がある。

落ち着いた雰囲気だったから、受験勉強をここでしたこともある。

千紗とアリサと、ここで何時間も話したこともある。


思い出すと、つい口元が緩んだ。

このカフェにも、これからしばらくは来られなくなるだろう。


「ええ。変わることもあるけれど、きっと変わらないこともある」

向かいに座っている千紗の服装も、ずいぶん変わった。

事故にあう前の千紗は「動きにくいから」とスカートを履くことはほとんどなかったが、最近はずっとスカートやワンピースばかり着ている。

アリサがよく着ていた系統の服を、好んで着るようになった。


とはいえ謎の言葉が書かれたTシャツたちも、部屋着として利用されているようだが。

この間、『天敵☆マングース』という意味不明なTシャツを着ている千紗を発見し、なぜだかすごく安心した。


千紗は髪の毛を結ぶのがうまくなった。化粧も上手になった。

高校時代の友達とも時折連絡を取り合い、明るい声で会話をしている。二泊三日の卒業旅行にも行っていた。

千紗は、交友関係がずいぶん広がった。昔の千紗からは、考えられない変化だ。


「景、今度の休みはどこか一緒に出かける?」

喋り方も少しやわらかくなり、以前よりよく笑うようになった。

アクセサリーを好まなかった千紗の左手の薬指には、華奢なリングがついている。僕と一緒に選んだペアリングだった。


「この前友達がすすめてくれた映画なんだけど、すごく感動するんだって。今度、一緒に見に行かない?」


千紗がまったく見なかったような、恋愛映画も好んで見るようになった。


僕は時折考える。

もしかしたら、冬月千紗という人間は、この世界から消失してしまったのだろうか?


千紗は僕以外の人の前では、アリサとして振る舞っている。

仕方のないことだ。

身体も名前も、アリサなのだから。


無理をしなくても、千紗らしく生きればいいんじゃないかと、何度も説得した。

けれど千紗は、無理をしているのではないと微笑んだ。

自分が千紗として生きれば、今までアリサの築いてきたものが消えてしまう。だから、アリサでいられるうちは、アリサらしくするのだと言った。


だけどそれはひどく窮屈な、苦しみを伴うことではないのだろうか。

僕は時々、分からなくなる。


アリサのような千紗は、本当に千紗なんだろうか。

僕の不安を見透かしたように、千紗は穏やかに微笑んだ。


「アリサが言っていたんでしょう。アリサの身体で、アリサの魂を受け継いで、アリサの心を感じて。もし私がアリサを忘れなければ、私たちは、ずっと一緒に生きられる」


僕はそれに頷いた。


何も心配することなど、ないのだろう。

僕にできるのは、隣で千紗を見守ることだ。



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