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テセウスの船はもう見えない  作者: 御守いちる


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25/29

8-4



病室の近くに置いてある長椅子に座っていた僕は、いつのまにか眠っていたようだ。

見ながら、「これは夢だ」と分かる夢を見た。


こんなことが、つい最近もあった。

夢の舞台も、やはり病院だった。

ずっと通っているからだろうか。

いつもの入り口を通り、いつもの廊下を歩き、僕はいつもと同じように、千紗の眠っている病室へ向かう。


けれど現実と違ったのは、眠っているはずの千紗が、ベッドから起き上がったことだった。

「千紗!」


彼女は白いワンピースを着ていた。

ふわりとベッドから飛び降り、子供のようにクスクスと笑いながら、走って病室から出て行く。

僕は必死に、長い黒髪を追いかける。

「待ってくれ!」


彼女は重さのない羽根のように階段をのぼり、屋上の扉を開く。

美しい黒髪が、サラサラと風に吹かれて流れた。


屋上は眩しく、光が降りそそいでいた。

僕はその目映さに、思わず目を細める。


彼女は屋上で、僕のことを待っていた。

パッチリした瞳をキラキラ輝かせ、大人っぽく笑みを作る。まるで彼女自身が輝いているようだった。


「アリサ……なのか……?」

「そうだよ、景君」


千紗より、少しだけトーンの高い声がした。

「アリサっ……!」


僕はアリサに駆け寄った。

彼女は白いワンピースの裾をはためかせながら、小さく微笑む。


「久しぶりだね、景君」

「……うん」

「千紗と話すことはできなかったけれど、ずっと眠りながら、周囲の声を聞いていたの」

その言葉に、心臓がぎゅっと苦しくなる。


「どちらか選んで、と千紗が言ってたね?」


アリサは細い両手を、僕の方へ差し伸べた。



「ねぇ、景君は、私を選んでくれるの?」



「……っ」


答えは最初から決まっていた。

迷う必要はない。


手の届く方を選ぶ。


いつも僕のことを引っ張ってくれた、アリサの長い指。

みんなに愛された、華やかな笑顔。

いい香りのする、綺麗に結ばれた髪。



アリサの瞳が、まっすぐに僕を見ていた。

喉が引きつる。


「……アリサのことを、選ぶ。だって、アリサの身体なんだから」

僕はゆっくりと、自分の手を彼女に重ねようとした。

「そうするって、決めてた……ずっと」


「決めてた?」

「うん。僕はアリサに、帰ってきてほしい」


彼女の顔が、くしゃりと泣きそうに歪む。

アリサの声が、硬く拒絶する響きに変わった。


「嘘が下手だね、景君」


伸ばしかけた自分の手を、ぎゅっと握り締める。


「嘘じゃないんだっ!」



嘘じゃない。

嘘じゃない。


――嘘じゃない。


アリサを選ぶと言った言葉に、偽りはない。


アリサに帰ってきてほしい。

アリサは僕にとって、かけがえのない人だ。


千紗と同じくらい、大切な人だ。

もしアリサが一人っ子で、隣に引っ越してきた女の子がアリサだけならば、僕はとっくに彼女を好きになっていただろう。


そして、アリサと付き合っていたかもしれない。

アリサと結婚していたかもしれない。



千紗がこの世界に、最初からいなければ。



でも、そんなもしもに何の意味もない。


「嘘じゃない。嘘じゃない、だけど……」


――だけど僕は。


唇を噛んだ僕の肩を、アリサがなだめるように撫でる。

「ねぇ景君、本当の気持ちを教えてよ」


僕は首を横に振る。

言ってしまったら、終わってしまうから。


「隠してたって、無駄なんだよ。私、分かってたもん」


彼女に促され、言葉が零れ落ちた。



「千紗を、連れて行かないで……」



僕はその場に膝をつき、頭を垂れた。


喉が締まり、嗚咽がこぼれる。

僕はとても、アリサの顔を見られなかった。

どうしてこんなひどいことが言えるのだろう。


絶対に許されない。

どんな罰を受けてもいい。

僕は地獄に墜ちてもいい。


だけど、僕がいなくなってもいいから、千紗にはこの世界に戻ってきてほしかった。



「景君はね、最初から迷う必要なんてなかったんだよ」

アリサの指が、僕の涙を拭った。

「やっとあの時の恩返しができる。私ね、後悔していたの」

「後悔?」


「事故の日ね。その気になれば、私は千紗を助けられた」


その言葉に、心臓が大きく脈打つ。

「どういう、こと?」


「車がこっちに突っ込んでくる時って、本当にスローモーションみたいに、周囲の景色がゆっくり見えるのね。多分、動こうと思えば動けた。だけど車に轢かれるのが怖くて、私は足がすくんで動かなかった。結局千紗が私を庇って、私を突き飛ばした」


それまで穏やかだったアリサが、声を震わせて叫ぶ。


「その結果、私だけ助かった!」

「アリサ、それは……」

「いつもお姉ちゃんだなんて言ってるくせに、結局私は自分のことを守った!」

「そんなの、当たり前じゃないかっ!」


僕は息を切らして、アリサに告げる。

「誰だって、怖いよそんなの! 自分が死ぬかもしれないって時に、咄嗟に誰かを守るなんて、できなくて当たり前だよ! 誰がアリサを責められるって言うんだ!」

「でも千紗は、その恐怖を乗り越えて、私を助けてくれたんだよ」

アリサの悲痛な声に、僕は何も言えなくなった。


「千紗に申し訳ないと思っていたことは、もう一つあってね」

彼女の唇から、震えた息がもれる。


「本当は私、千紗と景君が両想いだって、分かっていた」


僕は思わず言葉を失う。


「……知ってたのか」

「当然じゃない。だって、私はずっと二人の一番近くにいたんだもの。だけど、私、二人が付き合うことになったら……、そうしたら、私は邪魔になると思って」

アリサの瞳から、透明な雫がこぼれる。


「二人に、お前はいらないって言われるのが怖くて」

「言わないよ、そんなこと! 言うわけないだろ!?」


アリサは消えそうな声で続けた。

「だから、千紗に相談したの。景君が好きだって、言ったの。最低でしょう?」

「最低じゃないよ」

「それを言ったら、どうなるか分かっていて、千紗がどうするか分かっていて、言ったのよ!」


アリサはぎゅっと自分の手を握り締める。

「千紗は想像通り、あなたの告白を断った。千紗は、景君に告白されたことを話さなかった! でも、二人の態度で分かるわよ。しばらく、あからさまにギスギスしてるんだもの」


「アリサ……」

「冷静だ、機械みたいだなんて言われるけど、千紗は私なんかよりずっと優しいのよ。いつも、私が欲しいって言ったもの、全部くれるの。別に千紗は、最初から水色が好きなわけじゃなかった。私がピンクが好きだって言ったから、いつも自分は水色を選んでいただけ。千紗の物だったとしても、私が欲しいと言えば、千紗は全部私に譲ってくれた」


アリサの笑顔が、自嘲気味に歪む。こんな風に笑うアリサなんて、見たことがなかった。

「だから、分かってた。景君のことだって、譲ってくれるだろうなって。全部分かっていてやったの。最低でしょ? こんなの、お姉ちゃん失格だよね」


アリサはいつも、僕たちの前で笑顔だった。


眩しくて天使みたいで、悩みなんてないと思った。

僕のように、自分が嫌になったり、責めることもないと思った。

同じ歳なのに、お姉ちゃんだと言い張って、僕と千紗の手を引いて歩いてくれた。


……本当は彼女もずっと、不安だったんだ。


「最低なんかじゃないよ。どんなアリサだって、アリサはアリサだろ? 僕と千紗にとって、それは変わらないよ」

それを聞いたアリサは、ぎゅっと目を閉じた。

「私……、話すことはできなかったけれど、ずっと千紗の声を聞いていたの」

最初の頃のアリサのふりを思い出して、僕はふっと微笑む。

「最初は、下手くそだったよね」

「ええ。でも、だんだんまるで私みたいになってきた。そうしたら、それは本当に千紗なのかな?」

「どういうこと?」


「テセウスの船の話、してたでしょう。全部入れ替わったら、もうその船じゃないって人と、それでも確かに元の船のままだって言う人がいる。景君は、どう思う?」


僕は黙って考え込む。

「私の身体に千紗の魂が入って。千紗は、私をなぞって人生を過ごして。そうしたら、それは千紗とアリサ、どっちだと思う?」


アリサが何をしようとしているのかと察し、僕は首を横に振った。


「……アリサ」

「私はね、どっちでもあると思うの。私の身体で。私の魂を受け継いで。私の心を、感じて。もし千紗が私を忘れないでいてくれるのなら、私は千紗と一緒に、ずっと生きられるんじゃないかって思うの。ね、それって素敵だと思わない?」


アリサは僕を抱きしめ、僕の頬にそっと唇を寄せた。

二人の涙が一緒にぽろぽろと零れ落ちて、頬を濡らす。

「大好きよ、景君。もし今度生まれかわったら、恋人じゃなくてもいいから、またあなたの側にいてもいい?」


僕は精一杯の気持ちで頷く。

「僕も大好きだ、アリサ。ずっとずっと、君のことが大好きだった」

「うん、知ってる。私の欲しい好きとは、違ったけれど」

「アリサ……」


アリサは困ったように微笑み、人差し指で僕の唇に触れた。

「いいよ。お姉ちゃんは、何でも知ってるからね」

アリサの身体が、白い光に包まれる。


「ねぇ、景君。伝言頼んでいい? お父さんとお母さんに、今までありがとうって」

「……うん」

僕はアリサの声を、頭に刻み込む。

きっと彼女を止めるなら、最後のチャンスだ。

大声で叫び出したかった。


アリサの手をつかんで、引き止めたかった。

だけど僕は、何も言わなかった。何もしなかった。

きっとこのことを、一生後悔するだろう。


「さよなら、景君。千紗のこと、私の分まで幸せにしてあげて。私の大切な、妹だから」

そう言って、アリサは光の中に消えてしまった。




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