8-4
病室の近くに置いてある長椅子に座っていた僕は、いつのまにか眠っていたようだ。
見ながら、「これは夢だ」と分かる夢を見た。
こんなことが、つい最近もあった。
夢の舞台も、やはり病院だった。
ずっと通っているからだろうか。
いつもの入り口を通り、いつもの廊下を歩き、僕はいつもと同じように、千紗の眠っている病室へ向かう。
けれど現実と違ったのは、眠っているはずの千紗が、ベッドから起き上がったことだった。
「千紗!」
彼女は白いワンピースを着ていた。
ふわりとベッドから飛び降り、子供のようにクスクスと笑いながら、走って病室から出て行く。
僕は必死に、長い黒髪を追いかける。
「待ってくれ!」
彼女は重さのない羽根のように階段をのぼり、屋上の扉を開く。
美しい黒髪が、サラサラと風に吹かれて流れた。
屋上は眩しく、光が降りそそいでいた。
僕はその目映さに、思わず目を細める。
彼女は屋上で、僕のことを待っていた。
パッチリした瞳をキラキラ輝かせ、大人っぽく笑みを作る。まるで彼女自身が輝いているようだった。
「アリサ……なのか……?」
「そうだよ、景君」
千紗より、少しだけトーンの高い声がした。
「アリサっ……!」
僕はアリサに駆け寄った。
彼女は白いワンピースの裾をはためかせながら、小さく微笑む。
「久しぶりだね、景君」
「……うん」
「千紗と話すことはできなかったけれど、ずっと眠りながら、周囲の声を聞いていたの」
その言葉に、心臓がぎゅっと苦しくなる。
「どちらか選んで、と千紗が言ってたね?」
アリサは細い両手を、僕の方へ差し伸べた。
「ねぇ、景君は、私を選んでくれるの?」
「……っ」
答えは最初から決まっていた。
迷う必要はない。
手の届く方を選ぶ。
いつも僕のことを引っ張ってくれた、アリサの長い指。
みんなに愛された、華やかな笑顔。
いい香りのする、綺麗に結ばれた髪。
アリサの瞳が、まっすぐに僕を見ていた。
喉が引きつる。
「……アリサのことを、選ぶ。だって、アリサの身体なんだから」
僕はゆっくりと、自分の手を彼女に重ねようとした。
「そうするって、決めてた……ずっと」
「決めてた?」
「うん。僕はアリサに、帰ってきてほしい」
彼女の顔が、くしゃりと泣きそうに歪む。
アリサの声が、硬く拒絶する響きに変わった。
「嘘が下手だね、景君」
伸ばしかけた自分の手を、ぎゅっと握り締める。
「嘘じゃないんだっ!」
嘘じゃない。
嘘じゃない。
――嘘じゃない。
アリサを選ぶと言った言葉に、偽りはない。
アリサに帰ってきてほしい。
アリサは僕にとって、かけがえのない人だ。
千紗と同じくらい、大切な人だ。
もしアリサが一人っ子で、隣に引っ越してきた女の子がアリサだけならば、僕はとっくに彼女を好きになっていただろう。
そして、アリサと付き合っていたかもしれない。
アリサと結婚していたかもしれない。
千紗がこの世界に、最初からいなければ。
でも、そんなもしもに何の意味もない。
「嘘じゃない。嘘じゃない、だけど……」
――だけど僕は。
唇を噛んだ僕の肩を、アリサがなだめるように撫でる。
「ねぇ景君、本当の気持ちを教えてよ」
僕は首を横に振る。
言ってしまったら、終わってしまうから。
「隠してたって、無駄なんだよ。私、分かってたもん」
彼女に促され、言葉が零れ落ちた。
「千紗を、連れて行かないで……」
僕はその場に膝をつき、頭を垂れた。
喉が締まり、嗚咽がこぼれる。
僕はとても、アリサの顔を見られなかった。
どうしてこんなひどいことが言えるのだろう。
絶対に許されない。
どんな罰を受けてもいい。
僕は地獄に墜ちてもいい。
だけど、僕がいなくなってもいいから、千紗にはこの世界に戻ってきてほしかった。
「景君はね、最初から迷う必要なんてなかったんだよ」
アリサの指が、僕の涙を拭った。
「やっとあの時の恩返しができる。私ね、後悔していたの」
「後悔?」
「事故の日ね。その気になれば、私は千紗を助けられた」
その言葉に、心臓が大きく脈打つ。
「どういう、こと?」
「車がこっちに突っ込んでくる時って、本当にスローモーションみたいに、周囲の景色がゆっくり見えるのね。多分、動こうと思えば動けた。だけど車に轢かれるのが怖くて、私は足がすくんで動かなかった。結局千紗が私を庇って、私を突き飛ばした」
それまで穏やかだったアリサが、声を震わせて叫ぶ。
「その結果、私だけ助かった!」
「アリサ、それは……」
「いつもお姉ちゃんだなんて言ってるくせに、結局私は自分のことを守った!」
「そんなの、当たり前じゃないかっ!」
僕は息を切らして、アリサに告げる。
「誰だって、怖いよそんなの! 自分が死ぬかもしれないって時に、咄嗟に誰かを守るなんて、できなくて当たり前だよ! 誰がアリサを責められるって言うんだ!」
「でも千紗は、その恐怖を乗り越えて、私を助けてくれたんだよ」
アリサの悲痛な声に、僕は何も言えなくなった。
「千紗に申し訳ないと思っていたことは、もう一つあってね」
彼女の唇から、震えた息がもれる。
「本当は私、千紗と景君が両想いだって、分かっていた」
僕は思わず言葉を失う。
「……知ってたのか」
「当然じゃない。だって、私はずっと二人の一番近くにいたんだもの。だけど、私、二人が付き合うことになったら……、そうしたら、私は邪魔になると思って」
アリサの瞳から、透明な雫がこぼれる。
「二人に、お前はいらないって言われるのが怖くて」
「言わないよ、そんなこと! 言うわけないだろ!?」
アリサは消えそうな声で続けた。
「だから、千紗に相談したの。景君が好きだって、言ったの。最低でしょう?」
「最低じゃないよ」
「それを言ったら、どうなるか分かっていて、千紗がどうするか分かっていて、言ったのよ!」
アリサはぎゅっと自分の手を握り締める。
「千紗は想像通り、あなたの告白を断った。千紗は、景君に告白されたことを話さなかった! でも、二人の態度で分かるわよ。しばらく、あからさまにギスギスしてるんだもの」
「アリサ……」
「冷静だ、機械みたいだなんて言われるけど、千紗は私なんかよりずっと優しいのよ。いつも、私が欲しいって言ったもの、全部くれるの。別に千紗は、最初から水色が好きなわけじゃなかった。私がピンクが好きだって言ったから、いつも自分は水色を選んでいただけ。千紗の物だったとしても、私が欲しいと言えば、千紗は全部私に譲ってくれた」
アリサの笑顔が、自嘲気味に歪む。こんな風に笑うアリサなんて、見たことがなかった。
「だから、分かってた。景君のことだって、譲ってくれるだろうなって。全部分かっていてやったの。最低でしょ? こんなの、お姉ちゃん失格だよね」
アリサはいつも、僕たちの前で笑顔だった。
眩しくて天使みたいで、悩みなんてないと思った。
僕のように、自分が嫌になったり、責めることもないと思った。
同じ歳なのに、お姉ちゃんだと言い張って、僕と千紗の手を引いて歩いてくれた。
……本当は彼女もずっと、不安だったんだ。
「最低なんかじゃないよ。どんなアリサだって、アリサはアリサだろ? 僕と千紗にとって、それは変わらないよ」
それを聞いたアリサは、ぎゅっと目を閉じた。
「私……、話すことはできなかったけれど、ずっと千紗の声を聞いていたの」
最初の頃のアリサのふりを思い出して、僕はふっと微笑む。
「最初は、下手くそだったよね」
「ええ。でも、だんだんまるで私みたいになってきた。そうしたら、それは本当に千紗なのかな?」
「どういうこと?」
「テセウスの船の話、してたでしょう。全部入れ替わったら、もうその船じゃないって人と、それでも確かに元の船のままだって言う人がいる。景君は、どう思う?」
僕は黙って考え込む。
「私の身体に千紗の魂が入って。千紗は、私をなぞって人生を過ごして。そうしたら、それは千紗とアリサ、どっちだと思う?」
アリサが何をしようとしているのかと察し、僕は首を横に振った。
「……アリサ」
「私はね、どっちでもあると思うの。私の身体で。私の魂を受け継いで。私の心を、感じて。もし千紗が私を忘れないでいてくれるのなら、私は千紗と一緒に、ずっと生きられるんじゃないかって思うの。ね、それって素敵だと思わない?」
アリサは僕を抱きしめ、僕の頬にそっと唇を寄せた。
二人の涙が一緒にぽろぽろと零れ落ちて、頬を濡らす。
「大好きよ、景君。もし今度生まれかわったら、恋人じゃなくてもいいから、またあなたの側にいてもいい?」
僕は精一杯の気持ちで頷く。
「僕も大好きだ、アリサ。ずっとずっと、君のことが大好きだった」
「うん、知ってる。私の欲しい好きとは、違ったけれど」
「アリサ……」
アリサは困ったように微笑み、人差し指で僕の唇に触れた。
「いいよ。お姉ちゃんは、何でも知ってるからね」
アリサの身体が、白い光に包まれる。
「ねぇ、景君。伝言頼んでいい? お父さんとお母さんに、今までありがとうって」
「……うん」
僕はアリサの声を、頭に刻み込む。
きっと彼女を止めるなら、最後のチャンスだ。
大声で叫び出したかった。
アリサの手をつかんで、引き止めたかった。
だけど僕は、何も言わなかった。何もしなかった。
きっとこのことを、一生後悔するだろう。
「さよなら、景君。千紗のこと、私の分まで幸せにしてあげて。私の大切な、妹だから」
そう言って、アリサは光の中に消えてしまった。




