8-3
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「こんにちは」
「あら、アリサに、景君。お帰りなさい」
彼らはいつも通り、温かく僕を迎え入れてくれた。
千紗とアリサの両親はいつも優しくて、僕にとって理想の家族だった。
おばさんは僕に向かって笑顔で問いかける。
「夕飯は食べてきたのよね?」
「あ、はい、さっき食べました」
「今日はどこに行ってたの?」
「えっと、美術館とか、文学館とかに行って、パスタを食べて。それから海も見に行きました」
おばさんはふっと優しく微笑んだ。
「なんだか……千紗が好きそうな場所ばかりね」
おばさんは、はっとした表情で口元を押さえた。
「……ごめんなさい、変なことを言って」
「いえ」
本当は、自分が千紗だと打ち明けたいはずだ。
だけど、千紗は何も言わずに微笑んで、僕の手を引いた。
「行こう、景」
千紗は、僕をピアノのある部屋に連れて来た。
扉を何かがカリカリと引っ掻くような音がした。音の主は、見なくても分かった。
扉を開くと、灰色の細い身体がしゅるりと滑り込む。
千紗はシャルを抱き上げ、頬をすり寄せた。
「シャル、珍しいね」
僕はじっとシャルを見つめる。
「何だか、痩せたね、シャル」
「えぇ。最近、あまりご飯を食べないの」
「そっか……」
シャルを拾ってから、十年以上が経っている。
シャルはいつまで元気でいられるのだろうか。そう考えるとしんみりしてしまった。シャルを床に落ろすと、千紗は僕に向かい合い、改めて言った。
「最後にお願いがあるの」
千紗は、部屋の電気を点けなかった。
外は満月だった。
窓から射し込む月の光で、部屋はじゅうぶん明るい。
千紗は僕の後ろに回り、僕の背中を押しながら、そっと囁いた。
「お願い、景。ピアノを弾いて」
「千紗、それは……」
「私、景のピアノが大好きだった。それとももう、ピアノを弾くのは嫌いになってしまった?」
千紗の言葉が、波紋のように胸に広がっていく。
今まで蓋をして、閉じ込めていた感情が、勝手にわき上がる。
「……好きだよ。ずっと、弾きたかった」
僕がピアノを習っていた時、同じ先生の所で、アリサもピアノを習っていた。
父にコンクールで一位になれなかったら辞めろと言われ、僕の方が先にピアノをやめてしまって、アリサは寂しそうだった。
けれど、アリサはそれからも、ずっとピアノを続けていた。
一時期、ピアノを続けられるアリサはいいななんて、勝手に嫉妬したことさえあった。
だけど、そうじゃなくて。
もしかしたら、アリサは僕がまたピアノを弾くまで、待っていてくれたのかもしれない。
今まで気付かずに、たくさんの優しさの上を通り過ぎていた。
僕は緊張しながら、白い鍵盤の上に、人差し指を乗せる。
懐かしい、耳に馴染んだ、胸を掻きむしりたくなるような音がした。
僕は椅子に座り、深く息を吸った。
電気の点いていない部屋で、窓から月明かりだけがこちらに射し込んでいる。
「弾けそう? 景が嫌なら、やめていい」
僕はふっと微笑む。
「おかしいよね。別に、弾きたいのなら、いつだって弾けばよかったんだ。こっそり机なんて叩いてないで、鍵盤を叩けばよかった。誰に反対されたって、プロになれなくたって。いつだって、好きなことを好きだって叫べばよかった」
「……うん」
必死に音楽が嫌いだと思い込もうとしていた。
嫌いになれば、悲しくないから。
クラシックを耳に入れないようにして、関係のない生活を送って、自分の中から音楽を追い出せば、逃げられると思っていた。
「何の曲がいい? って言っても、久しぶりだから上手には弾けないけど。昔練習していた曲なら、指が覚えてると思う」
千紗は悩まずにすぐに回答した。
「じゃあ、『月の光』がいい」
眠っていたトラウマが目覚めそうで、胸の奥がざわざわした。
それでも、千紗は僕から目をそらさなかった。
「覚えてる?」
それは僕が最後に、ピアノで弾いた曲だった。コンクールで、一番になれなかった曲だ。
「楽譜がなくても、全部指が覚えてる。悪夢みたいに練習したからね。一日十時間くらい、ピアノを弾いてた。今でも、目を閉じていても弾けるよ」
僕の指は、フレーズを奏ではじめる。
この曲が大好きだった。だから無理を言って、コンクールで選んだのに。
どうして嫌いだなんて思ってしまったんだろう。どうしてピアノの音が聞こえないように、イヤホンで耳を塞いでしまったんだろう。
僕は無心でピアノを奏でた。
音の波に、飲み込まれていく。見えない糸に操られるように、勝手に指が動く。
まるで呼吸をすることを思い出したように、夢中で曲を弾いた。
気が付くと、あっという間に弾き終えていた。
鍵盤から指を離すと、しんと部屋が静まり返る。
僕は笑いながら言った。
「やっぱりあの頃より、下手になってるね」
千紗はそんな僕に向かって、目を細めた。
「私、景のピアノが大好き。景は、コンクールで二番目だったから、もう弾けないって言ったけど。何度だって、伝えたい。私にとって、景のピアノが世界で一番」
「……うん」
「景、私がいなくなっても、私のためにピアノを弾いてくれる?」
「うん。弾くよ。何十回でも、何百回でも。千紗の好きな曲を、千紗に届くように、何回だって演奏するよ」
「ありがとう。この曲を聞くと、私はいつも景が隣にいるみたいで、幸せな気持ちになった」
「何度だって弾く、千紗のことを考えながら。これからも、ずっと……だから、千紗」
涙が滲みそうになって、唇を噛む。
――だから、千紗。
消えないで、ずっと僕の側にいて。
僕は千紗の身体を、ぎゅっと抱きしめた。
「……景?」
涙が流れて、空も、月も、千紗の顔も、すべてがぼやけて見える。
「千紗の存在が、千紗に会えたことが、僕にとって奇跡で、ずっと大切だった」
「ええ。ありがとう、景。あなたが大好き」
千紗は安心したように微笑んで、僕にキスをした。
彼女の頬を流れる涙を、月明かりが照らしていた。
「お父さんとお母さんの子に生まれて、アリサの妹になって、あなたに出会えて。幸せだった。ありがとう」
ずっと心に抱えていた気持ちを口にしたからか、千紗はほっとしたように力を抜く。
そして、ふっと目を閉じた。
「……千紗?」
彼女の身体が、ぐらりと後ろに倒れそうになる。
僕は咄嗟に千紗のことを支える。
「千紗っ! 千紗、しっかりしてくれ!」
何度も大きな声で呼びかけるが、千紗は目蓋を開かない。
僕の声を聞きつけ、おじさんとおばさんが慌てた様子で部屋に入ってくる。
「どうしたんだ!?」
「千紗が、千紗がっ……!」
動揺して、本当は「アリサ」と呼ばなければいけないのに、そんなことを考える余裕などなかった。
それ以上、言葉にならなかった。
僕は何度も何度も、千紗のことを呼んだ。
けれど何度千紗の名前を呼んでも、彼女が目を覚ますことはなかった。
その後、千紗はすぐに救急車で病院に運ばれた。
検査をした医師は、表情を強ばらせて千紗の両親に言った。
「予断を許さない状況です。数日以内に目が覚めればいいのですが、そうでない場合、そのまま意識が戻らない可能性も――」
どうしてそうなったのか、原因は分からなかった。
おばさんの悲鳴が、やけに遠くで聞こえた気がした。
ピアノを弾いたあの時から、千紗は眠り続けている。
再び千紗がベッドに横たわっている姿は、まるで悪夢だった。
その日、深夜になっても、僕は千紗に付き添っていた。無理を言って、許可をもらったのだ。
たった数分の時間しか経っていないようにも、何千年の時が過ぎたようにも思えた。
千紗は青白い顔で眠っている。
千紗はもうすぐ、「自分は消えてしまうだろう」と言った。
――もしかして、これで終わりなのか?
それは、底のない絶望だった。
もう千紗の魂は、消えてしまったのだろうか。
そんなこと、認められなくて、許せなくて。
なのに何もできない自分が悔しくてたまらない。
まだ伝えたいことの、半分も言えていないのに。
僕は病室のベッドの横に座り込み、祈るように呟いた。
「……千紗、目を覚ましてくれ」
僕は、いったい誰に祈っているのだろう。




