8-2
ずっと彼女に触れていないと、すぐにでも千紗がいなくなってしまいそうで、怖かった。
「千紗、今だけは本当のことを言ってよ」
千紗は聡明な瞳で僕を見つめる。
「私はずっと、本当のことを言ってる」
「うん。そうだよね。でも、もっと、我慢して、言えなかったことを、今だけ話してよ。ずっと押し殺してきた言葉を、全部話して」
「それは……」
波の音を聞きながら、僕は続けた。
「千紗だけに言わせるのはダメだよね。僕、ずっと自分が嫌いだった」
「どうして?」
「言いたいことが、言えないから。何がしたいのか、分からなかったから。そのくせ、自分は何もしていないのに、夢に向かって頑張っている人を、成功している人を、ねたましいと思ってひがんだりしていたから。夢に向かって頑張っている人が、キラキラして見えて、羨ましかった」
僕は夕陽に向かって手を伸ばした。
「僕はずっと、このつまらない人生が永遠に続くんだと思った。だけど、夢なんかなくたって、生きていればいいって、言ってくれる友達がいた。僕の手の中にはすでに、かけがえのないものがたくさんあった。千紗とアリサを失って、どんなに二人が大切か、やっと気づいたんだ」
僕はぎゅっと目を閉じた。
「千紗もアリサも、ずっと側にいてくれるんだと思ってた。でも、永遠なんてないんだ。誰かを羨むだけじゃなくて、僕も頑張ってみないとって思った」
それを聞いていた千紗が、ふっと微笑む。
「……私もまだ、たくさんやり残したことがある」
「うん」
「私、図書館が好きなの」
「うん。いつも通っている学校の図書室の本を、読破していたもんね」
「世界中に、たくさん美しい図書館があるの。スウェーデンのストックホルム市立図書館は無数に並ぶ円形の本棚と吹き抜けが美しいし……プラハのストラホフ修道院図書館は、天井の彫刻が素晴らしくて。あとは、本に触れることができないけれど、神秘的で幻想図書館と言われている、王立ポルトガル文学館にも行ってみたかった」
「図書館なのに、本に触れられないの?」
「そう。どの本も貴重な古書だから、一般人は触れられない。事前に許可された研究者だけが、本を読むことができる」
「へぇ……いろんな図書館があるんだね」
「そう。本そのものもそうだけれど、いつか行ってみたいと思っている図書館が、世界中にたくさんある。そして、私はその図書館にある本を、すべて読んでみたい」
「壮大な夢だ」
「昔は、図書館で暮らすのが夢だった」
「千紗らしいね」
僕は思い出し笑いをした。
「そういえば、僕が昔読んだファンタジー小説に、そういう幻想的な図書館が出てくる作品があった」
「どんな図書館?」
「その図書館には永遠の時間が流れていて、世界中の本を読めるんだ。そこで、魔女が暮らしている。その魔女は、図書館にあるすべての本の内容を知っているんだけど。なんとなく、千紗っぽいなって思ったんだ」
「ああ、とても憧れる」
それから千紗は、夢の話を続けた。
「もう少し現実的な夢なら、医師か研究者になって、誰かを助ける仕事がしたかった」
「うん」
「昔は天然痘や結核は不治の病と言われていた。けれどそういう病気も、医学の目覚ましい進歩によって、治るようになった。まだまだ、この世界には恐ろしい病気が存在する。私はそれを根絶したい」
「すごいな。あとは?」
「あとは……、もっとシャルを抱っこしたかった」
「シャルは気まぐれだからな。……他には?」
千紗の声が、だんだん涙声になっていくけれど、僕は気づかないふりをして続けた。
「他には……友達を、もっとたくさん作ればよかった。景とアリサと、両親だけがいればいいと思ったけれど。もっともっと、たくさんの人とかかわればよかった。きちんと友達になりたかった。アリサの身体になって、アリサの友達と遊ぶようになって。それは、アリサが努力して築いた人間関係だけど。私も頑張れば、きっと仲良くなれると思ったの。今まで、誰かとかかわることが怖くて、避けていたけれど……友達になれる人が、他にもいたかもしれない」
千紗は言葉を切り、震える声で続けた。
「それに、もっと早く景に告白したかった」
「……うん」
「景と、家族になりたかった。ずっとずっと、一緒にいたかった」
僕の目にも涙が滲んで、返事をする声が震えそうになる。
「……そうだね」
「私はあなたに会えなくなるのが、一番怖い」
僕は千紗の身体を、ぎゅっと抱きしめた。
「僕も、ずっと一緒にいたい」
「本当は私、消えたくない。景と一緒にいたい。アリサとも、一緒にいたい」
気が付くと、二人とも泣いていた。
夕陽は気づかないうちに海に沈んで、周囲は暗くなっていた。
「誰に祈れば、この願いを叶えてくれると思う?」
掠れた声で、僕はそれに必死で答える。
「……分からないけど。神様が叶えてくれなくても、僕は、千紗の願いを全部叶えたい」
「うん。ありがとう」
暗くなった海で、僕たちはずっと互いを抱きしめていた。
それから家に帰るまでの電車で、僕たちはあまり話さなかった。隣に並んで座って、手を繋いで、肩を寄せ合って。
揺れる車内で、静かに外の景色を眺めていた。
最寄りの駅まで着くと、ぽつぽつと小雨が降り出した。
「雨だね」
「折りたたみ、持ってる」
千紗はいつも用意がいい。千紗が紺色の折りたたみ傘をさしたので、僕はそれを持った。
相合い傘なら今までも何度かしたことがあるけれど、恋人になった千紗とするのは初めてだ。そう思うと、つい意識してしまう。
「出かけている間に雨、降らなくて良かったね」
「うん」
僕たちは、家までの道をゆっくりと辿った。
別れの時が近づいている。
楽しい時間は、あまりにも短い。
あっという間に、千紗の家の前まで辿り着いてしまった。
今日のデートはもうすぐ終わるけれど……僕は、どうしても千紗と離れたくなかった。
本当は、このまま千紗を連れて、どこか遠い場所に二人で行きたかった。
それからどうするのか、どこへ行くのか、そんなことは分からないけれど。
千紗を日常から離れた場所へ連れ去ったら、千紗はずっと僕の近くにいてくれるのではないか。そんなバカなことを考えた。
握っている手を離したら、千紗がその瞬間に消えてしまいそうで怖い。
千紗は僕の気持ちを察したのか、困ったように微笑んだ。
「少しだけ、家に来る?」
僕はパッと表情を輝かせる。
「迷惑じゃないかな?」
「景は家族みたいなものだもの。むしろうちの親は喜ぶ」
僕はその言葉に甘え、冬月家にお邪魔した。




