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テセウスの船はもう見えない  作者: 御守いちる


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22/23

8-1



翌日。今日は千紗と約束したデートの日だ。

 


今日は、駅前で待ち合わせすることにしていた。

駅に着くと、千紗はもう僕のことを待っていた。


千紗の顔は見慣れているはずなのに、自分の彼女だと思うと、嬉しくてしかたなかった。

それに今日の千紗の服装は、今までに見たことがない服だった。


白くて清楚な印象のワンピースに、水色のリボンがついた白い麦わら帽子。

アリサはこんな服を持っていなかった気がする。

千紗は言い訳のようにぼそぼそと話す。


「デートだから……それらしい服がいいかと思って……買ってみたんだけど……。似合わない? 私、こういうセンスとか、よく分からなくて……」

「……今まで見た千紗の中で、今日の千紗が一番かわいい」


素直に感想を告げると、千紗は頬を赤く染めた。


「そ、そういうのはいらない。それに、アリサの身体だし」

「それでも今日の千紗は、僕のことを考えて、服とか選んでくれたんだろ?」

「もういい。やめて」


千紗は帽子のツバを引っ張って顔を隠そうとするが、耳まで赤くなっているのが見える。

「……恥ずかしくて、死にそう」

照れている千紗がかわいくて、もっと照れさせたくなってしまった。

とはいえこれ以上怒らせると、本当に口を利いてくれなくなりそうだ。

僕はそっと千紗の手を握った。千紗は嬉しそうに微笑んで、僕の手をきゅっと握り返す。


「どこに行きたい?」

一応初めてのデートなので、それっぽいデートプランは立ててきた。景色のいい場所を調べたり、遠出してもいいかとも思った。

だが千紗に行きたい場所があるなら、そこを優先しようと思ったのだ。デートしたいと言い出したのが千紗だったので、てっきり何か希望があるのかと思ったが、「詳しい予定は、実は考えてなかった」との回答だった。


「映画とか?」

「映画は好きだけれど、二時間ただ座っているのは、時間がもったいない気もする」

「確かに」


というわけで、僕たちは最初に、美術館に訪れた。

鎌倉には、想像以上にたくさんの美術館がある。正直千紗と出会わなかったら、美術館に行こうなんて思わなかっただろう。

退屈だろうという先入観があったが、千紗と一緒に、飾られている作品について語り合うのは、想像以上に楽しかった。


その後は、文学館に訪れた。

石畳みの道を歩いていくと、青い屋根の洋館が見える。

周囲は緑に囲まれていて、特に春と秋はバラが美しい。六月だと、紫陽花も綺麗だ。

この場所には文学者たちの資料や私物が展示されていて、千紗のお気に入りだった。何度来ても楽しいようだ。


今日も千紗は、弾んだ歩調で建物の中を歩いた。

ひとしきり見学し終わると、僕たちは駅の近くまで戻り、ランチを食べることにした。

「昼は何がいい?」

千紗は真面目くさった顔で言う。


「デートだと、パスタが鉄板だとインターネットで調べた」

「別に鉄板じゃなくても、千紗の食べたい物でいいんだけど」

千紗は自分のスマホの画面を僕に見せる。

「でもこのお店のパスタ、おいしそう」

「あ、本当だ。それに、オムライスとパスタのランチセットがあるよ。千紗、オムライス好きだろ?」

千紗は目を輝かせ、こくりと頷く。

「じゃあ、ここにしようか」


千紗も今日のデートを楽しみにして、色々調べてくれたようだ。その気持ちが嬉しかった。

僕たちは、千紗の選んだイタリアンの店に行くことにした。


テラス席からは、青い海を見渡すことが出来た。

今日は天気もいいから、海水浴日和だ。たくさんの人が、楽しそうに海で遊んでいる。


「うわぁ、海、綺麗だね。あとで泳ぎに行く?」

千紗は僕に問い返した。


「景が、本当に泳ぎたいなら……」

「…………」

「…………」

僕は頬をかきながら言った。


「そもそも、水着持って来てないしね。あとで、海岸を散歩しようか? 夕方になったら、少し人が減るだろうし」

「それがいい」


僕たちは二人ともどちらかと言うとインドア派なのである。

そんなことを話している間に、注文したオムライスとパスタが来た。評判通りおいしくて、僕と千紗は満足した。


その後は、近くのお寺を回ったりもした。

まだまだ、たくさん行きたい場所がある。千紗がいるなら、きっと何もない空き地だって、楽しめるような予感があった。


しかし楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。気が付くと、空はすっかり夕焼けに染まっていた。

「海岸、散歩してみようか?」

「うん、そうしよう」

歩いていける距離だったので、僕たちはのんびりと由比ヶ浜への道を歩いた。

やはり夕暮れ時だからか、人はだいぶ少なくなっていた。

海が近づくにつれて、潮風の香りが強くなる。


「やっぱり夏は、海だよね。僕はここ数年、泳いだ記憶ないけど」

「地元に住んでると、意外と来ない」

「来ないね」


そもそも夏休みなんか、観光客でいっぱいなのだ。海で泳ぐというか、もはや人の群れの中を泳いでいるようなものだ。想像しただけで辛い。

「何となくだけど、僕たちに似合わない場所だよね」

「私たちは、日陰者だから。でも、海を見ているだけでも楽しい」


確かにほとんど人のいない黄昏時の海は、圧倒されるくらい美しかった。

オレンジ色の夕陽が、ゆっくりと海に沈んでいく。波の音と潮の香りが僕たちを包む。

夕陽に染められ、千紗の横顔も茜色の染まる。いくら見ていても飽きない気がした。


「昔、みんなで海に遊びに来たことあったよね」

「あった。懐かしい」


夕暮れの海を見ながら、千紗はゆっくりと浜辺を歩く。

太陽が沈んで、そのうち夜を連れて来る。


もうすぐ、今日が終わってしまう。

僕は朝からずっと、何かに追われるような焦燥感にかられていた。

流れる千紗の髪と、小さな背中を見つめながら、ぽそりと呟く。


「なんか今日、ごめん」

千紗は不思議そうに、長い髪をかきあげる。

「どうして謝るの?」

「もっと格好良いっていうか、思い出に残るようなデートにしたいと思ったんだ。でも僕、経験値足りないなぁって」


それを聞いた千紗は、クスクスと笑う。

「逆に、景がデートに慣れていて、完璧なデートプランを作ってきてくれたら、私は動揺していたと思う」

「何それ」

「大好きな人と一緒にいられたなら、失敗なんて、ないと思う」


そう言って、千紗は自分の言葉を確かめるように、頷いた。

「今日、私はとても幸せだったから。景と一緒に行くと、一人で行くより、どんな場所も楽しい」

「そう?」

「そう。大切な人といると、何でもないことが特別に見えるのね」


ストレートな言葉に、少し頬が熱くなる。

「いつも歩いている道も、道に咲いている花も、吸い込んだ空気でさえ。全部が特別で、すべてが素晴らしいものに思える。景と一緒なら、いつもより優しくなれる気がする。景と一緒なら、自分を好きになれる気がする。この広い世界で、私と景が出会えたことは、本当に奇跡みたいな確率で」

千紗は手の平を広げ、微笑んだ。


「この世界は、こんなに美しかったんだって思った」


千紗はまるでこの世界のすべてに、お別れを言っているようだった。

彼女が消えてしまいそうに見えて、僕は千紗のことをぎゅっと抱きしめた。

僕だって、そうだった。

千紗がいれば、この世界のすべては美しかった。

千紗は、僕の世界のすべてだった。



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