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テセウスの船はもう見えない  作者: 御守いちる


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21/24

7-1



お祭りの翌日。

土曜日だったので、僕はメッセージを送り、昼から千紗の家に行くことになっていた。

飽きるほどに見慣れた、千紗の家の玄関の扉を開く。

それからアリサの部屋に入った。


「適当に座って」

「はい」


なぜか敬語になってしまう。

千紗の今日の洋服は、水色の爽やかなワンピースだった。アリサが去年よく着ていた服だ。

床にクッションがあったので、僕はローテーブルを挟んで千紗の向かいに座った。

顔を合わせた僕たちは、何だかぎくしゃくしていた。

というか、緊張していた。こんなこと、千紗と出会ってから初めてのことだった。


千紗も同じように、じっと押し黙って座っている。

千紗は僕が隣にいても、読書をしたい時は、平気で本を読んでいた。会話がなくても、互いに好きなことをしていても、不思議と居心地がよく、それが当たり前だった。

だから二人でいても沈黙を気まずいと感じたことなんて、一回もなかったのに。今の僕たちは、何だかそわそわしている。


一応、互いの気持ちが分かったわけだし。僕たちは、彼氏と彼女になったんだろうか。それとも、互いに好きと分かっただけでは、恋人じゃないんだろうか?

よく分からない。

チラリと千紗を見ると、偶然視線が重なった。

照れくさくて、二人とも咄嗟にそらしてしまう。

……何だこれ、恥ずかしいな。自分の恋愛レベルの低さに、叫び声をあげたくなった。

しばらく黙っていた千紗は、決意したように口を開く。


「景に、答えを出して欲しくて。答えというか、きちんと景の言葉で、ハッキリ聞いておきたくて」

「答えって?」


恋人になるかどうかかな、とピンク色の思考になりそうだった僕の考えは、千紗の一言で霧散した。



「私とアリサ、どちらの魂を、この身体に残すか」



まるでバケツで冷水を浴びせられた気分だった。


「おそらく、時間があまりない。あと数日で、私は消えると思う」

今度は冷水どころの騒ぎではなかった。

そのまま氷付けにされて、重しをつけて南極の海に落とされたような絶望だ。

僕らの時間は有限だ。


いや、人間なんて、本来ならいつ死ぬか分からないものだ。時間が無限にあると思っていると考えている方が、どうかしている。今日と同じように明日が続く保証なんて、どこにもないんだ。


だけど僕らは、つい忘れてしまう。

大切な人は、何の保証もなく明日も元気で隣にいると、そう思い込んでいる。だけどその幸せは脆いもので、いつ粉々に崩れ去るか分からない。


僕は一度、千紗もアリサも失って、そのことを知っているはずなのに。

千紗は右手を自分の胸に当てた。


「なんとなく、分かるの。魂だけの状態でいられる時間は、あと僅か。おそらく数日で、私は消えてしまうと思う」


その言葉に、僕は顔を歪めた。

それに反し、僕よりもそれを恐れているはずの千紗の表情は、静かな湖のように穏やかだった。

「これは、アリサの身体。魂は、眠っているアリサと私の二つ。景は、どちらを選ぶ?」

僕は深く息を吐いて、千紗の瞳を見つめた。

僕は瀬川の言葉を思い出していた。


『手が届く方を助けるしかないよな』


どちらを選んでも、どちらかを失ってしまう。

目をぎゅっと閉じ、決意して、彼女の手を取った。


……答えは、最初から決まってた。

こう答えると決めていたのに、僕は卑怯だから、逃げ出してしまいたくなる。




「この身体はアリサの肉体だから、アリサに返さないといけないと思う」



千紗は目を見開いた。

そして、次の瞬間に口端をあげ、心の底からほっとしたように微笑んだ。

「よかった。景なら、そう言ってくれると思っていた。私は安心して消えられる」

涙が瞳に滲み、千紗の笑顔がぼやける。

「どうして、そんなに物わかりが良いんだよ! 千紗は、いなくなってしまうんだぞ!?」

「景なら、絶対にそう言ってくれると思っていたから」


責めて欲しかった。

顔を歪めて、ひどいと怒ってほしかった。

嫌だと言って、大声で泣いて欲しかった。


そうすれば、僕は……。

僕は? 千紗を選ぶのだろうか?


結局僕は、言い訳する理由を欲しがっているだけだ。自分が悪者になるのを怖がっているだけだ。

僕は千紗の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。

千紗はためらいがちに、僕の背中に手を回した。


彼女の心臓の音が、身体に響く。


「いつも一緒にいたけど、こんな風に景を抱きしめたことって、なかったかもしれないね。出会った頃は、身長も同じくらいだったのに。景は背が伸びて、腕も長くなって、歩くのも、速くて。やっぱり私とは違うんだなって思った」

千紗は穏やかな表情で目を閉じ、僕の頬に手を寄せた。

「温かい」


……目の前にいるはずなのに、今確かにこの腕で抱きしめているはずなのに、千紗は遥か届かない、遠くにいる。

葬儀の時、千紗の両親が嗚咽をもらす声を聞いた。

千紗の身体が燃える匂い。

灰の中に残った、白い骨。

全部、今でも忘れられない。


千紗の身体は、もうこの世に存在しない。ここにあるのは、千紗の魂だけ。

だとしたら、その代償にアリサの魂が消えてしまうなんて、僕は到底選べない。

アリサのことを思っている人が、たくさんいる。

僕だって、その一人だ。僕には、どちらも選べない。


「景が、望んだとおりの選択をしてくれて嬉しい」

千紗は僕のことを抱きしめながら、落ち着いた声で話す。

「このままずっと、私の精神がアリサの肉体にうまく融合する保証なんてない。前例のないことなのだから。少しでもリスクがある以上、アリサの肉体にはアリサの魂を治め、私は消えるべき。当然の選択。私を選ぶと言ったら、景を軽蔑するところだった」

「……だけど、できないよ。僕が選んでいいようなことじゃない! アリサも千紗も、どっちも大事なんだ。二人とも助けられる方法はないのか!?」

何度も何度も問いかけた疑問を、また千紗にぶつける。

答えはどこにもない。

「無理だよ、景。私の身体は、もう燃えてしまったもの。苦しい決断をさせてしまって、ごめんなさい」

「謝るなよっ!」


そう叫ぶと、千紗は困ったように頷いた。

僕は自分に言い聞かせるように、声を絞り出す。

「誰も悪くない。千紗もアリサも、どっちも悪くない。ずっと千紗と一緒にいたい。千紗とアリサが戻ってくるなら、僕は何もいらない」

千紗は小さな子供をあやすように、ぽんぽんと僕の背中を軽く叩いた。


「景、お願いがあるの」

「何? 千紗のお願いだったら、何だってするよ」


そう告げると、千紗はおかしそうに微笑んだ。

「何でもするなんて、安請け合いしてはダメ。無理難題を押しつけられるかも」

「いいよ。千紗が望むなら、どんな難しいことでもやる。豪華客船を貸し切って、世界一周したいって言うなら、それでもいい。宇宙旅行に行きたいとかだと、さすがに難しいけど……」

千紗は苦笑してから眉を寄せて言った。


「そこまで高望みはしない。私、デートっぽいことがしたい」


僕はパチパチと目を瞬いた。

「……千紗って、そういうこと言うんだ」

「自分でも驚いている」

顔を見合わせ、思わず二人で小さく笑う。それと同時に、二人の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「もっと魔法でも使わないとできそうにないこと、言ってくれてよかったのに」

「私にとってはずっと、景とデートするなんて、魔法みたいな奇跡だった。私の願い事は、ずっとこの一つだけだったのかもしれない」


千紗は小さな手の平を、そっと僕の手に重ねた。

愛しいと思った。

いくら言葉にしても言い表せない気がして、触れた場所から、僕の気持ちが全部伝わればいいのにと思う。


「最後に明日、一日だけ、デートして欲しい。普通の、恋人みたいに」


僕はたしなめるように微笑んだ。

「恋人みたいにじゃなくて、恋人だよね?」

千紗は頬を薄く染め、かわいく笑って言った。

「うん、恋人。その願いが叶ったら、私もう、何の心残りもない」

千紗が行きたい所だったら、どこにだって行く。

千紗がしたいことだったら、何だってする。


だからそんな最後みたいなこと、言わないで欲しい。

「デートしよう」

僕は小指を差し出した。

千紗もその指に、自分の小指を絡める。


「約束よ」


僕はふと、疑問に思った。

どうして人は、指の中で一番細くて弱い小指を結んで、約束するのだろう。

もっと揺るがない、確かな物が欲しいと思った。





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