7-1
お祭りの翌日。
土曜日だったので、僕はメッセージを送り、昼から千紗の家に行くことになっていた。
飽きるほどに見慣れた、千紗の家の玄関の扉を開く。
それからアリサの部屋に入った。
「適当に座って」
「はい」
なぜか敬語になってしまう。
千紗の今日の洋服は、水色の爽やかなワンピースだった。アリサが去年よく着ていた服だ。
床にクッションがあったので、僕はローテーブルを挟んで千紗の向かいに座った。
顔を合わせた僕たちは、何だかぎくしゃくしていた。
というか、緊張していた。こんなこと、千紗と出会ってから初めてのことだった。
千紗も同じように、じっと押し黙って座っている。
千紗は僕が隣にいても、読書をしたい時は、平気で本を読んでいた。会話がなくても、互いに好きなことをしていても、不思議と居心地がよく、それが当たり前だった。
だから二人でいても沈黙を気まずいと感じたことなんて、一回もなかったのに。今の僕たちは、何だかそわそわしている。
一応、互いの気持ちが分かったわけだし。僕たちは、彼氏と彼女になったんだろうか。それとも、互いに好きと分かっただけでは、恋人じゃないんだろうか?
よく分からない。
チラリと千紗を見ると、偶然視線が重なった。
照れくさくて、二人とも咄嗟にそらしてしまう。
……何だこれ、恥ずかしいな。自分の恋愛レベルの低さに、叫び声をあげたくなった。
しばらく黙っていた千紗は、決意したように口を開く。
「景に、答えを出して欲しくて。答えというか、きちんと景の言葉で、ハッキリ聞いておきたくて」
「答えって?」
恋人になるかどうかかな、とピンク色の思考になりそうだった僕の考えは、千紗の一言で霧散した。
「私とアリサ、どちらの魂を、この身体に残すか」
まるでバケツで冷水を浴びせられた気分だった。
「おそらく、時間があまりない。あと数日で、私は消えると思う」
今度は冷水どころの騒ぎではなかった。
そのまま氷付けにされて、重しをつけて南極の海に落とされたような絶望だ。
僕らの時間は有限だ。
いや、人間なんて、本来ならいつ死ぬか分からないものだ。時間が無限にあると思っていると考えている方が、どうかしている。今日と同じように明日が続く保証なんて、どこにもないんだ。
だけど僕らは、つい忘れてしまう。
大切な人は、何の保証もなく明日も元気で隣にいると、そう思い込んでいる。だけどその幸せは脆いもので、いつ粉々に崩れ去るか分からない。
僕は一度、千紗もアリサも失って、そのことを知っているはずなのに。
千紗は右手を自分の胸に当てた。
「なんとなく、分かるの。魂だけの状態でいられる時間は、あと僅か。おそらく数日で、私は消えてしまうと思う」
その言葉に、僕は顔を歪めた。
それに反し、僕よりもそれを恐れているはずの千紗の表情は、静かな湖のように穏やかだった。
「これは、アリサの身体。魂は、眠っているアリサと私の二つ。景は、どちらを選ぶ?」
僕は深く息を吐いて、千紗の瞳を見つめた。
僕は瀬川の言葉を思い出していた。
『手が届く方を助けるしかないよな』
どちらを選んでも、どちらかを失ってしまう。
目をぎゅっと閉じ、決意して、彼女の手を取った。
……答えは、最初から決まってた。
こう答えると決めていたのに、僕は卑怯だから、逃げ出してしまいたくなる。
「この身体はアリサの肉体だから、アリサに返さないといけないと思う」
千紗は目を見開いた。
そして、次の瞬間に口端をあげ、心の底からほっとしたように微笑んだ。
「よかった。景なら、そう言ってくれると思っていた。私は安心して消えられる」
涙が瞳に滲み、千紗の笑顔がぼやける。
「どうして、そんなに物わかりが良いんだよ! 千紗は、いなくなってしまうんだぞ!?」
「景なら、絶対にそう言ってくれると思っていたから」
責めて欲しかった。
顔を歪めて、ひどいと怒ってほしかった。
嫌だと言って、大声で泣いて欲しかった。
そうすれば、僕は……。
僕は? 千紗を選ぶのだろうか?
結局僕は、言い訳する理由を欲しがっているだけだ。自分が悪者になるのを怖がっているだけだ。
僕は千紗の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。
千紗はためらいがちに、僕の背中に手を回した。
彼女の心臓の音が、身体に響く。
「いつも一緒にいたけど、こんな風に景を抱きしめたことって、なかったかもしれないね。出会った頃は、身長も同じくらいだったのに。景は背が伸びて、腕も長くなって、歩くのも、速くて。やっぱり私とは違うんだなって思った」
千紗は穏やかな表情で目を閉じ、僕の頬に手を寄せた。
「温かい」
……目の前にいるはずなのに、今確かにこの腕で抱きしめているはずなのに、千紗は遥か届かない、遠くにいる。
葬儀の時、千紗の両親が嗚咽をもらす声を聞いた。
千紗の身体が燃える匂い。
灰の中に残った、白い骨。
全部、今でも忘れられない。
千紗の身体は、もうこの世に存在しない。ここにあるのは、千紗の魂だけ。
だとしたら、その代償にアリサの魂が消えてしまうなんて、僕は到底選べない。
アリサのことを思っている人が、たくさんいる。
僕だって、その一人だ。僕には、どちらも選べない。
「景が、望んだとおりの選択をしてくれて嬉しい」
千紗は僕のことを抱きしめながら、落ち着いた声で話す。
「このままずっと、私の精神がアリサの肉体にうまく融合する保証なんてない。前例のないことなのだから。少しでもリスクがある以上、アリサの肉体にはアリサの魂を治め、私は消えるべき。当然の選択。私を選ぶと言ったら、景を軽蔑するところだった」
「……だけど、できないよ。僕が選んでいいようなことじゃない! アリサも千紗も、どっちも大事なんだ。二人とも助けられる方法はないのか!?」
何度も何度も問いかけた疑問を、また千紗にぶつける。
答えはどこにもない。
「無理だよ、景。私の身体は、もう燃えてしまったもの。苦しい決断をさせてしまって、ごめんなさい」
「謝るなよっ!」
そう叫ぶと、千紗は困ったように頷いた。
僕は自分に言い聞かせるように、声を絞り出す。
「誰も悪くない。千紗もアリサも、どっちも悪くない。ずっと千紗と一緒にいたい。千紗とアリサが戻ってくるなら、僕は何もいらない」
千紗は小さな子供をあやすように、ぽんぽんと僕の背中を軽く叩いた。
「景、お願いがあるの」
「何? 千紗のお願いだったら、何だってするよ」
そう告げると、千紗はおかしそうに微笑んだ。
「何でもするなんて、安請け合いしてはダメ。無理難題を押しつけられるかも」
「いいよ。千紗が望むなら、どんな難しいことでもやる。豪華客船を貸し切って、世界一周したいって言うなら、それでもいい。宇宙旅行に行きたいとかだと、さすがに難しいけど……」
千紗は苦笑してから眉を寄せて言った。
「そこまで高望みはしない。私、デートっぽいことがしたい」
僕はパチパチと目を瞬いた。
「……千紗って、そういうこと言うんだ」
「自分でも驚いている」
顔を見合わせ、思わず二人で小さく笑う。それと同時に、二人の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「もっと魔法でも使わないとできそうにないこと、言ってくれてよかったのに」
「私にとってはずっと、景とデートするなんて、魔法みたいな奇跡だった。私の願い事は、ずっとこの一つだけだったのかもしれない」
千紗は小さな手の平を、そっと僕の手に重ねた。
愛しいと思った。
いくら言葉にしても言い表せない気がして、触れた場所から、僕の気持ちが全部伝わればいいのにと思う。
「最後に明日、一日だけ、デートして欲しい。普通の、恋人みたいに」
僕はたしなめるように微笑んだ。
「恋人みたいにじゃなくて、恋人だよね?」
千紗は頬を薄く染め、かわいく笑って言った。
「うん、恋人。その願いが叶ったら、私もう、何の心残りもない」
千紗が行きたい所だったら、どこにだって行く。
千紗がしたいことだったら、何だってする。
だからそんな最後みたいなこと、言わないで欲しい。
「デートしよう」
僕は小指を差し出した。
千紗もその指に、自分の小指を絡める。
「約束よ」
僕はふと、疑問に思った。
どうして人は、指の中で一番細くて弱い小指を結んで、約束するのだろう。
もっと揺るがない、確かな物が欲しいと思った。




