6-2
「病院で目を覚ました日、話したこと。……あれは、半分本当だけど、半分は嘘」
「病院で話したこと? 嘘って?」
すぐには何の話か、理解できなかった。
「第三者の協力が必要と考えて、一番に景に、私が千紗だということを話したって言ったでしょう。適任者は、景以外には思いつかなかったからって」
「あぁ、そう言ってたね」
「アリサの身体の中にいた時。私は魂だけの状態で、不完全だった。多分、いつ消えてもおかしくない状態だった。だけど眠っている時に、景の声が聞こえたの」
眠り続けるアリサに話しかけていた時のことを思い出し、細い溜め息が漏れる。
あの時は、アリサも永遠に目覚めないのではないかと、恐怖でいっぱいだった。
まさか千紗に聞こえていたなんて思ってもみなかったけれど、あの時していたことは、無駄じゃなかったんだ。
「協力とか、適任なんて、本当はどうでもよかったの」
「じゃあ、どうして……」
「私が話したいのは、最初から景だけだった。私の魂が、煙みたいに消えてしまう前に、景に一目でいいから会いたいと思った。だから目覚めたら、一番に、どうしても景に会いたかった。魂の部屋で眠っている間、ずっと景のことを考えていた。一瞬だけでいいから、景に会いたい。そればかり、考えていた」
千紗が僕を正面から見つめて、優しく微笑む。
「病室で目覚めて、景が私を抱きしめてくれた時。あぁ、もうこの一瞬だけで、報われたと思った。私の人生は今まで、本当に幸せだった」
「……そんな最後みたいなこと、言うなよ」
どちらを選ぶにしても、どちらか一方を必ず失ってしまう。
僕と、千紗と、アリサ。
もう二度と、三人で過ごすことはできないのだ。そう考えると、苦しくて堪らなくなった。
感傷に浸っている間に、花火が上がり始めた。
千紗は夜空いっぱいに広がる眩い花火を見上げながら、ポツリと呟いた。
「アリサは眩しいから」
僕は彼女の横顔を静かに見つめる。
「私はずっと、アリサのことを光だと思っていた。アリサがいるだけで、うちは明るくて、穏やかになる。お父さんとお母さんが些細なことでケンカをして、ギスギスしても、アリサが笑って二人に話しかけるだけで、パッと空気が変わるの」
「そうだね。アリサは、キラキラしてた」
千紗の言う通りだった。
アリサはいつも友人に囲まれ、みんなに愛されて、光だった。眩しい太陽のようだった。夏に咲いた、ひまわりの花みたいだった。
「うん。私には、絶対そんなこと出来ない」
「アリサはさ、周囲の空気を読むのが得意なんだよね。天真爛漫でふわふわしているように見えて、人一倍気遣いが出来る」
千紗は僕の隣でこくりと頷いた。
「私はアリサのことを、尊敬している。私は、影だから……」
その言葉を聞いて、僕は低い声で唸った。
「いや……光と影って言うより、太陽と月じゃないかな?」
千紗は驚いたように息をのむ。
「そんなこと……初めて言われた」
「僕はずっと、そう思ってたよ。どちらも必要で、かけがえのないものだろ? ほら、花火だってさ」
僕は美しい花火を指さした。パラパラと火花が弾ける様子は、綺麗だけど儚い。
「空が暗いから、綺麗に見えるんだよ。昼間の花火って、よく見えないじゃん」
「……うん」
「アリサの明るさは、いつも僕に元気をくれた。アリサが笑っているとほっとしたし、安心した。僕もアリサのこと、大好きだよ」
千紗の笑顔が、少しだけ寂しそうに陰る。
「だけど、それは幼馴染として、で」
僕は一度息を止めて、覚悟を決めた。
それから千紗の瞳をしっかりと見つめる。
「僕はずっと、千紗のことが好きだった」
花火の打ち上がる大きな音が、空いっぱいに響いて肌を震わせる。
千紗は目を見開いて、じっと僕を見た。
一瞬、時間が止まったような気がした。
「中学の時も、言ったけど。それに、千紗が僕を恋愛対象として見られないのも知ってるんだ。だけど、どうしても伝えたくて」
花火が途切れ、沈黙が落ちる。
――とうとう言ってしまった。
と言っても正確には、人生で二回目の告白だ。
千紗は弱り切ったように顔を俯け、いつもの考える癖で、長い髪を耳にかける。
やっぱり困らせてしまった。
このまま走って逃げ出したい衝動に駆られる。
千紗は消えてしまいそうな声音で言った。
「……私だったら、絶対アリサを選ぶ」
「しょうがない、それでもどうしても千紗が好きなんだから」
千紗がこちらに視線を向ける。
真っ直ぐな瞳が、僕を射貫く。
勝手に頬が熱くなった。
「どうして私なの?」
「わ」
「わ?」
「……わ、分からない。多分、不器用、だからかな」
「不器用……」
千紗は釈然としない顔をした。
当たり前だ。我ながら、下手くそな回答だったと思う。
挽回しようと、僕はたどたどしい言葉を重ねる。
「多分、ずっと千紗のことが好きだった。でも、ハッキリ気付いたのは小学六年生の時、図書室で、かな」
「図書室……?」
千紗は基本的に、小学生の時も、中学生の時も、図書室に入り浸っていた。
休み時間も放課後も、千紗は暇さえあれば図書室で過ごしていた。
千紗は読書をしている時はかなり熱中していて、近くに人がいても、声をかけられても、気が付かないことも珍しくない。
まるで図書室の主みたいだった。僕はそんな千紗を、そっと見ているのが好きだった。
ただ六年の秋、千紗が教室で孤立してしまった時期があった。
千紗はいつも通りで、大きな原因や事件があったわけではないはずだ。
詳しいきっかけは、忘れてしまった。確か千紗が毎回テストで満点だったから、それを不正だと疑っている生徒がいるとか。
そんなくだらない、些細なことだったと思う。
小学生の女の子なんて、しょっちゅうグループが変わる。ケンカしていたと思ったら、仲直りしているのも日常茶飯事だ。
そして千紗はどこのグループにも属しておらず、いつも自由だった。糸のついていない凧みたいに、好きな場所をきままに飛び回っていた。
そんな千紗を、気にくわないと思う人間がいたのだろう。
授業などで必要な時、千紗が話しかけても、女子たちは無視するようになった。
自分の意思で選んで一人でいるのと、疎外されて一人ぼっちになるのは、まったく違う。
その時僕は同じクラスだったが、鈍感な僕が気付いた時には、千紗は完全に孤立していた。
僕は担任に相談しようとすすめたが、千紗は「別に構わない」と言って、取り合ってくれなかった。むしろ「教師を巻き込んで大事になると面倒だから、このまま沈静化するのを待つ」と言った。
僕はもやもやしていたが、千紗が気にしていないのなら、口を出すのも余計なお世話だろうかと悩んだ。
千紗は他人に興味がないから、子供っぽい仲間外れなんて、興味がないし平気なのかもしれない。
その日の放課後も、千紗は一人で図書室にいた。
僕は彼女の斜め向かいの席に座る。
『千紗、大丈夫?』
そう問うと、千紗は本を見つめたまま、抑揚のない声で答えた。
『平気』
『そっか……』
よかった。やっぱり千紗は強いんだ。僕なんかが、心配する必要もないくらいに。
そう、思った瞬間。
千紗は本を見つめたまま、ポロポロと涙を流した。
僕は言葉を失った。
本を持つ彼女の指が、小さく震えていた。
思えば千紗が読んでいた本は、ずっとページがめくられていなかった。
彼女はずっと、感情を押し殺していただけなのだ。
千紗は、自分の感情を滅多に見せない。
だけど幼い頃の千紗は泣き虫で、いつも泣いていた。同じ歳のアリサがお姉ちゃんになりきって、彼女を守らなくてはならないくらいに。
自分の愚かさに、思いきり頭を打ち付けたくなった。
どうして僕は忘れていたんだろう。
きっと千紗の本質はそこから大きく変わっていなくて、平気なふりをしているだけで、本当は怖がりで泣き虫な女の子のままなのに。
僕は立ち上がって、彼女に向かって叫んだ。
『千紗、我慢しなくていいよ! 何かあったら、泣いてもいいんだよ!』
千紗は顔を上げ、やわらかく微笑んだ。
『大丈夫。たとえ、世界中の人が敵でも……私には、アリサと景がいるから。二人がいて、よかった。多分たった一人だったら、平気でいられなかったかもしれない。アリサと景が私のことを分かってくれるなら、それでいい』
そう言って微笑んだ千紗の表情を、今でも鮮明に思い出せる。
千紗はしんみりとした様子で言った。
「あの後、結局アリサがうちのクラスに乗り込んできて、クラスの子に怒ってくれて、無視が治まった。アリサは凄い」
「アリサってさ……ほんと、千紗のこと大好きだよな」
どこからか噂を聞きつけ、千紗が浮いているのを知ったアリサは、千紗のクラスに現れ、「千紗をいじめる子は私が許さないから」って、有無を言わせぬ笑顔で怒った。
子供ながらに妙に迫力があって、それでクラスの女子の妙な態度は、ぴたっと治まった。
「あの時、僕は千紗がどんどん大人になっているように見えた。難しい勉強をして、まったく内容が理解できない本を読んで、行動範囲も広がって、千紗の勉強している内容が、大人に認められたり。僕はずっと一緒にいたのに、まるで千紗が、知らない人になって、手の届かないところに行ってしまうようで不安だった。それに、もう僕なんかいなくてもいいんだって考えてた」
「そんなことない。私には景が必要だし、私自身は、何も変わってない」
「うん、そうなんだろうね。千紗は、僕とアリサに分かってもらえればそれでいいって言った。千紗が悩んでいたのに、最低だけど……僕は、千紗に必要とされて嬉しかったんだ。その時の千紗の背中がすごく小さく見えて、頼りなくて。あの時、僕が千紗のことを、一生側で守ってあげたい思った」
千紗は頬を少し赤くして、一生という言葉を反復した。
「景は昔、千紗とアリサ、二人と結婚してやるって言ってた」
「言ってたね、そんなこと」
シャルを拾った時のことだ。
知らないバス停で降りて、迷子になって、このまま家に帰れなかったら、三人で結婚して暮らそう。本気であの時は、そう考えていた。
「無神経だと思った。そんなことできないって、あの時から知ってた」
怒っているような口調に、少したじろぐ。責められているんだろうか。
僕と目が合うと、千紗はふっと笑みをもらした。
「でも、景なら本当にそうしてくれるような、そんな気もしてた。あの時から、アリサはあなたのことを好きだったから。私はずっと、アリサと景がうまくいけばいいと思っていた。二人は、とてもお似合いだから」
「アリサが僕を?」
千紗はまるで自分の弱味を見透かされたように、薄く微笑んだ。
「まったく気付いてなかった……なんて、さすがに言わないでしょう?」
「……うん」




