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「殴り合いのケンカになったって聞いた」
千紗はピッと絆創膏を伸ばし、僕の頬にぺたりと貼り付ける。
「痛っ……」
殴られて痣になった頬が、ズキズキと痛んだ。
「痛いの?」
「うん、全身痛いな……。さっきはアドレナリンが出てるせいか、全然痛くなかったけど。冷静になったら、どこもかしこも痛いよ」
あの後、僕と入谷先輩は、生徒指導室に正座させられ、みっちり説教された。
ケンカの理由を聞かれたが、互いに話したくなかったので、押し黙っていた。
入谷先輩の顔を見るのすら嫌で、隣にいるのに極力目を合わせないようにしていた。
その態度がよりいっそう生徒指導の怖い教師の怒りのボルテージを上げた。
結局母に連絡が行き、僕は自宅に強制送還されることになった。
そして、停学三日という処分が下されてしまった。
わざわざ仕事を中断させ、迎えに来させて母に手間をかけてしまったのは本当に申し訳ない。
それに先輩と殴り合いになったなんて父に知られたら、どんな顔をされるか……。嫌味を言われるのを考えただけで、胃が痛かった。
どこもかしこも痛い。満身創痍だ。
僕がケンカしたことを知り、授業が終わると千紗はすぐさま僕の家に駆けつけてくれた。
そして現在、こうしてケガの手当てをしてくれている。
千紗は消毒液をガーゼに染みこませながら、僕の傷口を押さえる。
「痛っ……! それ、染みる」
「我慢して。おばさん、大丈夫だった?」
母さんの真っ青な顔を思い出し、情けなさで力が抜ける。
「あんまり。最近心配かけてばっかりだから、これ以上余計な心労を増やしたくないんだけど」
「まさかおばさんも、景が先輩と殴り合いのケンカをするなんて思わなかったでしょうね」
「そうだろうね。僕、生まれて初めて人を殴ったよ」
「感想は?」
僕はまだひりひりしている自分の右手を、開いたり握ったりした。動かす度に、皮が剥けている部分が痛んだ。
「人を殴ると、自分の手も痛いんだね。というか、僕だけが一方的にダメージを受けてた気がする。自分の拳でさえ、味方になってくれないんだもんな」
「指が折れなくてよかった」
そう言って、千紗は僕の右手にぐるぐると包帯を巻いた。
「ちょっ……包帯お化けみたいになってるんだけど。とにかく、もう二度とケンカはしたくない」
「そうしたほうがいい」
僕の治療をあらかた済ませると、千紗は小さく首を傾げる。
「どうしてケンカしたの?」
「……言いたくない」
千紗は冷静な声で言った。
「そう。言わなくても、だいたいの理由は推測できるけれど」
僕は精一杯の嫌味を込めて言う。
「さすが天才ですね」
それなら、聞かなくたってよかったのに。僕がいじけているのを子供っぽいと思ったのか、千紗はおかしそうに苦笑した。
「別に天才じゃなくても。あの人がアリサに告白したことは知っている。振られてからも、しばらくはしつこく付きまとっていたことも。それを知っていれば、何が起こったのか予測は容易」
それから千紗は、しゅんとした様子で、こちらに向かって頭を下げる。
「……ごめんなさい」
「何で千紗が謝るんだよ」
「私のせいでしょう」
「千紗のせいじゃないよ」
千紗は小さく首を横に振る。
「……景には黙っていたけれど、事故の後、退院して登校した直後、あの人に告白された」
「え、いつの間に!?」
「確か……登校しはじめた、翌々日だった」
「そうだったんだ……」
ちっとも知らなかった。入谷先輩について、勝手に軽そうだというイメージを持っていたけれど、本気だったのかもしれない。
「休み時間、屋上に呼び出されて、好きだと言われた。どうしても、アリサのことを諦められなかったと」
「何て答えたの?」
「私はアリサじゃないし、彼のことをアリサがよく思っていないのも知っていたから、付き合うことはできないと答えた。それでもなかなか引き下がろうとしなくて、どうしていいか分からなくて、『あなたのことは好きじゃない、これ以上付きまとわないで』と、キツい言い方をしてしまった。それに傷ついたのかもしれない。きっと本当のアリサなら、もっと上手にできた」
千紗は悩むように声を続ける。
「あの先輩が、真剣なのも分かった。本当に、アリサのことを好きなんだと思う」
しゅんとした様子でそう言ってから、キッと眉を上げた。
「でも、暴力をふるう人間は最低! 景を傷つける人は、絶対に許さない」
彼女の瞳は、怒りで燃え盛っている。
「いや……まぁ、カッとなって先につかみかかったのは僕の方だし」
「どうして怒ったの? 怒らざるを得ないことを言われたんでしょう? 景は、理由なく他人を殴ったりしない。今まで一度だって、景が誰かを殴ったことなんてなかった。幼稚園の頃、大事にしてた戦隊物のヒーローの人形を壊された時だって、怒らなかったじゃない」
「いつの話だよ」
「よほど酷いことがあったんでしょう? 私とアリサのことを、言われたんでしょう?」
千紗には僕がどんなことを言われたのかも、おそらく推測がついているだろう。
『妹が死んだから、乗り換えたんだろ』
それでもあの言葉はおぞましく、絶対に千紗には聞かせたくないと、唇を噛む。
僕はにこりと笑い、重い空気を振り払おうとする。
「でも、思いがけず休みを貰えてラッキーかも。三日間停学になったから。その間学校行けないんだよね。僕がいなくても大丈夫?」
そう心配すると、千紗は長い髪をさらりと手でなびかせた。
「私の学習能力の高さにひれ伏して。もう、完璧にアリサを演じられるようになった」
「あー、だよね。千紗のアリサの振り、板についてきた。最近、学校で見ると、本当に立ち振る舞いとか、話し方とか、アリサっぽい」
「当然。私が一番、アリサのことを知っている」
思わず笑ってしまったが、それと同時に僕は悲しくなった。自分でない人を四六時中演じなくてはいけないなんて、どれだけ負担だろう。
特に千紗は、元々人との会話が得意じゃない。それでもアリサの魂が身体に戻った時、アリサが周囲の友人との関係を円滑にできるよう、頑張っているのだ。
いつなのかは分からないが、千紗の魂が消えてしまうというのも、耐えがたい恐怖だった。
ずっと調べてはいるが、当然ながら魂を定着させる方法なんて、どこにも書いてない。
二人を助けるなんて大見得をきったのに、結局何もできないんだろうか。
千紗は目を伏せ、ポツリと呟いた。
「だけど、両親だけは……。少し、私が本当にアリサなのか、怪しんでいるような気もする」
「そうか……。一緒に暮らしてるしね」
「どうしても、細かい部分や、受け答えで。ふと気を抜くと、私が出てしまいそうになる」
家の中でも気を休めることができず、千紗はずっとアリサを演じないといけないのか。
それに、本当だったら、自分が千紗だと打ち明けたくてたまらないはずだ。
「千紗、言ってもいいんじゃないかな? おじさんとおばさんには。むしろ、言うべきだと思う」
「言わない。信じてもらえないだろうし、信じてもらえたって、混乱させて悲しませるだけだから」
「そっか……」
僕は少しさみしい気分になりながら、千紗を家に送り届けた。




