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テセウスの船はもう見えない  作者: 御守いちる


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13/23

4-3



 ♢


七月も半ばになり、茹だるような暑さが続いた。

湿気が多いから、何をしていてもぐったりしてしまう。

千紗は、相変わらず僕の側にいた。


そのことが、ただ単純に嬉しかった。

例えこの日々が薄氷の上にかろうじてあるような幸福でも、一日でも長く、千紗と一緒にいたかった。


しかし、一方でアリサのことも心配だった。千紗は魂の部屋で眠っていると言っていたけれど、どんな状態なんだろう。

千紗にアリサのことを聞いてみたが、存在は感じるが、やはり会話することはできないらしい。千紗もアリサのことを心配しているようだった。

僕は僕なりに、二人を救う方法を探し続けた。しかしどれも眉唾で、うさんくさいものばかりだった。

そもそも僕の何倍も頭がよく、様々なことを知っている千紗がその方法を見つけられないのに、僕に分かるわけもなく。かといって、無駄だと諦めることはしたくないけれど、どうすればいいのかが分からない。八方ふさがりだ。



「景、もう昼休みだぜ。食堂食行かないのか?」


自分の席でぼけっとしていた僕は、瀬川に声をかけられて立ち上がる。

「あ、うん、行く行く」

僕はスラリとした瀬川の背中を見つめながら歩いた。

瀬川は僕と正反対だ。

彼は野球部のエースで、運動全般が得意。朝早くに起きて朝練をしているからか、授業中は居眠りしていることが多い。腕がいいからか、試合ではスタメンに入っているらしく、女の子にも人気がある。

顔も常に怒っているようではあるが、整っている。


しかし彼の興味は、専ら食べ物と野球にしか注がれていないようだ。

午前中なのに腹を空かせて、早弁している姿をよく見る。そして昼になると、購買で弁当やパンを山ほど買って、がつがつ食べる。

瀬川と僕の唯一の共通点は、ゲームが好きなことくらいだ。

僕はアリサとよく、好きなキャラクターと武器を使って相手を吹っ飛ばすアクションゲームで遊んでいた。


一度家で瀬川と対戦した時、彼は自信があったらしい。だが、僕に見事に完敗してしまった。

それ以降、瀬川は野球部の練習がない日は、ゲームをするためによく僕の家に遊びに来ていた。瀬川は負けず嫌いな性格のようで、ムキになっている姿は微笑ましかった。

瀬川と昼食を食べ終わり、食堂から教室まで戻ろうと廊下を歩いていると、後ろから知らない先輩に声をかけられた。



「おい、お前」


僕は高校では部活動をしていないので、上級生の知人はいない。

だから最初、僕に話しかけていると思わなくて、そのまま通り過ぎようとした。

すると彼は、もう一度僕に声をかけた。


「おい、無視するなよ、日比谷景」


フルネームで名前を呼ばれ、驚いて顔を上げる。

彼は瀬川と同じくらい背が高い。スラリとして手足が長く、見るからにスポーツマンという雰囲気だ。

女子に好まれそうな顔立ちだった。ゆるくパーマのかかったような髪型のせいか、若干軽そうな雰囲気もある。


見覚えのある人だと考え、誰だっけと考えた。確かこの人は、バスケ部の三年生で――そして、一年の秋頃、アリサに告白して振られた人だ。


名前は……そうだ、入谷いりや先輩だ。


名前を思い出すと、過去にアリサとした会話も、ぶわっと蘇った。


『アリサ、入谷先輩って人に告白されたって本当?』

放課後、靴箱でそう問いかけると、アリサは気まずそうに苦笑した。

『へぇ、景君まで知ってるんだ』

アリサがあまりにもいたたまれない表情だったので、僕は申し訳なくなった。

『どうして付き合わなかったの? バスケ部の、人気の先輩だったんだろ? あの人、格好良いし』

それを聞いたアリサは、少し責めるような瞳で僕を睨んだ。

『じゃあ景君は、人気で美人の先輩に告白されたら、よく分からない人でも付き合うの?』

『それは……どうだろう』


僕はずっと千紗のことが好きだったので、おそらくそんな自体になっても断っていただろう。まぁそもそも、そんなことは絶対に起こらないんだけど。

『私、一目惚れってよく分からない。だって、ほとんど話したこともない人だよ。入谷先輩は、友達の知り合いだったから、本当に数回、挨拶をしただけ。それだけで、誰かのことを好きだと思えるもの?』

アリサはいつも優しい話し方をするのに、その時は妙に突き放した言い方だったのが印象的だった。

『勘違いしないで。別に、一目惚れする人を否定するわけじゃないの。でも、私は恋人になるなら、やっぱりその人のこと、ちゃんと知ってからにしたい。いいところはもちろん、悪いところも含めて、全部好きって言い切れるくらい』


少しロマンチックすぎるというか、理想的すぎる考えだけど、アリサらしいと思った。


『だからほとんど話したことがない人に告白されても、どうしていいのか分からない』

『でもほら、お友達から始めて、だんだん好きになるパターンもあるらしいし』

アリサはいじけたように僕を睨む。

『さっきから、景君。まるで入谷先輩と私が、付き合ったらよかったって言いたいみたい』

思わず言葉につまってしまった。


『そんなつもりはないよ。というか僕、勝手なこと言うけど……そうなったら、ちょっと嫌かもしれない。さみしいっていうか、アリサがとられたみたいっていうか』

それを聞いたアリサは、声をたててクスクスと笑った。

『景君はずるいね。でも、お姉ちゃんポイントは高かったな、今の発言!』

『何、お姉ちゃんポイントって』


たった半年くらい前の出来事なのに、遠い昔のことのような気がした。



僕が考え事をしているのが気にくわなかったのか、入谷先輩は顔をしかめて僕の肩を引っ張る。


「お前、聞いてるのか? ちょっと来いよ」

「え? どこにですか?」

僕を引っ張って行こうとする入谷先輩の手を、瀬川がぐっと掴んだ。

「突然アンタ、何なんですか?」

「は? 俺は三年なんだけど? 関係ないやつは引っ込めよ」

「三年だったら、いきなり失礼な態度で二年を連れてっていいとでも? 関係ないのはアンタの方だろ」


二人が一触即発という感じで火花を飛ばしていたので、僕は焦って二人の間に割って入る。

瀬川は野球部の大事な選手だ。試合も勝ち進んでいるし、揉め事になって部に影響でもしたら、申し訳なさすぎる。


「瀬川、大丈夫だよ。僕、話してくるね」

「いや、でも……聞かなくてもいいだろ、こんなやつの話」

瀬川は不服そうに顔を歪める。


「誰がこんなやつだ!」

入谷先輩が今にも殴りかかろうとするので、僕は彼の手を押さえた。

「大丈夫大丈夫。先に教室帰ってて!」

そう言うと、瀬川は納得がいかないような態度だったが、しぶしぶ教室の方向へ歩いて行く。



僕は黙って、入谷先輩の後について歩いた。

彼の態度からして、愉快な話でないことは容易に想像できた。

やがて入谷先輩は校舎裏の、人気のない場所で足を止めた。


「それで、何の用ですか?」

「お前、アリサと付き合ってるのか?」

「いえ、違いますけど……」


やっぱりアリサ絡みのことか。

アリサを呼び捨てにされただけで既にカチンときてしまった僕は、心が狭いだろうか。

アリサ――魂は千紗だけど――が退院してから、学校では僕と一緒にいる時間も長い。

最近ではだいぶアリサを演じるのに慣れた様子だが、そもそも千紗は人間付き合いが不得意な性分だ。困っていたらフォローしようと思って、なるべく側にいる。


入谷先輩は、おそらくまだアリサのことを好きなのだろう。

彼がこの状況を面白くないと思うのは、仕方ないかもしれない。

「幼なじみとして、アリサが心配なんです。まだ、退院したばかりだから。僕は、アリサの家族みたいなものだって思ってるから」

そう話すと、彼は嘲るような表情で笑った。

「お前、どっちでもいいんだな」


その瞬間、目の前が真っ白になった。最初、何を言われたのか理解できなかった。


「……どういう、意味ですか」

「今までは、妹の方と仲良かったんじゃねぇの? 妹が死んだから、顔が似てるアリサに乗り換えたんだろ? 最低だな」

大切にしていた宝物を、無遠慮に泥だらけの手で汚されたような気分だった。

その言葉に、かっと頭が熱くなる。

「あんたに、何が分かるんだよっ!」


僕は無意識のうちに彼につかみかかった。

僕の手は小刻みに震えていた。恐怖でなく、怒りで手が震えるのなんて初めてのことだった。

彼は少し驚いた様子だったが、叫びながら僕を押さえようとする。

「てめぇ、ふざけんなよ!」


今の言葉だけは、絶対に許せない。

怒りが次から次へと、胸の中に流れ込んでくる。全身が溶岩になったみたいだった。

「何も知らないくせに! 僕たちのことなんか、あんたは何も分からないくせに!」

彼を睨みつけ、大声で叫ぶ。


「千紗が死んで、みんながどれだけ悲しかったか、アリサが事故にあって、どれだけ心配したか、何も分からないくせに!」


言った瞬間、頬に強い衝撃を浴びる。

殴られたのだと気付くのに、数秒かかった。口の中に、鉄の味が広がる。

「調子に乗ってるんじゃねぇぞ!」

抵抗するため、彼の手を思いきり振り払う。

「謝れっ! 今の言葉だけは、絶対に許さない! 僕のことはともかく、千紗とアリサを悪く言うやつは絶対に許さない!」


その後は気が付くと、取っ組み合いのケンカになっていた。

とはいえ僕は、今までまともにケンカなんかしたことがない。極力争い事を避けて生きてきた人間だ。口ゲンカですら、ほとんどしないようにしてきたのに。


そんな僕が入谷先輩に勝てるかというと、結果は火を見るより明らかだった。

身長も体格も彼の方がいいし、半ば僕はサンドバック状態だった。

何度も殴られ、頭がくらくらした。

それでも絶対に譲りたくなかったので、僕も気力だけで手を振り回し、彼に反撃した。

「おい、景、何やってるんだよ!」


瀬川の声が聞こえ、先輩から引き離された。

どうやら瀬川は一旦教室に帰ったふりをしたが、僕のことがが心配で様子を見に来てくれたらしい。

瀬川に止められて、やっと正気を取り戻した。

だが運が悪いことに、瀬川から数秒遅れ、二年の学年主任がやってくる。

「こら、お前たち、何をしているんだ!」


僕は血の気が引いていくのを感じ、必死に弁解する。

「あの、瀬川は関係ないんです!」

そう訴えると、先生はビリビリと響く声で叫んだ。


「分かっとる、上の階から丸見えだった! とにかく保健室に行って手当が終わったら、入谷と日比谷、お前たち二人は、生徒指導室に来なさい!」



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