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アリサ――の身体に入った千紗の病状は順調に回復し、数日であっという間に退院できることになった。
病院にいる間、千紗はリハビリのため、歩く練習を重ねていた。
最初はまるで生まれたての子鹿みたいにすぐに転んで心配だったけれど、彼女の努力は著しかった。僕も精一杯、千紗のリハビリを手伝って、日を追うごとに元通りに歩けるようになった。
そして、とうとう千紗は宣言した。
「昨日、担任にも相談した。明日から、高校に通う」
「明日って……そんなすぐ。本気?」
「もちろん。ずっと休んでいると、出席日数が足りなくなる。担任は事情を考慮して、試験などで出来る限り対応してくれるとは話していたけれど、既にギリギリ」
「そりゃ、そうだけど……」
学校に通うなら、当然アリサとして通うことになるはずだ。
千紗とアリサは、顔はそっくりだけど、まったく違う性格をしている。大丈夫なのだろうか。
僕はいてもたってもいられなくて、翌朝冬月家へ千紗のことを迎えに行った。
千紗は、どこかに出かける時、準備がめちゃくちゃ速い。
なぜなら本当に最低限のことしかしないからだ。
顔を洗う、髪をとく、服を着る、終わり、って感じ。女子にあるまじき早さだ。
それに対してアリサは、めちゃくちゃ時間がかかる。近所のスーパーに行くだけでも、何十分も洋服をしっかり選んでメイクをする。
なのに、今日の千紗は、珍しく悩んでいるようだった。
僕はなかなか降りてこない千紗が心配になって、部屋まで迎えに行った。
当然だが、千紗は死んでいることになっているから、アリサの部屋に入らなくてはいけない。
アリサの部屋は、ピンクと白を基調にした可愛らしい部屋だ。ベッド脇にある棚にはぬいぐるみがたくさん並んでいる。
「どうしたの、千紗?」
姿見の前で、弱り切った顔の千紗が立っていた。
「景、スカートってどうすれば短くなるの?」
「え? 折るんじゃないの?」
「ボコボコする……」
「折り方が適当だからじゃない?」
そう言われれば、確かにアリサのスカートは、校則より少し短かったな。
千紗は鏡にうつった自分の姿を確認し、納得できないように顔をしかめている。
「アリサっぽさが足りない気がする……」
「うーん、そうかな。強いて言うなら、髪型かな」
「髪の毛、結んだ方がいい? でも、不器用な私にできると思えない」
アリサの髪型は、毎日完璧だった。寝癖がついてるところなんて、一度も見たことがない。
「その方面では、僕も役に立たないしなぁ……。とりあえず今日は、何もしなくていいんじゃない? そろそろ出ないと、遅刻になるよ」
千紗は最後に駄目押しとばかりに、ポケットに入っていた色つきのリップを唇に塗る。
千紗は、必死にアリサになりきろうとしていた。少なくとも、僕はそんな風に見えた。
いつもと同じ通学路を、千紗と並んで歩く。またこんな日が来るなんて思わなかったから、嬉しいと言えば嬉しいけど。それより僕は、心配だった。
「千紗、本当に学校に通う気なの?」
「もちろん。ずっと休んでいたし、これ以上休むと出席日数が足りなくて、留年してしまう」
「それは……あの……アリサとしてってことだよね?」
「当然。この身体はアリサの物なんだから」
「うーん……」
千紗は本当に、アリサになりきれるんだろうか? 想像したが、さらに不安が膨らむ一方だった。
教室に着くと、千紗は周囲の生徒にわっと取り囲まれる。
アリサが回復したという噂を聞きつけて、他のクラスからも、次から次へと生徒が集まってくる。
「大丈夫だったアリサ!?」
「心配したんだよ!」
「よかったよ、アリサー! 何回もお見舞い行ったんだけど」
「千紗ちゃんのことは、気の毒だったね……」
「でも、アリサが無事でよかった」
千紗の周囲には、あっという間に人垣ができた。
これほど心配してくれる人がいるなんて、アリサは本当に人気者なんだな。僕はしみじみと実感する。
彼女を抱きしめ、涙を流して喜んでいる女子生徒までいる。
千紗は少し強ばった表情で、ニコニコ笑ってなんとかそれを受け流していた。
本当に大丈夫だろうか……。
休み時間、僕は千紗に首根っこをつかまれ、空き教室に引きずり込まれた。
自分――というかアリサを探す生徒たちから巧妙に逃げてきたようだ。
千紗はどんよりした表情で、肩を落とした。いつもキラキラしているアリサが絶対にしないような顔だ。
彼女は僕に問いかける。
「私のアリサのふり、どうだった?」
「うーん、あんまりだね。ちょっと不自然だった。他の人は気づいてないだろうけど」
千紗は椅子の上にわざわざ体育座りをして、ぼそぼそと喋る。
「私はアリサが怖い。廊下に出る度、知らない人に話しかけられる。今日だけで、おそらく百人くらいの人間に話しかけられた。そして私は、誰一人知らない」
「千紗が顔と名前が一致する同級生って、何人いるの?」
「アリサ。景。…………」
黙り込んだ千紗に、驚愕する。
「え、終わり!? せめて自分と同じクラスの人間くらいは知っておこうよ!」
「その景とアリサだけ分かれば、生きて行けるし」
僕は思わず溜め息を吐いた。
今年は僕も千紗もアリサも、三人とも別のクラスだ。
僕も友人が多い方じゃないし、残念ながら千紗が困っていてもすぐにはフォローできない。
にしても千紗、本当に周囲の人間に興味がないんだ。せめて同じ中学から来た人間くらいは覚えておいてあげなよと思うけど。
呆れを通り越して、むしろ尊敬してしまう。
「アリサ、人気者だからね。実際病室、お見舞いのお菓子とかぬいぐるみがいっぱいあったしな」
千紗はどんよりとした雰囲気で、膝に頭をめり込ませる。
「そうでなくても、ずっと他人と最低限の会話しかしていなかったのに……人間が怖い。アリサになりきるのは、難しい。今日の放課後もあれよあれよという間に、知らない人と一緒に出かけることになってしまった」
「知らない人じゃないでしょ。とにかく、顔と名前は一致させるんだよ。千紗、記憶力いいんだから、それくらい簡単だろ?」
「興味の無い事柄を覚えるのは苦手……。それならまだ、円周率を覚えていた方が心が落ち着く」
そう呟き、千紗は呪文のように3.14159265358979323846……と唱えだした。千紗の表情が、だんだん安らかなものになっていく。
確か千紗は、円周率を十万桁まで暗記していた。小学生の時、やることがなくて暇な時期、ひたすら円周率を覚えていたのだ。
円周率より優先度が低いとみなされた周囲の人たちを、少し気の毒に思った。
「とにかく、そんな気張らなくていいと思うよ。なんならニコニコ笑ってるだけでいいと思う」
「……頑張る」
結局放課後、千紗はアリサの友人に連れられ、駅前で遊ぶことになってしまったらしい。大丈夫かなぁ……。
千紗はこれから荷馬車に乗って市場に売られる子牛のように、不安そうな瞳で僕を見ていた。しかしさすがに女子五人で出かける中に、単独で入っていく勇気はない。
頑張れ、と力強く拳を握って応援してみたが、千紗は口をへの字に曲げただけだった。
僕が帰宅し、自分の部屋でそわそわしていると、数時間後、千紗からメッセージが送られてきた。
どうやら彼女も無事に帰宅したようだ。
家に行っていいか訊ねると、むしろ来てと言われたので、千紗の家に向かう。
「で、どうだった?」
「私、今までアリサと景以外の人と、帰りに買い物とか寄り道とかしたことがなかったから……」
うまくいかなかったのだろうか?
少し心配したが、千紗の様子を見ると、そういう感じでもない。
「友達だからって、みんな趣味が同じってわけじゃないんだね。私、親しい友人というのは、全部好みが一緒なのだと思っていた。ずっと、友人なんていなかったから。ファミレスに入って、退院祝いだと言って、たくさん話した。こんなに話すことも、誰かの話を聞くことも、もう、一生ないんじゃないかってくらい」
いつもは口数の少ない千紗が、呼吸をするのももったいないと言わんばかりに口を動かすのが、微笑ましかった。
「アリサが友人に愛されていたのだと、改めて実感した。アリサが帰って来てよかったって言って、みんな泣き出してしまって……。しばらく泣き止まなくて困ったけれど、私はそれが、嬉しかった」
千紗はやわらかい笑みを浮かべて続ける。
「私はずっと、この世界で、私がアリサのことを一番よく知っていると思っていた」
「それは、その通りなんじゃない?」
千紗は緩く首を横に動かす。
「ある意味ではそうだけど、ある意味では違う。きっと、私しか知らないアリサも、たくさんいて。だけど、アリサの友人は同じように、私の知らないアリサを、たくさん知っている。それが嬉しいし、少しさみしくもあった」
一気に話したから疲れたのか、千紗は溜め息をついて、しばらく目を伏せた。
僕たちに沈黙が落ちた瞬間を見計らったように、にゃあん、と鳴き声がした。開いていたドアの隙間から、するりとシャルが身体を滑り込ませ、じっとこちらをのぞいている。
千紗はシャルにおいで、と声をかけるが、シャルは不思議そうに千紗を見て、それから何だかがっかりしたように、廊下に消えてしまった。
千紗は少し困ったように苦笑する。
「やっぱりシャルには、分かるのかも。シャル、私よりアリサに懐いていたから」
「動物の勘ってやつかな。すごいね」
千紗は晴れ晴れとした表情で両手の指をくみ、背伸びをした。
「でも今日は、本当に楽しかった」
「ずっと心配だったから、僕もほっとしたよ」
てっきり失敗して、泣きそうな顔をして帰ってくるかと思っていたけれど。僕が過保護だったようだ。
千紗は清々しい表情で微笑む。
「うん。最後に楽しい思い出ができて、よかった」
――その言葉に、僕は表情を強ばらせる。
「……最後って、どういうこと?」
千紗は笑顔のまま、何のてらいもなく言った。
「そのままの意味。ずっとアリサの身体を借りているから。なるべく早く、返したいと思う。今はまだ、その方法が分からないけれど」
「返す、って……」
心臓が、細い糸で締め付けられたように軋む。
「景。薄々気付いていたけれど、多分、そのうち私は消える」
その言葉で、深い谷の底に突き落とされたような気持ちになる。
「消えるって……消えるってどういうことだよ!? だって、せっかくまた会えたのに!」
「景、知ってるでしょう? 私の身体は、もうない」
「だけど……確かにそうだけど、どうにかならないのか!?」
千紗は冷酷なほど、キッパリと言い切った。
「ならない。これは、アリサの身体。だから私の魂が入る余地は、元々あるはずがなかった。今の状態は、奇跡が起こっているだけ。私は神話を読むのは好きだけど、神様が本当にいるのかどうかは分からない。私はおまけをもらっただけ。もうすぐこの世界から消える。これは、確定事項」
「だって……」
言いたい言葉がいくつも浮かんで、やがて消えた。
僕だって、薄々は気付いていた。
目の前にいるのは、千紗だけど千紗じゃない。
ここにあるのは、確かにアリサの身体だ。魂は二人分あっても、身体は一つだけ。
計算は合わない。
「でも、嫌だよ。僕はアリサも千紗も、二人とも、一緒にいたいんだ! 千紗は頭がいいだろ!? だから、探せば、何か見つかるんじゃないか? 千紗とアリサ、二人とも助かる方法が……」
言葉にすればするほど、欲しいおもちゃが手に入らなくて、ワガママを言っている子供みたいだった。
千紗はそれをなだめるように、穏やかな表情で僕を見つめる。そんな顔、しないで欲しい。どうにもならないって顔を、しないでほしい。
「僕、探すから! 二人とも助かる方法! 千紗とまた会える奇跡が起こったんだ! だったらアリサも千紗も二人とも助かる、そんな方法だってあるかもしれないだろ!?」
そう告げると、千紗は静かに頷いた。
なんて頼りない安請け合いなんだろう。とてもじゃないが、僕みたいな何の力もない高校生に、どうにかできるはずがない。
だけど僕が諦めたら、そこで全部終わってしまう気がした。また別の形の奇跡だって、起こるかもしれないじゃないか。
僕の顔を見て、千紗は寂しそうに笑った。
「ありがとう、景」




