第9話 痕
アルシオン王太子の正妃――
それは、次期王妃を意味する。
他にも王子はいるけれど、殿下が抜きん出て優れている。
飢饉の折には倉を開き、民を救ったと聞く。
隣国の侵略では、名将を相手にしながら前線で退けたと噂されている。
その経歴は国を越えて轟き、
まるで太陽のように照らし導く人――。
そんな方の正妃候補だと告げられたとき、
私でいいのだろうかと怯みながらも、ときめいていた。
……では、王妃にふさわしいのは、どんな人だろう。
サフィア。
あの武官が、迷いなく殿下の隣に立つ姿を思い浮かべる。
孤独な王にも、
真っ直ぐに寄り添い続けられる人。
――きっと、彼女だ。
けれど――それだけでいいのかな。
小さなざわめきが残り、
問いかけが消えない。
◆
後宮に暮らし始めて、しばらく経つ。
妃候補たちと馴れ合うことはないけれど、特に
争いごともなく――比較的、穏やかに過ごせている。
「さて……
今日は本を閉じて、散歩にでも行きますか」
リサを連れて回廊を歩き出す。
最近、リサは少しずつ文字を読めるようになってきた。
山岳地帯の出身だからか、特に植物の本を好んで手にしている。
散歩の途中でも、花や草を見ると立ち止まり、名前や効能を教えてくれる。
私が本で読んでもいまいち実感が湧かないことも、
リサから聞くと不思議と頭にすっと入ってくる。
ちらりと横に立つリサを見やり、自然に口元がほころぶ。
リサも気づいたのか、小さく笑い返してきた。
その時――
回廊の角を曲がった先に、壁際を伝うように歩く侍女の姿が目に入った。
足取りが妙におぼつかない。
「……大丈夫?」
セレナが声をかけると、侍女はびくりと肩を揺らし、慌てて振り向いた。
「ひ、姫様……な、なんでもありません」
俯いたままそう言うが、袖口の隙間から、不自然な紫の痕がちらりと覗いた。
「それ……どうしたの」
指先で示すと、侍女は一瞬ためらってから、小さく答えた。
「仕事中に……棚にぶつけて」
「仕事中の怪我なのに、休ませてもらえないの?」
口では穏やかに問いかけつつ、
その痣が、答えを語っていた。
隣にいたリサが、抑えきれない様子で口を開く。
「そんな痣になるまでぶつけるなんて、
おかしいですよ!」
侍女は顔を伏せ、消えるような声で
「本当に……なんでもないんです」と繰り返す。
「……女官長には報告したの?」
「……いえ、その……」
言葉を濁すと、侍女は一礼して、足早に立ち去ってしまった。
「あれは絶対誰かにやられたんですよ!」
リサが声を潜めながらも、憤りを隠せない様子で言う。
「侍女に暴行するなんて……誰が、こんなことを」
足を止めてリサを振り返る。
「……女官長は何をしているのかしら」
「きっと、見て見ぬふりですよ」
リサは唇を噛み、声をさらに落とす。
「あの方、ザリーナ王妃の派閥ですから」
「ザリーナ王妃の?」セレナは眉を顰める。
「派閥がどうであれ、怪我人を放置するのは駄目で
しょう」
リサは「そうですね」と頷きながらも、不安げに目を逸らした。
セレナは扇を抱き寄せる。
「――放ってはおけないわ」
「でも、セレナ様が動いたら……」
「大丈夫。私一人の問題じゃないし、これは
後宮全体の問題よ」
セレナは踵を返し、女官長の執務室がある棟へと
向かい始めた。
疑問と怒りを抱いたまま、歩調を緩めることなく進む。
リサが慌てて後を追いながら、小声で囁いた。
「……セレナ様、顔が怖いです」
「え、そう?」
目だけで返し、歩みは緩めなかった。
◆
女官長マリシェの執務室前に着くと、扉の前で控えていた若い侍女が慌てて姿勢を正した。
「姫様……どういったご用件で?」
「女官長にお話があります」
きっぱりした返答に、侍女は戸惑いながらも中へ声をかける。
「――入りなさい」
低く張った声が返り、扉が静かに開いた。
部屋の奥にある、立派な長机の前に、
マリシェは冷ややかな顔で座していた。
「姫様が、わざわざこちらに?」
「後宮内で怪我をした侍女を見かけました。
把握しておられるのですか?」
マリシェは顔を上げたが、すぐに書類へ戻した。
「怪我は日常茶飯事です。転倒や不注意によるものも多い」
「では、治療や休養は?」
「規則に従い、業務に支障が出ない限りは許可して
おりません」
セレナは、驚きの色をあえて大きく見せた。
「仕事中の怪我なのに、ですか?」
「後宮は大所帯です。一人休めば他が負担を負う。
軽傷であれば従事してもらうのが常です」
侍女の怯えた姿が脳裏に浮かぶ。あれが軽いはずがない。
「それは改めるべきです。あの様子では再発も――」
「姫様」
机越しに、ぴしゃりと落ちる声。
女官長の眉がわずかに動き、その瞳の奥に冷えた刃が光った。
「後宮の運営は私の職務です。お気持ちはありがたい。ですが……まずはご自分のお立場を」
背後でリサが身を縮める。
セレナはその冷たい視線を正面から受け止めても、一歩も退かなかった。
「……では、私が直接確認します」
「それは――」
「女官長、これは職責を怠っているも同然です。
その責は逃れませんよ」
張り詰めた空気が、
乾いた石に細かな亀裂が走るように軋んだ。
マリシェの瞳の奥に宿った色は、怒りか、それとも
警戒か――読み取りづらい。
「……お言葉ですが、姫様」
マリシェは目を細めた。
「後宮の采配は私の務めにございます。姫様が口を
挟まれるのは……」
「後宮の秩序を保つのは私たちの務めでも
あります……そうでしょう?」
女官長の唇が硬く結ばれる。
リサのごくりと喉を鳴らす音が、やけに大きく感じられた。
◆
後宮奥の人気のない洗濯場。
水桶に布を沈めていた侍女が、物音に気づき、
肩を跳ねさせた。
セレナはゆっくりと歩み寄り、その前に立つ。
「こんにちは。昼間に会ったわよね」
侍女は視線を彷徨わせ、
「は、はい」と小さく返す。
「腕の痣――あれ、仕事中にぶつけたのよね?
なのに、まだ働いているの? 休まないと」
侍女は小さく身を固くし、返事の代わりに濡れた布を強く握った。
水面が、ぱしゃりと音を立てる。
横でリサが、唇を噛んだ。
「……こんな痣になってるのに、休まないなんておかしいです」
セレナはうなずき、声を落とす。
「勤務中の怪我なのに働かせるなんて……
後宮にとって、許されないことよ」
そっと手を差し伸べる。
「さあ、一緒にいらっしゃい。
後宮監に話を通して、休ませてもらわないと」
侍女は首を振った。
「……お気持ちは嬉しいのですが、
本当に……大丈夫ですから」
リサがすかさず一歩踏み出す。
「無理をすれば、もっと悪くなります。
私も同行しますから」
その言葉に、侍女の瞳が揺れ、
袖口を強く握りしめた。
セレナは、侍女に一歩近づいた。
「さっき、ふらついていたでしょう?
――助けたいだけなの」
侍女は唇を震わせた。
「……本当に、助けてくださるんですか」
「ええ」セレナはためらいなく頷いた。
その言葉に、侍女の肩が震えた。
リサがその背に手を添え立ち上がらせる。
三人は回廊へ進んだ。
セレナは歩きながら問いかける。
「……その腕の傷、どうやってできたの?」
「……本当に、転んだだけです」
セレナは歩みを止め、侍女の前に立った。
「……もし本当に転んだだけなら、
一時的な保護で終わるわ。それでもいい?」
はっきりと言葉を継ぐ。
「でも――違うのなら、私は必ずあなたを守る。
だから、ちゃんと教えて」
沈黙が落ち、石床に靴音だけが響いた。
リサが小さく頷き、侍女を見守る。
やがて、押し殺した声がこぼれた。
「……サーヒ様に……」
セレナの背骨に冷たいものが走った。
サーヒ……正妃候補の一人……!
「……話してくれて、ありがとう」
セレナは侍女の手を取った。
「心配しないで。私が必ず守るから」
三人は足並みを揃えて踏み出した。
セレナは袖口を押さえ、歩調を上げた。
「後宮監に会わないと」
足音を石床に響かせながら、
後宮監の執務棟へと向かった。




