第6話 鏡
広間には、絹幕越しの光が差し込み、
大理石の床に淡い模様を描いていた。
今日は礼儀作法の研修の一幕。
正妃候補として、必ず身につけねばならぬ
所作を学ぶ時間だった。
セレナは手のひらが汗ばむのを感じながら、
銀杯の扱いを何度も繰り返していた。
流行の華やぎから距離を置いた衣装のアナヒータは腕を組み、顎先をわずかに上げた。
『必死ね』と、吐くように呟く。
セレナは銀杯の位置がわずかにずれるたび、眉ひとつ動かさずやり直した。
列の端から、小さなくすくすと声が漏れた。
その中心にいたのは、
藍色の衣を纏った一団。
濃紺衣の女が、わずかに唇を歪めた。
「まぁ……
姫様のその手、荒れておいでですこと。
焚き火でも弄っていらしたのかしら?」
囁きは、わざと周囲に届く声量で放たれ、
同調するように、数人が肩を揺らした。
だがセレナは、嘲りの声など耳に入らぬ様子で、
手首だけを返して、最初からやり直す。
……しかし珍しいわね。
アナヒータは視線を細めた。
――まだ、目に力が残っている。
崩れた後宮で、ああいう顔は長くはもたない。
けれど――
しばらく見ておく価値は、ありそうだ。
やがて侍女の声が響き、研修は終わった。
候補者たちが退出する中、
アナヒータは声をかけることなく回廊を抜けていった。
◆
中庭では、色とりどりの衣を纏った妃候補たちが、
香草を煮出した湯を楽しんでいた。
その輪の端――
細葉の木陰で、数人の女たちが、
視線の先にいる者を見下ろすように言葉を投げる。
そこに立っていたのは、
兵の鎧下を思わせる質素な衣をまとったサフィアだった。
アシェラは白い扇をひらひらと動かした。
「まぁ……
兵士みたいな格好で後宮を歩くなんて。
武官の真似ごとでもしているつもりかしら?」
レイラが杯を転がしながら、
わざとらしくため息を吐いた。
「ここは戦場ではなく御殿ですわ。
その格好で歩かれては、
場の品位まで疑われてしまいます」
アシェラは扇の骨を鳴らし、声を強めた。
「ねえ、レイラ様。
彼女、舞踏もできないのでしょう?
お披露目の夜会で誰にも誘われなかったら……
まさか、香草湯を運んで回るお役目?」
香草湯の湯気が揺れ、輪の中にざわめきが走る。
サフィアは言葉を返さないが、足を半歩も引かなかった。
返せば、同じ土俵に落ちるだけ。
拳が衣の中で固く握られ、
爪が掌に食い込んだ。
「……私は、
飾りのために、ここへ来たのではありません」
短く返した声は、わずかに震えていた。
アシェラは扇越しに、じっとサフィアを量った。
「まぁ、強気ね。
けれど……飾りにもなれない方は、
もっと困るのではなくて?」
レイラは宝飾を揺らし、
緩慢に首を傾げた。
「兵士の真似より、まずは眉間の力を抜くことですわ。
殿下の隣に立つ方が眉をひそめていては……
無様ですわ」
誰かが、わざとらしく杯を鳴らした。
それを合図に、囁きが増える。
サフィアの唇が震えた。
だが、言葉は出ない。
そんな事、わかっている……。
地位も、華やかさも――私にはない。
胸の奥が焼けるように熱く、
息苦しさだけが募っていく。
女たちの押し殺した声に混じり、
別の妃候補たちの囁きが重なる。
「見た?
やっぱり優雅さがないわ」
「ええ、殿下の寵を受けていても華やかさに欠ける」
「武官上がりなんて所詮、粗野よ。
長くは持たないでしょうね」
その囁きは、
細い刃のようにサフィアの心を突き刺した。
――その時。
彩りの輪を割って、セレナが一歩前へ出た。
「――彼女は、
私たちを守る武官です」
柔らかな声が石床に響き、
女たちの口元の動きが途切れた。
「上に立つ者であれば、
まず敬意を払うべきではありませんか」
香草の匂いだけが、やけに濃く感じられた。
アシェラの扇が、ぴたりと静止する。
「……まぁ、ご立派なお言葉。
ルナワの姫君は、
ずいぶん真面目でいらっしゃるのね」
レイラは鼻を鳴らした。
「敬意?
私たちは女として、
あの方の粗野さを“気づかせて差し上げている”だけ」
棘が混じる声に、
周囲の妃候補たちの動きが止まった。
サフィアは黙ったまま、
セレナの横顔を見つめていた。
「……私たちは、同じ後宮に住む者です。
陛下や王宮のためにも、
品位を保たなければなりません」
セレナは裾を整え、澄んだ声を続けた。
「姫様方は、今のご自身の振る舞いを――
品位あるものと、お考えですか?」
アシェラの唇が固く結ばれ、
レイラは扇で顔を隠し、返事を捨てた。
取り巻きたちは、
互いに視線を交わすばかりで言葉を失う。
セレナは、ふっと頬を和らげた。
「それに……
姫様方には、そのような笑みは似合いませんよ。
いつもの談話での表情のほうが、
ずっと魅力的です」
沈黙が広がる。
アシェラの頬がわずかに赤みを帯び、
レイラは返す言葉を見失った。
他の妃候補たちは顔を見合わせ、
小さく息を漏らした。
回廊の陰で、
控えめな紅の裾が、わずかに揺れた。
取り巻きの一人が、気まずそうに杯を置いた。
その音だけが、中庭に残った。
セレナは裾を整えて立ち去ろうとする。
すれ違いざま、
吐息ほどの声で呟く。
「……皆、鏡は見ないのかしら」
ほとんど風に紛れて消えたその言葉を、
すぐそばにいたサフィアだけが拾った。
「……え?」
琥珀の瞳が揺れ、
セレナの背を追う。
セレナは振り返らず、
木陰から光の方へ歩み去っていった。
◆
ラシードは一幕を、黙って見届けていた。
「ふむ……
あの年で、あの切り返し。
柔らかさに見せかけて、しっかりと刺す」
ラシードは顎髭を撫でる。
「ただの飾り姫では終わらん。
本人が望まずとも、
周囲が放ってはおかぬだろう」
眼差しは淡々としていたが、
胸の奥には警戒と興味がないまぜになっていた。
アルシオンがサフィアを選ぶ意思は、すでに知っている。
だが――
セレナという駒は、
黙って朽ちる石ではない。
「飾りに見えても、
盤上に置かれた以上、摘む対象にはなる。
――さて、摘む役目は誰が担うか」
ラシードの目が、愉しげに細くなる。
◆
政務室へ向かう回廊を、
アルシオンは文書を片手に歩いていた。
背後から、控えめな足音が並ぶ。
振り返ると、
穏やかな笑みを浮かべたラシードが隣に立つ。
「殿下。
ひとつ、面白い場面を拝見しましたので、
ご報告を」
「……また皮肉か?」
「皮肉どころか。
中庭で、妃候補たちが
サフィア殿をからかっておりました。
そこへ現れたのが、ルナワの姫君」
淡々と続ける。
「堂々と割って入り、
武官に敬意を払えと説き、
品位を問い直し、
最後は角を立てずに引かせました」
アルシオンは、足を止めた。
「……セレナが?」
「ええ。
あれでは、ただのお飾りには収まりませんな」
ラシードは一礼し、そのまま歩み去る。
残されたアルシオンは、
黙したまま立ち尽くした。
文書の端を、無意識に強く握る。
俺が求めるのはただ一人――サフィアだ。
どんな姫が現れようと、
その答えが揺らぐことはない。
胸のざわめきを押し込み、
歩を進めた。
◆
……皆、鏡は見ないのかしら。
その言葉が耳に残り、
サフィアを落ち着かせなかった。
あれは皮肉だったのか。
それとも――
自分自身を見直せ、という意味だったのか。
考えれば考えるほど、
胸の奥に小さな引っかかりが残った。
回廊の夕影を抜け、
訓練場近くの渡り廊下へ差しかかったところで、
壁にもたれ腕を組んだカリムが声をかけた。
「……今日、なんかあっただろ」
足を止め、サフィアは眉をひそめる。
「……なんでわかる」
「お前の顔は昔から隠し事に向いてねぇからな」
からかうように片眉を上げる。
「……ちょっと、嫌な言葉を聞いただけ。
別に、大したことじゃない」
「大したことじゃない顔か?」
サフィアは口ごもり、
やがてぽつりと零した。
「……あんなふうに言われるのは、仕方ない。
全部、その通りだから。
だから……黙るしか、できなかった」
「慣れる必要なんざねぇよ。
お前はお前だ」
「でも、後宮はそうはいかない」
苦笑を浮かべるが、
声は弱かった。
カリムはしばし黙し、
真っ直ぐな目で言う。
「戦場じゃ、剣一本で済む。
強さがすべてだ。
だが後宮は違う。
言葉も噂も立場も、全部が刃になる。
剣が強くても、
背中から斬られたら終わりだ」
サフィアの目が揺れる。
「わかってる……だから怖い。
でも、殿下の隣に立ちたいから……
逃げない」
カリムは鼻を鳴らし、肩を竦めた。
「昔からそうだな。
無茶して、泣いて、
それでも立ってきた。
だからお前は、生き残ってきた」
真剣な声で続ける。
「いいか、サフィア。
後宮はお前の土俵じゃない。
けど――殿下の隣に立つってんなら、
剣だけじゃなく、
言葉の盾も覚えろ。
俺が横で見てる。
倒れても、立ち上がれ」
サフィアは俯き、
拳をぎゅっと握りしめた。
正妃になるなんて、望んでない。
そんな資格はない。
ただの武官に過ぎない。
それでも――。
それでも隣にいたい。
笑っていてほしい。
守れるのは、私でありたい。
涙をこらえて上げた横顔を、
薄明の光が静かに照らしていた。
◆
回廊の影に入ったところで、
リサが小走りでセレナの横に並んだ。
「……セレナ様。
今のお言葉……すごく、胸に響きました」
呼吸を落としながらも、
瞳は興奮に揺れている。
セレナは軽く肩をすくめ、
歩みを緩めずに答えた。
「私が言うべきことでもなかったかも……」
リサは一瞬だけ目を丸くし、
それから前を向いた。
「……でも、あの場は
セレナ様でなければ、
誰も言えなかったと思います」
セレナは答えず、歩き続けた。
回廊の曲がり角で、足が止まる。
夕陽を背にした影――
アルシオンが、そこに立っていた。
「……セレナか」
低く抑えた声が続く。
「さきほどの中庭でのことだ。
お前が場を収めたと聞いた」
夕陽が彼の瞳を深く染める。
「あれは――
仲裁のためだったのか」
「……それは――」
口を開きかけた、その時。
柱影から足音が近づき、
サフィアが視界に入った。
アルシオンはセレナを見据えたまま目を細め、
それから片手を上げて制した。
――また後で。
そう言外に告げ、
歩みをサフィアの方へ移す。
回廊に残されたセレナは、
静かに呟いた。
「……違いますよ。
自分のためです」




