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シウアルマ(転生姫はお飾り正妃候補?愛されないので自力で幸せ掴みます)  作者: 福嶋莉佳
一章

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第6話 鏡

広間には、絹幕越しの光が差し込み、

大理石の床に淡い模様を描いていた。


今日は礼儀作法の研修の一幕。

正妃候補として、必ず身につけねばならぬ

所作を学ぶ時間だった。


セレナは手のひらが汗ばむのを感じながら、

銀杯の扱いを何度も繰り返していた。


流行の華やぎから距離を置いた衣装のアナヒータは腕を組み、顎先をわずかに上げた。

『必死ね』と、吐くように呟く。


セレナは銀杯の位置がわずかにずれるたび、眉ひとつ動かさずやり直した。


列の端から、小さなくすくすと声が漏れた。


その中心にいたのは、

藍色の衣を纏った一団。


濃紺衣の女が、わずかに唇を歪めた。


「まぁ……

姫様のその手、荒れておいでですこと。

焚き火でも弄っていらしたのかしら?」


囁きは、わざと周囲に届く声量で放たれ、

同調するように、数人が肩を揺らした。


だがセレナは、嘲りの声など耳に入らぬ様子で、

手首だけを返して、最初からやり直す。


……しかし珍しいわね。

アナヒータは視線を細めた。

――まだ、目に力が残っている。


崩れた後宮で、ああいう顔は長くはもたない。

けれど――

しばらく見ておく価値は、ありそうだ。


やがて侍女の声が響き、研修は終わった。

候補者たちが退出する中、

アナヒータは声をかけることなく回廊を抜けていった。





中庭では、色とりどりの衣を纏った妃候補たちが、

香草を煮出した湯を楽しんでいた。


その輪の端――

細葉の木陰で、数人の女たちが、

視線の先にいる者を見下ろすように言葉を投げる。


そこに立っていたのは、

兵の鎧下を思わせる質素な衣をまとったサフィアだった。


アシェラは白い扇をひらひらと動かした。


「まぁ……

兵士みたいな格好で後宮を歩くなんて。

武官の真似ごとでもしているつもりかしら?」


レイラが杯を転がしながら、

わざとらしくため息を吐いた。


「ここは戦場ではなく御殿ですわ。

その格好で歩かれては、

場の品位まで疑われてしまいます」


アシェラは扇の骨を鳴らし、声を強めた。


「ねえ、レイラ様。

彼女、舞踏もできないのでしょう?

お披露目の夜会で誰にも誘われなかったら……

まさか、香草湯を運んで回るお役目?」


香草湯の湯気が揺れ、輪の中にざわめきが走る。


サフィアは言葉を返さないが、足を半歩も引かなかった。


返せば、同じ土俵に落ちるだけ。

拳が衣の中で固く握られ、

爪が掌に食い込んだ。


「……私は、

飾りのために、ここへ来たのではありません」


短く返した声は、わずかに震えていた。


アシェラは扇越しに、じっとサフィアを量った。


「まぁ、強気ね。

けれど……飾りにもなれない方は、

もっと困るのではなくて?」


レイラは宝飾を揺らし、

緩慢に首を傾げた。


「兵士の真似より、まずは眉間の力を抜くことですわ。

殿下の隣に立つ方が眉をひそめていては……

無様ですわ」


誰かが、わざとらしく杯を鳴らした。

それを合図に、囁きが増える。


サフィアの唇が震えた。

だが、言葉は出ない。


そんな事、わかっている……。

地位も、華やかさも――私にはない。


胸の奥が焼けるように熱く、

息苦しさだけが募っていく。


女たちの押し殺した声に混じり、

別の妃候補たちの囁きが重なる。


「見た?

やっぱり優雅さがないわ」

「ええ、殿下の寵を受けていても華やかさに欠ける」

「武官上がりなんて所詮、粗野よ。

長くは持たないでしょうね」


その囁きは、

細い刃のようにサフィアの心を突き刺した。


――その時。


彩りの輪を割って、セレナが一歩前へ出た。


「――彼女は、

私たちを守る武官です」


柔らかな声が石床に響き、

女たちの口元の動きが途切れた。


「上に立つ者であれば、

まず敬意を払うべきではありませんか」


香草の匂いだけが、やけに濃く感じられた。


アシェラの扇が、ぴたりと静止する。


「……まぁ、ご立派なお言葉。

ルナワの姫君は、

ずいぶん真面目でいらっしゃるのね」


レイラは鼻を鳴らした。


「敬意?

私たちは女として、

あの方の粗野さを“気づかせて差し上げている”だけ」


棘が混じる声に、

周囲の妃候補たちの動きが止まった。


サフィアは黙ったまま、

セレナの横顔を見つめていた。


「……私たちは、同じ後宮に住む者です。

陛下や王宮のためにも、

品位を保たなければなりません」


セレナは裾を整え、澄んだ声を続けた。


「姫様方は、今のご自身の振る舞いを――

品位あるものと、お考えですか?」


アシェラの唇が固く結ばれ、

レイラは扇で顔を隠し、返事を捨てた。


取り巻きたちは、

互いに視線を交わすばかりで言葉を失う。


セレナは、ふっと頬を和らげた。


「それに……

姫様方には、そのような笑みは似合いませんよ。

いつもの談話での表情のほうが、

ずっと魅力的です」


沈黙が広がる。


アシェラの頬がわずかに赤みを帯び、

レイラは返す言葉を見失った。


他の妃候補たちは顔を見合わせ、

小さく息を漏らした。


回廊の陰で、

控えめな紅の裾が、わずかに揺れた。


取り巻きの一人が、気まずそうに杯を置いた。

その音だけが、中庭に残った。


セレナは裾を整えて立ち去ろうとする。


すれ違いざま、

吐息ほどの声で呟く。


「……皆、鏡は見ないのかしら」


ほとんど風に紛れて消えたその言葉を、

すぐそばにいたサフィアだけが拾った。


「……え?」


琥珀の瞳が揺れ、

セレナの背を追う。


セレナは振り返らず、

木陰から光の方へ歩み去っていった。





ラシードは一幕を、黙って見届けていた。


「ふむ……

あの年で、あの切り返し。

柔らかさに見せかけて、しっかりと刺す」


ラシードは顎髭を撫でる。


「ただの飾り姫では終わらん。

本人が望まずとも、

周囲が放ってはおかぬだろう」


眼差しは淡々としていたが、

胸の奥には警戒と興味がないまぜになっていた。


アルシオンがサフィアを選ぶ意思は、すでに知っている。

だが――

セレナという駒は、

黙って朽ちる石ではない。


「飾りに見えても、

盤上に置かれた以上、摘む対象にはなる。

――さて、摘む役目は誰が担うか」


ラシードの目が、愉しげに細くなる。





政務室へ向かう回廊を、

アルシオンは文書を片手に歩いていた。


背後から、控えめな足音が並ぶ。

振り返ると、

穏やかな笑みを浮かべたラシードが隣に立つ。


「殿下。

ひとつ、面白い場面を拝見しましたので、

ご報告を」


「……また皮肉か?」


「皮肉どころか。

中庭で、妃候補たちが

サフィア殿をからかっておりました。

そこへ現れたのが、ルナワの姫君」


淡々と続ける。


「堂々と割って入り、

武官に敬意を払えと説き、

品位を問い直し、

最後は角を立てずに引かせました」


アルシオンは、足を止めた。


「……セレナが?」


「ええ。

あれでは、ただのお飾りには収まりませんな」


ラシードは一礼し、そのまま歩み去る。


残されたアルシオンは、

黙したまま立ち尽くした。


文書の端を、無意識に強く握る。


俺が求めるのはただ一人――サフィアだ。

どんな姫が現れようと、

その答えが揺らぐことはない。


胸のざわめきを押し込み、

歩を進めた。





……皆、鏡は見ないのかしら。


その言葉が耳に残り、

サフィアを落ち着かせなかった。


あれは皮肉だったのか。

それとも――

自分自身を見直せ、という意味だったのか。


考えれば考えるほど、

胸の奥に小さな引っかかりが残った。


回廊の夕影を抜け、

訓練場近くの渡り廊下へ差しかかったところで、

壁にもたれ腕を組んだカリムが声をかけた。


「……今日、なんかあっただろ」


足を止め、サフィアは眉をひそめる。


「……なんでわかる」


「お前の顔は昔から隠し事に向いてねぇからな」


からかうように片眉を上げる。


「……ちょっと、嫌な言葉を聞いただけ。

別に、大したことじゃない」


「大したことじゃない顔か?」


サフィアは口ごもり、

やがてぽつりと零した。


「……あんなふうに言われるのは、仕方ない。

全部、その通りだから。

だから……黙るしか、できなかった」


「慣れる必要なんざねぇよ。

お前はお前だ」


「でも、後宮はそうはいかない」


苦笑を浮かべるが、

声は弱かった。


カリムはしばし黙し、

真っ直ぐな目で言う。


「戦場じゃ、剣一本で済む。

強さがすべてだ。

だが後宮は違う。


言葉も噂も立場も、全部が刃になる。

剣が強くても、

背中から斬られたら終わりだ」


サフィアの目が揺れる。


「わかってる……だから怖い。

でも、殿下の隣に立ちたいから……

逃げない」


カリムは鼻を鳴らし、肩を竦めた。


「昔からそうだな。

無茶して、泣いて、

それでも立ってきた。


だからお前は、生き残ってきた」


真剣な声で続ける。


「いいか、サフィア。

後宮はお前の土俵じゃない。

けど――殿下の隣に立つってんなら、

剣だけじゃなく、

言葉の盾も覚えろ。


俺が横で見てる。

倒れても、立ち上がれ」


サフィアは俯き、

拳をぎゅっと握りしめた。


正妃になるなんて、望んでない。

そんな資格はない。

ただの武官に過ぎない。


それでも――。


それでも隣にいたい。

笑っていてほしい。

守れるのは、私でありたい。


涙をこらえて上げた横顔を、

薄明の光が静かに照らしていた。





回廊の影に入ったところで、

リサが小走りでセレナの横に並んだ。


「……セレナ様。

今のお言葉……すごく、胸に響きました」


呼吸を落としながらも、

瞳は興奮に揺れている。


セレナは軽く肩をすくめ、

歩みを緩めずに答えた。


「私が言うべきことでもなかったかも……」


リサは一瞬だけ目を丸くし、

それから前を向いた。


「……でも、あの場は

セレナ様でなければ、

誰も言えなかったと思います」


セレナは答えず、歩き続けた。


回廊の曲がり角で、足が止まる。


夕陽を背にした影――

アルシオンが、そこに立っていた。


「……セレナか」


低く抑えた声が続く。


「さきほどの中庭でのことだ。

お前が場を収めたと聞いた」


夕陽が彼の瞳を深く染める。


「あれは――

仲裁のためだったのか」


「……それは――」


口を開きかけた、その時。


柱影から足音が近づき、

サフィアが視界に入った。


アルシオンはセレナを見据えたまま目を細め、

それから片手を上げて制した。


――また後で。


そう言外に告げ、

歩みをサフィアの方へ移す。


回廊に残されたセレナは、

静かに呟いた。


「……違いますよ。

自分のためです」

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