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シウアルマ  作者: 福嶋莉佳(福島リカ)


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第5話 理想

「殿下――そろそろ正妃をお決めください」


ザリーナ王妃の声が、

石造りの執務室を重く満たした。


「……またその話ですか」


アルシオンは羊皮紙から顔を上げず、

低く吐き捨てる。


「“また”ではございません。

国王陛下もご高齢。

後継を盤石にするためにも、早急にご決断を」


微笑みを浮かべながらも王妃の鋭い視線に、

アルシオンは鼻先で息を鳴らした。


青銅縁の石卓には粘土板と羊皮紙が幾重にも広がり、

軍報、交易路の再編、関所の管理、

偏る物資供給の是正――。


老王が政務から距離を置き始めた今、

その重荷はすべて彼の肩にのしかかっていた。


「……」


アルシオンは粘土板を掌で押さえ、肩を落とす。

政務の圧と王妃の言葉が、同時に胸を締めつける。


だが“正妃”という言葉に触れた瞬間、

否応なく、過去が脳裏に甦った。



かつて、政略によって迎えた妻がいた。


有力諸侯の娘。

容姿も振る舞いも申し分なく、

最初は互いに距離を測りながらも、

アルシオンは誠実に向き合おうと努めた。


好みを覚え、儀礼に共に臨み、

祝宴にも出席することを厭わなかった。


だが彼女は、王家の規律を軽んじるようになった。


他国使節との不適切な接触。

許可なき外出。

王太子の不在を理由にした、振る舞いの逸脱。


そして――

遠征に出ていた数か月の間に、

彼女は別の男の子を身ごもっていた。


帰国した日に、

処罰を覚悟した侍女が震える声で告げた真実。


その場で離縁を申し渡し、

彼女は実家へと戻された。


「……もう、形だけの結婚はごめんだ」



戦場にいる間は、

その誓いを忘れるほど日々が忙しかった。


だが、ある前線の夜。

訓練場で剣を振るう若い女兵の姿に、

ふと目を奪われた。


泥と汗に塗れながらも、

必死に踏みとどまり剣を振るう背。


「腰が浮いている」


思わず声をかけると、

彼女は真っ直ぐにこちらを見返してきた。


切れ長の瞳が炎のように揺れ、

その奥に迷いはなかった。


後に知った――彼女がサフィアだと。


その時、彼女はまだ、

目の前の男が王太子であることを知らなかった。


だからこそ、

階級でも肩書きでもなく、

剣を振るう一人の戦士として、

真正面から向き合ってきた。


その後も幾度となく同じ場に立った。

危地で背を預け合い、

矢雨の中で兵を救い、

死線を共にくぐった。


地位や名ではなく、

剣を振るう自分そのものを見てくれる存在。


そして今、

彼女は己の隣にいる。


戦友であり、

恋人であり、

唯一無二の理解者。



「……私の正妃は、私自身で決めます」


アルシオンは葦筆を置き、

ザリーナを正面から見据えて言った。


王妃は目を細め、

やがて薄く笑みを浮かべる。


「では――

その時を、気長に待ちましょう」


衣の裾を揺らし、

王妃は足音を残さず執務室を後にした。



数日が過ぎた。


初日以降、表立った嫌がらせは途絶えている。


廊下ですれ違えば、妃候補達は体を半歩引き、

口元を引き結ぶ。


耳に入るのは、せいぜい遠くからの影口程度。


着替えを手伝いながら、

リサがふと笑みを含ませて言った。


「……やっぱり、あの日の牽制が効いたんですよ」


セレナは帯を締めながら、軽く肩をすくめる。


「上出来だったと思っておくわ……」



石畳に硬い足音が響き、

重厚な扉が押し開かれた。


革鎧の匂いが流れ込む。


机に向かっていたセレナは、

ぱたりと羊皮紙を伏せて顔を上げる。


そばにいたリサはびくりと肩を震わせた。


現れたのは、浅黒い肌に汗の跡を残した男。

肩にかけた外套は乱れ気味だが、

立ち姿は堂々としている。


書庫の静謐を破り、

武官の気配が空気を引き締めた。


「――やっぱり書庫にいたか。

暇つぶしに巻物を漁るとは、物好きなお姫様だな」


低く掠れた声に、

リサは怯え混じりに、セレナのほうへ身を寄せた。


セレナは一瞬、唇を尖らせた。


男はちらと侍女を見やり、

すぐにセレナへと目を戻した。


「俺はカリム。殿下直属の近衛副隊長だ。

サフィアの幼馴染って言えば分かりやすいか」


その名を聞いた途端、

セレナの肩がぴくりと動いた。


リサの瞳がわずかに揺れる。


カリムは一歩近づき、声を落とす。


「単刀直入に言う。

……彼女を泣かせるような真似はするなよ」


リサが小さく息を呑んだ。


セレナは言葉を失った。

荒れた指先が、じりじりと痛む。


泣きたいのは、私の方なのに……!


唇を結び直す。

きっとした眼差しで彼を見据え、口を開いた。


「それは、私たちが……どのような思いを抱いているのか、承知のうえでの申し出にございますか?」


リサが思わず喉を鳴らした。


カリムは眉間に皺を刻んだまま言葉を詰まらせる。

表情は崩れていない――だが、迷いが滲んだ。


セレナは言葉を続けた。


「そうおっしゃるということは――あなたは、彼女を泣かせない努力をなさっているのですよね?」


カリムの喉が鳴った。


「……ああ」


辛うじて出た声は、かすれていた。


セレナはきりりとした表情を崩さず、一歩退いて声を整える。


「ご安心を……人の恋路を邪魔するほど、私は落ちぶれておりません」


いいもんね……今回の人生では、自力で王子様を見つけるもん。


すっと手元の羊皮紙に意識を戻し、再び読み始める。


リサはその背を見つめ、目に光をにじませた。

「強い方だ」と呟くように、唇がかすかに震える。


そして、祈るように両手を重ねた。


カリムはしばし言葉を失い、唇を噛んだ。


「……そうか。ただ――サフィアを泣かせたら、その時は俺が許さない」


セレナは答えず、指先で、羊皮紙の端を押さえた。


そして何事もなかったかのように、

そっと羊皮紙をめくった。


そこに並ぶのは、線が重なり合っただけの粗い陣形。


……盾を重ねる発想すら、まだないのね。


短く息を零した。


リサにも不思議がられた。

私が躊躇なく軍記を読める理由――それは前世の彼の影響。


彼とよく見ていた映画は、戦争ものだったからだ。


「……」


巻物を棚に戻し、くるりと振り返る。


「……少し、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


カリムは顎をわずかに上げ、探るようにセレナを見返した。


現代で生きていた私の感覚だと、戦争なんて絶対に駄目な行為だ。

でも、この時代の人々はどう考えているのだろう。


「――戦争は……必要なのでしょうか?」


紡がれた問いは、書庫の冷気に深く沈んだ。


リサは目を丸くし、思わず口を押さえる。


カリムの瞳が一瞬大きく見開かれたがすぐに眉間に皺が寄る。


「……姫様、ずいぶん直球で聞かれるんだな」


苦笑を浮かべたが、声には重さが残る。


カリムは腕を組み、

しばし考えた後、低く続けた。


「戦争は、本当は誰も望んでねぇ。

兵も、民も、将もな。

血を流して笑う奴なんざ狂人だけだ」


琥珀の瞳が、セレナを射抜くように向けられる。


「だが、力を持つ国が隣にある以上、剣を捨てりゃ踏み潰される。

戦なんて、理屈じゃなく“起こされる”もんだ。

俺たちはただ、それ以上を失わねぇために剣を抜く」


組んだ腕の留め具が小さく鳴った。


「殿下はよく言う。『争わずに済むならそれが最上だ』と。

……だが、理想だけじゃ兵は守れん。


だから俺が剣を持つ。

殿下の理想と兵の現実――

その橋を渡すのが武官の役目だ」


吐息をひとつ落とし、わずかに口元をゆがめる。


「必要か不要かなんて答えは出せん。

だが、戦場に立ってきた身から言えるのは一つ。


“避けられるなら避けろ。避けられねぇ時は全力で勝て”。

それだけだ」


「……そうですか」


セレナは深く礼をし、静かに告げる。


「貴重なご意見、ありがとうございます」


肩の重みが少しほどけ、頬に熱がさした。


リサはその横顔を見て胸を熱くし、口元に小さな笑みを浮かべる。


カリムは腕を組んだまま目を細め、ぽつりと呟いた。

「……妙な姫様だ。武官にそんなことを聞くなんて」


その時だった。


「――ずいぶんと面白い話をしているな。

 姫君が武官に務めを尋ねるとは、私も初めて聞いた」


低く澄んだ声が、書庫の静けさを切り裂いた。


振り返れば、アルシオンが立っていた。


リサは慌てて深く身を折り、

裾を握る手が小さく震える。


カリムは即座に片膝をつき、拳を胸に当てた。


セレナの心臓が跳ね上がる。

反射的に両手で裾をつまんで、深く頭を垂れた。


石床に落ちる三人の影を、

冷ややかな青の眼差しが覆う。


陽光を背に立つアルシオンの肩口で、

青銅の装飾が鋭く光を弾いていた。

その手には、読みかけの巻物が握られている。


セレナの胸のざわめきは、増すばかりだった。


「……顔を上げよ」


鋭い声が落ち、書庫の空気がさらに張り詰める。


セレナは喉の奥で小さく息を呑み、

間を置いて、体を起こした。


青の瞳が、真正面から射抜いてくる。


アルシオンは巻物を片手に持ったまま、口を開いた。


「……もし、この国が戦をしない王国になったら――

 お前は、どこに立つ?」


さらに問いが落ちる。


「それとも、その時は傍観者になるか?」


カリムの喉元に、ざらりとした違和感を覚える。


セレナは一瞬、言葉を飲み込んだ。


しまった……変な事を聞くんじゃなかった。


喉にかかった息を整える。


深く息を吸い込み、

落ち着いた声で言葉を紡いだ。


「……殿下。

 その時は――この大陸に、傍観者はいなくなります」


その声が、石壁に返った。


リサは息を止め、

カリムの瞳も、ほんのわずかに揺れた。


青い瞳が細められ、

その奥に、かすかな光が宿る。


「……面白い」


それだけを残し、

アルシオンは青紺の衣の裾を翻して踵を返した。


革靴の音が遠ざかり、

やがて扉が静かに閉じられる。


残されたのは、巻物の紙の匂いと、

三人分の浅い呼吸だけだった。





アルシオンは前を見据えたまま、

セレナの姿が、ふとよぎる。


……それにしても。


軍歴で鍛えられた足取りは揺るがない。

だが胸の奥には、針のような小さな棘が残った。


隣に立つのはサフィア――

彼女こそが、俺の支えだ。


唇を固く結び、歩調を早める。

まるで、その棘を振り払うように。





書庫にしんとした空気が戻ったころ、

セレナは無意識に吐息を洩らした。


「……殿下は、なぜ私にあんな問いを

 投げかけられたのでしょう……」


リサは言葉を失ったまま、セレナを見つめる。

カリムは腕を組み、眉を寄せて黙した。


カリムの喉仏がひとつ動き、

答えかけて――だが言葉を飲み込む。


代わりに、唇を固く結んだ。


「……さぁな。

 殿下のお考えは、俺にも読み切れん」


淡々とした声の奥に、

抑えきれぬ熱がわずかに滲んでいた。





薄闇の中、青銅の油灯が寝台を柔らかく照らす。


軍装を解いたアルシオンは片肘をつき、

じっとサフィアを見つめていた。


「今日、後宮で面白い女に会った」


不意の言葉に、サフィアの眉がぴくりと動く。


姿を見たのも一度きり。

言葉を交わしたわけでもない。

それでも、彼の口からその話題が出たことに、

腹の底がわずかにざわついた。


「お前、正妃ってどう思う?」


唐突な問いに、目を細める。


正妃――

響きは立派だが、私には遠い。


王妃の衣を纏っても、

彼の傍で剣を握ることはできない。

戦場で背中を守ることも、許されない。


そんなのは、私じゃない。


「……別に欲しいわけじゃない。

 今のままで、私は十分」


そう言いながら、

胸奥にひりつくものを押し込める。


私の居場所は、寝台の隣か、戦場の横。

冠でも、玉座でもない。


今こうして、彼の隣にいる――

その事実だけが、私を生かしている。


アルシオンはその答えに、わずかな笑みを浮かべた。


「俺は……好きな女を正妃にしたい」


迷いのない声が、体の奥深くに沈んでいく。


誇らしくて、少し怖くて、

でも、たまらなく嬉しい。


もしその「好きな女」が、

いつか私ではなくなったら――


その時、私はどこへ行くのだろう。


サフィアはそっと彼の胸元に額を押し当てた。


言葉にならない思いが、

心の奥で静かに熱を帯びる。


アルシオンが髪を指に絡める。


「……お前は本当に変わらないな」


「なにそれ、褒めてるの?」


軽く返しながらも、

全身がやわらかな温もりに包まれていく。


胸板越しに伝わる鼓動と体温が、

ゆるやかに自分を縫い止めていた。


この温もりを守るためなら、

私はまた剣を取るだろう。


アルシオンは低く笑い、額を寄せてくる。


「褒めてる。

 俺は、その変わらないお前が好きだ」


ためらいなくそう言ってくれる彼を、

信じたいし、信じられる。


たとえ外の世界がどうなろうと、

この瞬間だけは奪わせない――


そう心に決め、彼の背に腕を回した。





セレナは巻物をくるりと繰り、

ふと、図絵に目を止めた。


城から遠くへ延びる線の上に、

四角い印が点々と並んでいる。


「……兵の並びより、

 道のほうが丁寧に描かれているのね」


リサが覗き込み、小首を傾げる。


「面白いのですか?」


「そうね、そこそこ」


笑って答え、指でその線をなぞる。


だがそれ以上は語らず、

すぐに巻物を閉じた。


リサは名残惜しげに図を見つめ、

それから、ぽつりと零す。


「……でも、セレナ様。

 あのカリム様によく言い返せましたね」


セレナはぱちりと瞬きをした。


「……“あのカリム様”?」


「……武官の中でも、

 怖いっていうか……

 誰も逆らえないっていうか……」


セレナはきょとんとした表情でリサを見る。


……そうなんだ。

まぁ、確かに厳つかったけど。


わずかに口元を緩めて言った。


「裏表のない人だから、

 特に怖いとは思わなかったわ」


……人間の裏の顔は怖いからね。

悪魔よりも――


セレナは軍記を閉じ、そのまま棚に戻した。

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