第5話 理想
「殿下――そろそろ正妃をお決めください」
ザリーナ王妃の声が、
石造りの執務室を重く満たした。
「……またその話ですか」
アルシオンは羊皮紙から顔を上げず、
低く吐き捨てる。
「“また”ではございません。
国王陛下もご高齢。
後継を盤石にするためにも、早急にご決断を」
微笑みを浮かべながらも王妃の鋭い視線に、
アルシオンは鼻先で息を鳴らした。
青銅縁の石卓には粘土板と羊皮紙が幾重にも広がり、
軍報、交易路の再編、関所の管理、
偏る物資供給の是正――。
老王が政務から距離を置き始めた今、
その重荷はすべて彼の肩にのしかかっていた。
「……」
アルシオンは粘土板を掌で押さえ、肩を落とす。
政務の圧と王妃の言葉が、同時に胸を締めつける。
だが“正妃”という言葉に触れた瞬間、
否応なく、過去が脳裏に甦った。
◆
かつて、政略によって迎えた妻がいた。
有力諸侯の娘。
容姿も振る舞いも申し分なく、
最初は互いに距離を測りながらも、
アルシオンは誠実に向き合おうと努めた。
好みを覚え、儀礼に共に臨み、
祝宴にも出席することを厭わなかった。
だが彼女は、王家の規律を軽んじるようになった。
他国使節との不適切な接触。
許可なき外出。
王太子の不在を理由にした、振る舞いの逸脱。
そして――
遠征に出ていた数か月の間に、
彼女は別の男の子を身ごもっていた。
帰国した日に、
処罰を覚悟した侍女が震える声で告げた真実。
その場で離縁を申し渡し、
彼女は実家へと戻された。
「……もう、形だけの結婚はごめんだ」
◆
戦場にいる間は、
その誓いを忘れるほど日々が忙しかった。
だが、ある前線の夜。
訓練場で剣を振るう若い女兵の姿に、
ふと目を奪われた。
泥と汗に塗れながらも、
必死に踏みとどまり剣を振るう背。
「腰が浮いている」
思わず声をかけると、
彼女は真っ直ぐにこちらを見返してきた。
切れ長の瞳が炎のように揺れ、
その奥に迷いはなかった。
後に知った――彼女がサフィアだと。
その時、彼女はまだ、
目の前の男が王太子であることを知らなかった。
だからこそ、
階級でも肩書きでもなく、
剣を振るう一人の戦士として、
真正面から向き合ってきた。
その後も幾度となく同じ場に立った。
危地で背を預け合い、
矢雨の中で兵を救い、
死線を共にくぐった。
地位や名ではなく、
剣を振るう自分そのものを見てくれる存在。
そして今、
彼女は己の隣にいる。
戦友であり、
恋人であり、
唯一無二の理解者。
◆
「……私の正妃は、私自身で決めます」
アルシオンは葦筆を置き、
ザリーナを正面から見据えて言った。
王妃は目を細め、
やがて薄く笑みを浮かべる。
「では――
その時を、気長に待ちましょう」
衣の裾を揺らし、
王妃は足音を残さず執務室を後にした。
◆
数日が過ぎた。
初日以降、表立った嫌がらせは途絶えている。
廊下ですれ違えば、妃候補達は体を半歩引き、
口元を引き結ぶ。
耳に入るのは、せいぜい遠くからの影口程度。
着替えを手伝いながら、
リサがふと笑みを含ませて言った。
「……やっぱり、あの日の牽制が効いたんですよ」
セレナは帯を締めながら、軽く肩をすくめる。
「上出来だったと思っておくわ……」
◆
石畳に硬い足音が響き、
重厚な扉が押し開かれた。
革鎧の匂いが流れ込む。
机に向かっていたセレナは、
ぱたりと羊皮紙を伏せて顔を上げる。
そばにいたリサはびくりと肩を震わせた。
現れたのは、浅黒い肌に汗の跡を残した男。
肩にかけた外套は乱れ気味だが、
立ち姿は堂々としている。
書庫の静謐を破り、
武官の気配が空気を引き締めた。
「――やっぱり書庫にいたか。
暇つぶしに巻物を漁るとは、物好きなお姫様だな」
低く掠れた声に、
リサは怯え混じりに、セレナのほうへ身を寄せた。
セレナは一瞬、唇を尖らせた。
男はちらと侍女を見やり、
すぐにセレナへと目を戻した。
「俺はカリム。殿下直属の近衛副隊長だ。
サフィアの幼馴染って言えば分かりやすいか」
その名を聞いた途端、
セレナの肩がぴくりと動いた。
リサの瞳がわずかに揺れる。
カリムは一歩近づき、声を落とす。
「単刀直入に言う。
……彼女を泣かせるような真似はするなよ」
リサが小さく息を呑んだ。
セレナは言葉を失った。
荒れた指先が、じりじりと痛む。
泣きたいのは、私の方なのに……!
唇を結び直す。
きっとした眼差しで彼を見据え、口を開いた。
「それは、私たちが……どのような思いを抱いているのか、承知のうえでの申し出にございますか?」
リサが思わず喉を鳴らした。
カリムは眉間に皺を刻んだまま言葉を詰まらせる。
表情は崩れていない――だが、迷いが滲んだ。
セレナは言葉を続けた。
「そうおっしゃるということは――あなたは、彼女を泣かせない努力をなさっているのですよね?」
カリムの喉が鳴った。
「……ああ」
辛うじて出た声は、かすれていた。
セレナはきりりとした表情を崩さず、一歩退いて声を整える。
「ご安心を……人の恋路を邪魔するほど、私は落ちぶれておりません」
いいもんね……今回の人生では、自力で王子様を見つけるもん。
すっと手元の羊皮紙に意識を戻し、再び読み始める。
リサはその背を見つめ、目に光をにじませた。
「強い方だ」と呟くように、唇がかすかに震える。
そして、祈るように両手を重ねた。
カリムはしばし言葉を失い、唇を噛んだ。
「……そうか。ただ――サフィアを泣かせたら、その時は俺が許さない」
セレナは答えず、指先で、羊皮紙の端を押さえた。
そして何事もなかったかのように、
そっと羊皮紙をめくった。
そこに並ぶのは、線が重なり合っただけの粗い陣形。
……盾を重ねる発想すら、まだないのね。
短く息を零した。
リサにも不思議がられた。
私が躊躇なく軍記を読める理由――それは前世の彼の影響。
彼とよく見ていた映画は、戦争ものだったからだ。
「……」
巻物を棚に戻し、くるりと振り返る。
「……少し、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
カリムは顎をわずかに上げ、探るようにセレナを見返した。
現代で生きていた私の感覚だと、戦争なんて絶対に駄目な行為だ。
でも、この時代の人々はどう考えているのだろう。
「――戦争は……必要なのでしょうか?」
紡がれた問いは、書庫の冷気に深く沈んだ。
リサは目を丸くし、思わず口を押さえる。
カリムの瞳が一瞬大きく見開かれたがすぐに眉間に皺が寄る。
「……姫様、ずいぶん直球で聞かれるんだな」
苦笑を浮かべたが、声には重さが残る。
カリムは腕を組み、
しばし考えた後、低く続けた。
「戦争は、本当は誰も望んでねぇ。
兵も、民も、将もな。
血を流して笑う奴なんざ狂人だけだ」
琥珀の瞳が、セレナを射抜くように向けられる。
「だが、力を持つ国が隣にある以上、剣を捨てりゃ踏み潰される。
戦なんて、理屈じゃなく“起こされる”もんだ。
俺たちはただ、それ以上を失わねぇために剣を抜く」
組んだ腕の留め具が小さく鳴った。
「殿下はよく言う。『争わずに済むならそれが最上だ』と。
……だが、理想だけじゃ兵は守れん。
だから俺が剣を持つ。
殿下の理想と兵の現実――
その橋を渡すのが武官の役目だ」
吐息をひとつ落とし、わずかに口元をゆがめる。
「必要か不要かなんて答えは出せん。
だが、戦場に立ってきた身から言えるのは一つ。
“避けられるなら避けろ。避けられねぇ時は全力で勝て”。
それだけだ」
「……そうですか」
セレナは深く礼をし、静かに告げる。
「貴重なご意見、ありがとうございます」
肩の重みが少しほどけ、頬に熱がさした。
リサはその横顔を見て胸を熱くし、口元に小さな笑みを浮かべる。
カリムは腕を組んだまま目を細め、ぽつりと呟いた。
「……妙な姫様だ。武官にそんなことを聞くなんて」
その時だった。
「――ずいぶんと面白い話をしているな。
姫君が武官に務めを尋ねるとは、私も初めて聞いた」
低く澄んだ声が、書庫の静けさを切り裂いた。
振り返れば、アルシオンが立っていた。
リサは慌てて深く身を折り、
裾を握る手が小さく震える。
カリムは即座に片膝をつき、拳を胸に当てた。
セレナの心臓が跳ね上がる。
反射的に両手で裾をつまんで、深く頭を垂れた。
石床に落ちる三人の影を、
冷ややかな青の眼差しが覆う。
陽光を背に立つアルシオンの肩口で、
青銅の装飾が鋭く光を弾いていた。
その手には、読みかけの巻物が握られている。
セレナの胸のざわめきは、増すばかりだった。
「……顔を上げよ」
鋭い声が落ち、書庫の空気がさらに張り詰める。
セレナは喉の奥で小さく息を呑み、
間を置いて、体を起こした。
青の瞳が、真正面から射抜いてくる。
アルシオンは巻物を片手に持ったまま、口を開いた。
「……もし、この国が戦をしない王国になったら――
お前は、どこに立つ?」
さらに問いが落ちる。
「それとも、その時は傍観者になるか?」
カリムの喉元に、ざらりとした違和感を覚える。
セレナは一瞬、言葉を飲み込んだ。
しまった……変な事を聞くんじゃなかった。
喉にかかった息を整える。
深く息を吸い込み、
落ち着いた声で言葉を紡いだ。
「……殿下。
その時は――この大陸に、傍観者はいなくなります」
その声が、石壁に返った。
リサは息を止め、
カリムの瞳も、ほんのわずかに揺れた。
青い瞳が細められ、
その奥に、かすかな光が宿る。
「……面白い」
それだけを残し、
アルシオンは青紺の衣の裾を翻して踵を返した。
革靴の音が遠ざかり、
やがて扉が静かに閉じられる。
残されたのは、巻物の紙の匂いと、
三人分の浅い呼吸だけだった。
◆
アルシオンは前を見据えたまま、
セレナの姿が、ふとよぎる。
……それにしても。
軍歴で鍛えられた足取りは揺るがない。
だが胸の奥には、針のような小さな棘が残った。
隣に立つのはサフィア――
彼女こそが、俺の支えだ。
唇を固く結び、歩調を早める。
まるで、その棘を振り払うように。
◆
書庫にしんとした空気が戻ったころ、
セレナは無意識に吐息を洩らした。
「……殿下は、なぜ私にあんな問いを
投げかけられたのでしょう……」
リサは言葉を失ったまま、セレナを見つめる。
カリムは腕を組み、眉を寄せて黙した。
カリムの喉仏がひとつ動き、
答えかけて――だが言葉を飲み込む。
代わりに、唇を固く結んだ。
「……さぁな。
殿下のお考えは、俺にも読み切れん」
淡々とした声の奥に、
抑えきれぬ熱がわずかに滲んでいた。
◆
薄闇の中、青銅の油灯が寝台を柔らかく照らす。
軍装を解いたアルシオンは片肘をつき、
じっとサフィアを見つめていた。
「今日、後宮で面白い女に会った」
不意の言葉に、サフィアの眉がぴくりと動く。
姿を見たのも一度きり。
言葉を交わしたわけでもない。
それでも、彼の口からその話題が出たことに、
腹の底がわずかにざわついた。
「お前、正妃ってどう思う?」
唐突な問いに、目を細める。
正妃――
響きは立派だが、私には遠い。
王妃の衣を纏っても、
彼の傍で剣を握ることはできない。
戦場で背中を守ることも、許されない。
そんなのは、私じゃない。
「……別に欲しいわけじゃない。
今のままで、私は十分」
そう言いながら、
胸奥にひりつくものを押し込める。
私の居場所は、寝台の隣か、戦場の横。
冠でも、玉座でもない。
今こうして、彼の隣にいる――
その事実だけが、私を生かしている。
アルシオンはその答えに、わずかな笑みを浮かべた。
「俺は……好きな女を正妃にしたい」
迷いのない声が、体の奥深くに沈んでいく。
誇らしくて、少し怖くて、
でも、たまらなく嬉しい。
もしその「好きな女」が、
いつか私ではなくなったら――
その時、私はどこへ行くのだろう。
サフィアはそっと彼の胸元に額を押し当てた。
言葉にならない思いが、
心の奥で静かに熱を帯びる。
アルシオンが髪を指に絡める。
「……お前は本当に変わらないな」
「なにそれ、褒めてるの?」
軽く返しながらも、
全身がやわらかな温もりに包まれていく。
胸板越しに伝わる鼓動と体温が、
ゆるやかに自分を縫い止めていた。
この温もりを守るためなら、
私はまた剣を取るだろう。
アルシオンは低く笑い、額を寄せてくる。
「褒めてる。
俺は、その変わらないお前が好きだ」
ためらいなくそう言ってくれる彼を、
信じたいし、信じられる。
たとえ外の世界がどうなろうと、
この瞬間だけは奪わせない――
そう心に決め、彼の背に腕を回した。
◆
セレナは巻物をくるりと繰り、
ふと、図絵に目を止めた。
城から遠くへ延びる線の上に、
四角い印が点々と並んでいる。
「……兵の並びより、
道のほうが丁寧に描かれているのね」
リサが覗き込み、小首を傾げる。
「面白いのですか?」
「そうね、そこそこ」
笑って答え、指でその線をなぞる。
だがそれ以上は語らず、
すぐに巻物を閉じた。
リサは名残惜しげに図を見つめ、
それから、ぽつりと零す。
「……でも、セレナ様。
あのカリム様によく言い返せましたね」
セレナはぱちりと瞬きをした。
「……“あのカリム様”?」
「……武官の中でも、
怖いっていうか……
誰も逆らえないっていうか……」
セレナはきょとんとした表情でリサを見る。
……そうなんだ。
まぁ、確かに厳つかったけど。
わずかに口元を緩めて言った。
「裏表のない人だから、
特に怖いとは思わなかったわ」
……人間の裏の顔は怖いからね。
悪魔よりも――
セレナは軍記を閉じ、そのまま棚に戻した。




