第4話 虚飾
雨上がりの湿り気が石壁に残り、
格子窓から入る光は灰色に濁っていた。
「え?今日も一日、謁見や供奉の予定はないの?」
窓辺で髪を結い終えたセレナは、衣紋を整えたまま、控えるリサに問いかけた。
リサは小さく首を横に振り、慌てて答える。
「はい、姫様。
後宮では神殿祭儀や王族の宴の召しがない限り、
皆それぞれお好きに過ごされます」
正妃候補とは、ただ選ばれるのを待つ存在ではない。
祭儀と財の流れを学ぶ立場だと、そう教えられてきた。
セレナの眉間に影が寄る。
外の回廊からは、妃候補たちの笑い声や軽い足音が響いてきた。
「……リサ。他の妃候補は普段どう過ごしているの?」
「化粧や衣装合わせ、東屋でのお茶会がほとんどです」
少し間を置き、声を落とした。
「殿下は後宮をお好みにならず、
先の御婚姻以来、正妃候補ともほとんどお会いになられておりません。
皆、時を持て余しておられます」
友達もいない。
化粧や衣装にも興味はない。
――どうしよう。
髪の先を指に絡め、肩を一度落とす。
「……よし、書庫に行くわ」
「しょ、書庫ですか?」
リサは驚いたように瞬きし、小走りで外套と帯飾りを整えた。
セレナは立ち上がり、ふと侍女を横目に見た。
お付きになったリサは、まだ十七、八の娘だった。
栗色の三つ編み、小麦色の肌、素朴な顔立ちにえくぼが浮かぶ。
礼法は叩き込まれているが、文字はほとんど読めない。
……真面目で働き者ね。
裾を整え、歩き出す。
◆
「勢いで来たものの……書庫に入れるのかしら」
王宮の書庫は文官の管理下にある。
侍女や妃候補が勝手に出入りできる場所ではない。
小さな不安を抱えながら、セレナは外扉を押し開けた。
中では老書官が机に腰掛け、葦筆を置いてこちらをじろりと見上げた。
「どなた様で?」
セレナは裾を持ち上げ、一礼する。
「セレナと申します。本を拝見したくて参りました」
老書官は鼻を鳴らし、奥の通路へ顎をしゃくった。
「……承知しました。――宰相様、正妃候補のセレナ様がお見えです」
内扉の向こうで、衣擦れの音がした。
やがて通路の奥から、長身の影が現れる。
黒髪に混じる銀糸が光を受ける、ラシードがすっと歩み出た。
「――姫様、ここでお会いするとは」
セレナは表情を崩さず返した。
「今日は一日予定もなくて……本でも読もうかと思い、こちらに」
「それは結構なこと。どうぞ、お入りなさい」
老書官が内扉を押し開けると、
冷えた空気と、乾いた粘土と羊皮紙の混じった匂いが流れ込んだ。
高い棚には巻物や羊皮紙が整然と並び、
奥には粘土板を収めた棚が影を落としている。
光を受けた楔形文字が淡く浮かび、
異世界めいた気配が満ちていた。
リサは一歩踏み入れ、目を丸くしてセレナの袖をつまむ。
「……なんだか、息が詰まりそうなところですね」
声には、居心地の悪さがにじんでいた。
「ここは後宮でも、限られた者しか足を踏み入れられぬ場所。
緊張も無理はありません」
ラシードが穏やかに言い添える。
「そうですか」セレナは声を柔らげ、棚の背を追った。
――前世でも、こうして人気のない棚の間に立っていた。
悪魔祓いの影響で人が寄りつかず、
人の視線から逃れるように通った図書館。
小説や史書を開き、
王子と姫の物語に胸をときめかせた日々。
だから縁談の話が来たとき、
あんなに浮かれてしまったのよね。
その微かな陰りを帯びた表情を、
ラシードは何気ない仕草で、横目で何かを測った。
「……あの、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
セレナが顔を上げ、丁寧な声で尋ねる。
「私は正妃候補として参りましたのに……
この後宮で、何の務めも与えられていないのです。
――それは、なぜなのでしょう?」
ラシードは軽く顎を傾け、顎鬚が光を受けた。
「――務め、ですか。
往昔なら、祭儀も倉の配分も宮中の作法も、候補者の役目でしたが……
殿下の御代では、候補者に任されることはなくなりました」
指先で羊皮紙を軽く叩き、淡く笑う。
「理由はひとつ。殿下が後宮を不要とお考えだからです。
御心は政務と軍務、そして……ひとりの女武官だけに向けられている」
その言葉に、隣で小さな声が漏れた。
「……サフィア様」
リサは慌てて口を押さえたが、もう遅い。
ラシードは一瞬だけリサを見て、すぐ棚へ目を戻した。
「――ゆえに姫様。
ここで何かを求めても、返ってくるのは沈黙と退屈にございます」
セレナの頬がわずかに引きつる。
口元に苦笑を浮かべ、声を落とした。
「……ですが、それも一時的なことでしょう?
殿下はいまだ王太子でいらっしゃる。
いずれ玉座に就かれれば……」
ラシードはゆっくり首を振った。
「例外が続けば、それが規範となる。宮廷とはそういう場です。
殿下は先の婚姻に倦み、次こそは心からの結びつきを、と。
ゆえに務めではなく――ただひとりに心を注がれている」
灰色の瞳が、まっすぐにセレナを射抜いた。
「務めをお求めなら、ご自身で見つけるしかありますまい」
セレナは唇から血の気が引くのを感じ、裾をぎゅっと握った。
「……では、なぜ私は呼ばれたのですか」
ラシードは棚から一歩離れ、淡々と言った。
「理由は二つ。ひとつは“形式”。
属国から姫を招かず正妃を立てれば、
諸侯や周辺国の面目が立たぬ。
候補を集めること自体が外交なのです。
もうひとつは“保険”。
人の心は移ろうもの。
殿下の情が揺らぎ、愛しい者が立場を保てぬ時、
ただちに埋められる座が必要になる」
一拍置き、低く告げる。
「――呼ばれた理由と、望まれた理由は、必ずしも同じではありません」
セレナは呆然とした。
そんな理由で?
「……後宮の方々は、この現状を受け入れておられるのですか」
「ええ。“受け入れるしかない”のです。
飾り物として日を潰すか、体裁だけを演じ続けるか。
皆、承知している――正妃の座はすでに埋まっていると」
セレナの視界の端が滲んだ。
後宮で殿下を取り合う覚悟は、していた。
だが――舞台は、すでに終わっていた。
このまま閉じ込められ、一生を終えるしかないの?
そんなの……絶対に嫌――!
全身をえぐられたような衝撃に、しばし言葉が出なかった。
やっとの思いで、かすれた声が零れる。
「……よく、そんな状態で後宮と呼べますね」
「呼べるかどうかは重要ではありません。
“そう扱われている”――それが現実です」
言葉の刃が心臓を抉る。
セレナの肩から力が抜け、膝がわずかに震えた。
宰相の目を受け止めきれず、
瞳から光がゆっくりと落ちていく。
……恋物語なんて、幻だったのね。
それでも立場を崩すわけにはいかず、
微笑を張り付けて頭を下げた。
喉を震わせ、かろうじて礼の言葉を絞り出す。
「……お教えくださり……ありがとうございます」
宰相は黙って顎を引いた。
セレナは一礼の姿勢のまま、
心の奥で何かが音を立てて崩れていくのを、
どうすることもできなかった。
◆
「礼を言われるほどのことではありません。
事実を述べただけです」
ラシードは観察するように返した。
「事実にどう意味を与えるかは……姫様ご自身のこと」
胸の奥の熱が、すうっと引いていく。
ここでは誰も、助けてはくれない。
袖の内で指を握り直し、ようやく顔を上げる。
変に期待を抱く前に、
早めに知れてよかった……!
震えを押し隠し、棚に歩み寄った。
軍事、貿易、祭儀、医薬──
次々に書を手に取る。
どう役立つかわからない。
だけど──全部、身につけてやる!
ラシードはその背を見やり、淡く笑う。
「……巻物に手を伸ばされるとは。他の妃候補にはない姿勢ですな」
そして指で背表紙を示す。
「ただし──知を“読む”ことと“使う”ことは別の話。
どう越えるか……見守らせていただきましょう」
この人、楽しんでない?
訝しく思いながらも、姫としての礼を崩さぬよう、言葉を返す。
「……ご助言、ありがとうございます……」
その横で、リサは小さく呟いた。
「強い方だ……」
胸の奥に熱いものがこみ上げ、
気づけば自分の背もわずかに伸びていた。
◆
書庫を後にして回廊に出た瞬間、
空気がわずかに変わった。
柱の陰から、何かがこちらを窺った――
そう感じた、次の瞬間。
気配は、すぐに途切れた。
セレナは足を止めず、そのまま歩を進めた。
後宮では、
見られること自体が、珍しくない。
回廊を進むと、
革靴と甲冑の音が近づく。
足音が、すぐそこで重なった。
……噂をすれば。
現れたのは、琥珀の瞳を持つ女武官──サフィア。
小麦色の肌、無駄のない長身に、革鎧がよく馴染んでいる。
束ねた黒髪が肩で揺れ、鋭さと気高さを併せ持つ面差しに、
侍女たちは自然と道を譲った。
その隣には、厚い肩幅の武官が歩をそろえていた。
セレナは裾を正し、歩調を乱すことなく、軽く会釈だけして通り過ぎた。
リサも慌てて頭を垂れ、すれ違いざまに横目でその姿を盗み見る。
「……」
目を伏せ、唇を噛む。
石床に交差した足音が遠ざかり、
残ったのは胸のざらめきだけだった。
◆
武官仲間と回廊を進んでいた時だった。
向こうから歩いてきたのは、後宮に入ったばかりの異国の姫──セレナ。
一瞬だけ交差した視線は、澄んだ水の底を覗き込んだようで、意志の強さと儚さが同居していた。
濃い栗色の長い髪と白い肌、金糸の刺繍を控えめに散らした衣。
歩き方はしとやかだが、胸を張る姿勢に芯の強さを感じさせる。
目立とうなんて気配はないのに。
殿下の視界に、入らなければいいが。
隣で歩くカリムが、ちらりと横目を寄越した。
「……今のが、ルナワの姫か」
「そうだ。正妃候補の」
「……ずいぶんと大人しいじゃないか。もっと媚びるような仕草でもするのかと思ったが」
カリムはわざと肩をすくめ、からかうように吐き捨てる。
だが、その声は探るような真剣さもあった。
「お前はどう見る、サフィア」
琥珀の瞳を細め、サフィアは答えを探すように空気を切った。
「……よくわからない。
ただ……あの目は、ただの飾り物で終わる気はしていない目だった」
「ほぉ……それは殿下にとって良いことか、悪いことか」
「……さあな」
カリムは短く鼻を鳴らし、姫の背を見送った。
その横顔は、苦い安堵と寂しさが入り混じったような陰影を宿していた。
「……お前が泣かされるようなことにならなきゃいいがな」
低く呟くその声は、鎧の金具が擦れる音にかき消された。
◆
セレナは歩みを緩め、リサの横顔を覗き込んだ。
「ねえ、リサ。……読み書き、興味ない?」
冗談めかすように微笑を添え、尋ねた。
リサは瞬きをひとつして、小首を傾げる。
「……覚えられるものでしょうか……」
「もちろん。どうせ私も暇だし、ちょうどいい時間つぶしになるわ」
くすっと笑いながら、セレナは歩を進める。
リサはぱっと笑顔になり、「じゃあ……お願いします」と小さく頭を下げた。
◆
薄い帳が揺れ、夜の涼しい風が寝台の端を撫でた。
油灯の光が乱れた寝具を照らす。
アルシオンは横になったまま、隣で髪をほどいたサフィアをじっと見つめていた。
彼の熱を帯びた視線が、肌に触れているような錯覚さえ生まれる。
サフィアは肩をすくめ、わずかに頬を染める。
「そんなに見てどうすんの」
軽く流すように言いながらも、声の端は甘く緩んでいた。
「見ていたいから」
少し身を傾けるだけで、彼の胸板から熱が押し寄せる。
戦場で見せる冷静さではなく、ただ彼女だけを映す男の眼差しだった。
サフィアは視線を逸らし、唇を噛む。
「……そういうの、ずるいんだよ、アルシオン」
「ずるくても構わない。俺はお前がいい」
低い声が近くで響く。
囁き混じりの吐息が首筋を撫で、肌が粟立つ。
笑いながら胸に額を押しつけると、すぐにその腕がしっかりと抱き返してきた。
「離れるつもりなんてない」
……この人がいれば、それでいい
──だがふと、昼間の回廊で交差した異国の姫の姿が、記憶の底から立ち上がる。
会釈しただけなのに、妙に印象に残っている。
ただの飾りならいい。
でも、あの目は──
翳りを押し殺すように、唇を噛む。
アルシオンが小声で尋ねた。
「どうした?」
「今日……ルナワの姫とすれ違った」
「セレナか」
「……うん。あの人、ただの候補者では終わらない気がした」
言葉が途切れた隙に、アルシオンは彼女の頬を包む。
「俺にとって正妃はお前だけだ」
その声音に、サフィアは思わず息を吐き出す。
胸に広がったざわめきが、少しずつ和らいでいく。
──その温もりに包まれたまま、遠い日の匂いが甦る。
砂塵と血の匂い。
振り返らない背中。
「この地点を死守せよ」──低く通る声。
矢雨を裂き、兵を背負い、盾で道を開く影。
この人のためなら、剣を振れる。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが音を立てて動き出した。
戦場から戻った夜、鎧の留め具を外す彼の指先が震えていた。
その弱さを見た時、ただの敬意は確信に変わった。
この人の隣にいたい──
もう、誰にも譲れない。
アルシオンの体温が、耳の奥まで染み込む。
「……他に誰がいる」
アルシオンは彼女を見つめたまま、低く言った。
揺らぎのない碧色の瞳が、真っ直ぐにサフィアを射抜く。
「正妃は──お前しかいない」
その声音は、帳の内に誓いのように響いた。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
感想をいただけたら、とても嬉しいです!」
◆お知らせ
今後の新作予告や更新情報は、Twitter(X)でお知らせしています。
→ @serena_narou
ぜひフォローしてチェックしていただけたら嬉しいです。




