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シウアルマ  作者: 福嶋莉佳(福島リカ)


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第3話 流儀

帳をくぐった途端、湿った匂いが鼻を刺した。


「これは……誰がこんなことを!」


リサが息を呑み、セレナの前に躍り出る。


羊毛のキリムは一角がぐっしょり沈み、脇には彩陶の壺が無惨に割れ、花びらと水が床に散っていた。


セレナは、しばし言葉を失った。


目の前の絨毯を見て、思わず肩を落とす。


部屋の隅では、数人の侍女が視線を逸らしながら、そそくさと立ち去ろうとしていた。

その中の一人の口角が、ほんのわずかに上がる。


セレナは、その背を見送った。


正妃候補の部屋だ。

侍女を使って、ここまで手を入れられる者は限られている。


目を足元へ落とす。


「……リサ、足元に気をつけて。破片が鋭いから」


裾を押さえてゆっくり膝をつく。

陶片をひとつずつ拾い上げるたび、冷たい雫が掌に落ちては消えていく。


リサが慌てて亜麻布を取りに走る。


……業務の一環、か。

織り敷物へと目を向ける。


羊毛の織り目が水を吸い、染料の重なりが滲む。


……手が込んだ絨毯ね。


「今のは侍女たちの仕業で、間違いないわよね?」


短い躊躇いののち、リサは頷いた。

「はい……正妃候補には、こうした嫌がらせが少なくないと聞きます」


水の染みがじわじわと広がっていく。

セレナは微笑を保ったまま「それで十分」とだけ言い、裾を払って立ち上がった。


「それより……そろそろ食事の時間よね。行こうか」





中庭の木陰を抜ける風が、枝葉をさわりと鳴らす。


長椅子に腰掛けたセレナとリサの前には、香草を練り込んだパンと、豆と肉の煮込みが並んでいた。


「中庭の風は気持ちいいですね、姫様」


リサが微笑んだ、そのとき――


薄桃色の衣の女が、銀盆を抱えたまま、回廊を渡ってきた。


すれ違いざまに、彼女の肘がセレナの肩をかすめる。

スープが跳ね、胸元へ温い雫が散った。


「っ……!」


セレナが反応する間もなかった。

女はひとつも振り返らず、黒髪を翻し去っていく。


遠巻きに見ていた数人の妃候補たちは、口元を隠して忍び笑う。

「わざとよ」「新しい子をからかってるのね」

そんな囁きが、風に溶けて消えた。


リサが低い声で「お怪我は……?」と寄ってくる。


セレナはゆるやかに立ち上がり、彼女の背中をじっと見つめた。


あんまりじゃない。


わずかに間を置き、口元の力を解く。


「……姫様。それが、あなたの国の流儀ですか?」


木陰の下で妃候補たちの笑みは凍りつき、忍び笑いがぴたりと止んだ。


アシェラの肩がわずかに強張り、歩みが一度だけ乱れる。

それでも振り返らず、陽光の中に溶けるように姿を消す。


セレナは視線を逸らさず、最後の影が消えるまで追い続けた。





サフィアが中庭を横切ろうとした時だった。


姫は一歩も引かず、静かな声で問いかける。


「姫様……それが、あなたの国の流儀ですか?」


凛とした姿を、サフィアは少し離れた場所から眺めていた。


「へぇ……」


やられても黙って飲み込まないのか。


妃候補たちは、握った扇を硬直させている。

たったひと言で、空気の流れを奪った姫の姿。


誰も、口を開かなかった。


サフィアは拳を握りしめ、視線を落とした。


――サフィアが王宮に来たばかりの頃。


「愛人枠」なんて立場、後宮では異物みたいなものだった。


廊下でわざとぶつかられ、飲み物をこぼされ、侍女たちに背中で囁かれた。

「武官ふぜいが殿下の寵愛?」「どれくらいもつかしらね」


あの時は、怒りよりも、殿下に恥をかかせたくない気持ちが先に立った。

全部を笑って受け流し、傷一つ残さなかった――少なくとも表向きは。


あの姫は、ああやって返すんだな。


胸の奥が、ほんの少しざわついた。



 


中庭に残ったのは、張り詰めた沈黙だった。


姿が完全に見えなくなったころ、リサがそっと寄る。


「姫様……お加減は大丈夫ですか?」


濡れた服を見やりながら、少し眉を寄せる。


「大丈夫よ。びっくりしただけだから」

表情を崩さず言葉を返す。


くだらない嫌がらせ。

もう、こりごり。


周囲を見渡す――その瞬間、空気がぴしりと軋んだ。


目が合った途端、胸の奥底を掴まれるような寒気が走る。

妃候補たちは思わず扇を強く握り、囁き声は途切れた。


リサにもその緊張が伝わり、息を詰める気配が揺れる。


セレナはゆるやかに立ち上がり、濡れた裾を整えながら、柔らかく告げる。


「リサ……悪いけれど、服が汚れてしまったわ。着替えたいの」


リサははっとして頷き、籠を手にセレナの後ろにつく。


中庭を離れる二人の背を、妃候補たちは無言で見送った。

その視線には、もう隠しようのない警戒が滲んでいた。


歩きながら、リサが小さく囁く。

「……もう表立って絡んでくる方はいないでしょうね」


セレナは笑みを浮かべたまま、前を向く。

「そう? だったら、よかったわ」





部屋に戻ると、リサがすぐに衣装棚を開け、替えの服を取り出した。


濡れた胸元が外気に触れ、

ひやりとした感触が肌を這う。


セレナは視線を落とした。

敷物に、水の染みが広がっている。


こっちも何とかしないとね。


セレナは帯を解きながら、リサに目を向けた。

「このあと、女官長に会いに行こうと思うの。

バタバタして悪いけど、付いてきてくれるかしら?」


リサは小さく頷き、衣を差し出す。


着替えを終えたセレナは裾を整え、金糸の刺繍が施された外套を羽織った。





女官長の執務室へ続く回廊では、侍女や文官が行き交い、木靴の音が石畳に小刻みに響く。


リサが小声で告げる。

「女官長殿、ただいまお手隙だそうです」


セレナは扉を押し開け、一歩踏み入った。


中央の机から顔を上げた女官長に向かい、裾を持ち上げて一礼する。

「女官長殿、初めまして。

ルナワ公国第一王女、セレナと申します。

以後お見知り置きを」


礼を終えると、部屋は静まり返った。


奥に座す女官長マリシェは四十前後、薄く引かれた唇と、鷹のような鋭い眼光を持っていた。


その視線ひとつで、後宮の采配が決まる。


マリシェが顔を上げ、低く問いかける。

「……それで、本日は何のご用でしょうか?」


セレナは唇に笑みを湛えたまま、落ち着いた声で答える。

「私の部屋の織り敷物がびしょ濡れで、彩陶の器も割れておりました」


隣に立つリサへと視線を送る。

「我々が部屋に入った時点で、すでにその状態でしたよね?」

リサは小さく頷いた。


「部屋を整えた侍女の手によるものかと。

侍女の失態は、女官長殿の責任ですよね?」


マリシェの眉がわずかに動き、茶器に添えていた指が静かに曲がった。

その瞳には、測るような光が宿る。


「……心得ました。正妃候補ともあろう方が、その程度のことで直々に足を運ばれるとは――少々意外でしたが」


「正妃候補ですから。

 見過ごすわけにはいきません」


マリシェは一瞬、口を閉ざした。

「……そうですか」


机脇の鐘を鳴らすと、侍女が入ってくる。

「器と織り敷物を替えなさい。それと部屋付きを呼び出しておけ」


「ご対応、感謝いたします」

柔らかな声を残し、セレナは踵を返す。


その横でリサがほっと息を漏らし、主の後を小走りで追った。


廊下に二人の足音が遠ざかり、扉が静かに閉まる。


――執務室には再び沈黙が落ちた。  


青銅香炉の煙がゆるく揺れ、残されたのはマリシェただ一人。


帳の影から、濃紺の長衣をまとった女がゆるやかに姿を現す。

サーヒは羽根扇を弄びながら、薄笑いを浮かべた。


「意外とずぶとそうね。

あんな子と私が同じ正妃候補だなんて、目障りだわ」


「口の回し方は悪くない。

だが、あの眼差しは……放っておけば厄介な芽になる」


「ザリーナ王妃にお伝えしますか?」


「まだ早い。正妃の座は一つ――芽は伸びきってから摘むほうが、手間がかからぬ」


短い沈黙の奥に、香炉の煙が立ちのぼる。

室内に重く満ちていた。

 




自室へ向かう静かな回廊で、セレナの横を歩くリサはちらりとその横顔を盗み見た。


「姫様」

声を落とし、探るように問う。


「……怖くないのですか?」


セレナは足を止め、わずかに目を瞬いた。

「え? 怖いわよ」


リサが眉を寄せる。

「それなのに……どうして」


セレナは前を向き直り、歩みを再開した。

「駄目なことを、なあなあで受け入れるようになる人間になるほうが……よほど怖いから」


リサは短く息を呑み、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


回廊を抜け、部屋に戻る。

濡れていた織り敷物はすでに片付けられ、新しいものに替えられている。


彩陶壺も同じ形のものが置かれ、部屋は元どおり整っていた。


リサがそっと背後で戸を閉める。

「……お着替えはこのままでよろしいですか?」


セレナは窓の外へ目を向けた。


庭の向こうでは、夕餉に向けて侍女たちが慌ただしく行き交う。


セレナはそっと息を吐き、背中の力を抜く。


目の前にかざした手は、白く、細く、どこから見ても王女のものだった。

かつてのように、霊は見えない。

術も、もう使えない。


きゅっと、指を握る。


「せっかくの二度目の人生なんだから……」


口元にごく小さな笑みを浮かべ、窓の外を眺める。

沈む陽が、石畳をやわらかに染めていた。





夕陽に照らされた窓辺、顔を外に出して庭を眺めるセレナの姿があった。

回廊の影から、その光景をラシードが静かに見上げる。


初日で女官長の鼻を明かし、妃候補の当てこすりも受け流す。

物腰は柔らかく見せているが、あれは計算か……それとも天性か。


今の後宮はもう勝負の舞台ではない。

争いも駆け引きも形ばかりの、ただの茶番だ。

そんな舞台に、妙に芯の通った異国の姫が立てば――浮くのも当然。


ラシードは目を細め、肩をすくめて小さく笑うと、足音を消して回廊の奥へと消えていった。





執務室の油灯の明かりが、積まれた粘土板を金色に縁取る。


静かな火の揺らめきの中、アルシオンは筆を置き、ラシードの方を見た。


「――で、あの姫はどうだった?」


ラシードは穏やかな笑みを浮かべ、淡々と報告を始める。

「物腰は柔らかく、礼も行き届いておられます。

 女官長や妃候補からのあからさまな試しにも動じず、むしろ軽く受け流す度胸がおありで」


アルシオンはわずかに瞼を上げた。

「……ほう」


「ですが、それだけではありません。

 礼を崩さず、しかしはっきりと自分の意志を示される。

 今の後宮で、ああした気骨を見せる方はまずおりません」


「ふむ……」


アルシオンは短く思案し、やがて口元に淡い笑みを落とした。


「だが、正妃はサフィアにしたい」


油灯の炎が、ふっと揺れた。

ラシードは目を細めたまま、微笑を崩さない。


「……そう仰ると思っておりました」


静寂が、わずかにきしんだ。


「法に触れるわけではありませぬが、慣例には大きく背きましょう」

ラシードは冷めた茶器をそっと置き、微笑のまま息を吐いた。


結局、火消し役は私か……

セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)

感想をいただけたら、とても嬉しいです!」

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投稿を毎週土曜日7時にしますm(_ _)m

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