第3話 流儀
帳をくぐった途端、湿った匂いが鼻を刺した。
「これは……誰がこんなことを!」
リサが息を呑み、セレナの前に躍り出る。
羊毛のキリムは一角がぐっしょり沈み、脇には彩陶の壺が無惨に割れ、花びらと水が床に散っていた。
セレナは、しばし言葉を失った。
目の前の絨毯を見て、思わず肩を落とす。
部屋の隅では、数人の侍女が視線を逸らしながら、そそくさと立ち去ろうとしていた。
その中の一人の口角が、ほんのわずかに上がる。
セレナは、その背を見送った。
正妃候補の部屋だ。
侍女を使って、ここまで手を入れられる者は限られている。
目を足元へ落とす。
「……リサ、足元に気をつけて。破片が鋭いから」
裾を押さえてゆっくり膝をつく。
陶片をひとつずつ拾い上げるたび、冷たい雫が掌に落ちては消えていく。
リサが慌てて亜麻布を取りに走る。
……業務の一環、か。
織り敷物へと目を向ける。
羊毛の織り目が水を吸い、染料の重なりが滲む。
……手が込んだ絨毯ね。
「今のは侍女たちの仕業で、間違いないわよね?」
短い躊躇いののち、リサは頷いた。
「はい……正妃候補には、こうした嫌がらせが少なくないと聞きます」
水の染みがじわじわと広がっていく。
セレナは微笑を保ったまま「それで十分」とだけ言い、裾を払って立ち上がった。
「それより……そろそろ食事の時間よね。行こうか」
◆
中庭の木陰を抜ける風が、枝葉をさわりと鳴らす。
長椅子に腰掛けたセレナとリサの前には、香草を練り込んだパンと、豆と肉の煮込みが並んでいた。
「中庭の風は気持ちいいですね、姫様」
リサが微笑んだ、そのとき――
薄桃色の衣の女が、銀盆を抱えたまま、回廊を渡ってきた。
すれ違いざまに、彼女の肘がセレナの肩をかすめる。
スープが跳ね、胸元へ温い雫が散った。
「っ……!」
セレナが反応する間もなかった。
女はひとつも振り返らず、黒髪を翻し去っていく。
遠巻きに見ていた数人の妃候補たちは、口元を隠して忍び笑う。
「わざとよ」「新しい子をからかってるのね」
そんな囁きが、風に溶けて消えた。
リサが低い声で「お怪我は……?」と寄ってくる。
セレナはゆるやかに立ち上がり、彼女の背中をじっと見つめた。
あんまりじゃない。
わずかに間を置き、口元の力を解く。
「……姫様。それが、あなたの国の流儀ですか?」
木陰の下で妃候補たちの笑みは凍りつき、忍び笑いがぴたりと止んだ。
アシェラの肩がわずかに強張り、歩みが一度だけ乱れる。
それでも振り返らず、陽光の中に溶けるように姿を消す。
セレナは視線を逸らさず、最後の影が消えるまで追い続けた。
◆
サフィアが中庭を横切ろうとした時だった。
姫は一歩も引かず、静かな声で問いかける。
「姫様……それが、あなたの国の流儀ですか?」
凛とした姿を、サフィアは少し離れた場所から眺めていた。
「へぇ……」
やられても黙って飲み込まないのか。
妃候補たちは、握った扇を硬直させている。
たったひと言で、空気の流れを奪った姫の姿。
誰も、口を開かなかった。
サフィアは拳を握りしめ、視線を落とした。
――サフィアが王宮に来たばかりの頃。
「愛人枠」なんて立場、後宮では異物みたいなものだった。
廊下でわざとぶつかられ、飲み物をこぼされ、侍女たちに背中で囁かれた。
「武官ふぜいが殿下の寵愛?」「どれくらいもつかしらね」
あの時は、怒りよりも、殿下に恥をかかせたくない気持ちが先に立った。
全部を笑って受け流し、傷一つ残さなかった――少なくとも表向きは。
あの姫は、ああやって返すんだな。
胸の奥が、ほんの少しざわついた。
◆
中庭に残ったのは、張り詰めた沈黙だった。
姿が完全に見えなくなったころ、リサがそっと寄る。
「姫様……お加減は大丈夫ですか?」
濡れた服を見やりながら、少し眉を寄せる。
「大丈夫よ。びっくりしただけだから」
表情を崩さず言葉を返す。
くだらない嫌がらせ。
もう、こりごり。
周囲を見渡す――その瞬間、空気がぴしりと軋んだ。
目が合った途端、胸の奥底を掴まれるような寒気が走る。
妃候補たちは思わず扇を強く握り、囁き声は途切れた。
リサにもその緊張が伝わり、息を詰める気配が揺れる。
セレナはゆるやかに立ち上がり、濡れた裾を整えながら、柔らかく告げる。
「リサ……悪いけれど、服が汚れてしまったわ。着替えたいの」
リサははっとして頷き、籠を手にセレナの後ろにつく。
中庭を離れる二人の背を、妃候補たちは無言で見送った。
その視線には、もう隠しようのない警戒が滲んでいた。
歩きながら、リサが小さく囁く。
「……もう表立って絡んでくる方はいないでしょうね」
セレナは笑みを浮かべたまま、前を向く。
「そう? だったら、よかったわ」
◆
部屋に戻ると、リサがすぐに衣装棚を開け、替えの服を取り出した。
濡れた胸元が外気に触れ、
ひやりとした感触が肌を這う。
セレナは視線を落とした。
敷物に、水の染みが広がっている。
こっちも何とかしないとね。
セレナは帯を解きながら、リサに目を向けた。
「このあと、女官長に会いに行こうと思うの。
バタバタして悪いけど、付いてきてくれるかしら?」
リサは小さく頷き、衣を差し出す。
着替えを終えたセレナは裾を整え、金糸の刺繍が施された外套を羽織った。
◆
女官長の執務室へ続く回廊では、侍女や文官が行き交い、木靴の音が石畳に小刻みに響く。
リサが小声で告げる。
「女官長殿、ただいまお手隙だそうです」
セレナは扉を押し開け、一歩踏み入った。
中央の机から顔を上げた女官長に向かい、裾を持ち上げて一礼する。
「女官長殿、初めまして。
ルナワ公国第一王女、セレナと申します。
以後お見知り置きを」
礼を終えると、部屋は静まり返った。
奥に座す女官長マリシェは四十前後、薄く引かれた唇と、鷹のような鋭い眼光を持っていた。
その視線ひとつで、後宮の采配が決まる。
マリシェが顔を上げ、低く問いかける。
「……それで、本日は何のご用でしょうか?」
セレナは唇に笑みを湛えたまま、落ち着いた声で答える。
「私の部屋の織り敷物がびしょ濡れで、彩陶の器も割れておりました」
隣に立つリサへと視線を送る。
「我々が部屋に入った時点で、すでにその状態でしたよね?」
リサは小さく頷いた。
「部屋を整えた侍女の手によるものかと。
侍女の失態は、女官長殿の責任ですよね?」
マリシェの眉がわずかに動き、茶器に添えていた指が静かに曲がった。
その瞳には、測るような光が宿る。
「……心得ました。正妃候補ともあろう方が、その程度のことで直々に足を運ばれるとは――少々意外でしたが」
「正妃候補ですから。
見過ごすわけにはいきません」
マリシェは一瞬、口を閉ざした。
「……そうですか」
机脇の鐘を鳴らすと、侍女が入ってくる。
「器と織り敷物を替えなさい。それと部屋付きを呼び出しておけ」
「ご対応、感謝いたします」
柔らかな声を残し、セレナは踵を返す。
その横でリサがほっと息を漏らし、主の後を小走りで追った。
廊下に二人の足音が遠ざかり、扉が静かに閉まる。
――執務室には再び沈黙が落ちた。
青銅香炉の煙がゆるく揺れ、残されたのはマリシェただ一人。
帳の影から、濃紺の長衣をまとった女がゆるやかに姿を現す。
サーヒは羽根扇を弄びながら、薄笑いを浮かべた。
「意外とずぶとそうね。
あんな子と私が同じ正妃候補だなんて、目障りだわ」
「口の回し方は悪くない。
だが、あの眼差しは……放っておけば厄介な芽になる」
「ザリーナ王妃にお伝えしますか?」
「まだ早い。正妃の座は一つ――芽は伸びきってから摘むほうが、手間がかからぬ」
短い沈黙の奥に、香炉の煙が立ちのぼる。
室内に重く満ちていた。
◆
自室へ向かう静かな回廊で、セレナの横を歩くリサはちらりとその横顔を盗み見た。
「姫様」
声を落とし、探るように問う。
「……怖くないのですか?」
セレナは足を止め、わずかに目を瞬いた。
「え? 怖いわよ」
リサが眉を寄せる。
「それなのに……どうして」
セレナは前を向き直り、歩みを再開した。
「駄目なことを、なあなあで受け入れるようになる人間になるほうが……よほど怖いから」
リサは短く息を呑み、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
回廊を抜け、部屋に戻る。
濡れていた織り敷物はすでに片付けられ、新しいものに替えられている。
彩陶壺も同じ形のものが置かれ、部屋は元どおり整っていた。
リサがそっと背後で戸を閉める。
「……お着替えはこのままでよろしいですか?」
セレナは窓の外へ目を向けた。
庭の向こうでは、夕餉に向けて侍女たちが慌ただしく行き交う。
セレナはそっと息を吐き、背中の力を抜く。
目の前にかざした手は、白く、細く、どこから見ても王女のものだった。
かつてのように、霊は見えない。
術も、もう使えない。
きゅっと、指を握る。
「せっかくの二度目の人生なんだから……」
口元にごく小さな笑みを浮かべ、窓の外を眺める。
沈む陽が、石畳をやわらかに染めていた。
◆
夕陽に照らされた窓辺、顔を外に出して庭を眺めるセレナの姿があった。
回廊の影から、その光景をラシードが静かに見上げる。
初日で女官長の鼻を明かし、妃候補の当てこすりも受け流す。
物腰は柔らかく見せているが、あれは計算か……それとも天性か。
今の後宮はもう勝負の舞台ではない。
争いも駆け引きも形ばかりの、ただの茶番だ。
そんな舞台に、妙に芯の通った異国の姫が立てば――浮くのも当然。
ラシードは目を細め、肩をすくめて小さく笑うと、足音を消して回廊の奥へと消えていった。
◆
執務室の油灯の明かりが、積まれた粘土板を金色に縁取る。
静かな火の揺らめきの中、アルシオンは筆を置き、ラシードの方を見た。
「――で、あの姫はどうだった?」
ラシードは穏やかな笑みを浮かべ、淡々と報告を始める。
「物腰は柔らかく、礼も行き届いておられます。
女官長や妃候補からのあからさまな試しにも動じず、むしろ軽く受け流す度胸がおありで」
アルシオンはわずかに瞼を上げた。
「……ほう」
「ですが、それだけではありません。
礼を崩さず、しかしはっきりと自分の意志を示される。
今の後宮で、ああした気骨を見せる方はまずおりません」
「ふむ……」
アルシオンは短く思案し、やがて口元に淡い笑みを落とした。
「だが、正妃はサフィアにしたい」
油灯の炎が、ふっと揺れた。
ラシードは目を細めたまま、微笑を崩さない。
「……そう仰ると思っておりました」
静寂が、わずかにきしんだ。
「法に触れるわけではありませぬが、慣例には大きく背きましょう」
ラシードは冷めた茶器をそっと置き、微笑のまま息を吐いた。
結局、火消し役は私か……
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
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