第10話 影
今日は少し気分を変え、セレナはリサに城下町を案内することにした。
「リサにとっては初めての海外だものね」
城壁を抜け、石畳の通りへ出ると、香草と樹脂の“温い甘さ”が流れこんだ。
市場では葡萄の房が籠に盛られ、羊毛を量る分銅が青銅皿で乾いた音を打つ。
子どもたちの笑いが屋台の布天幕に跳ね返っていた。
リサは目を輝かせて左右をきょろきょろと見回した。
「セレナ様……すごいです! どこ見ても楽しくて……!」
セレナは思わず微笑んだ。
「ふふっ、そうね」
私も……前世の記憶が戻ってから、こんなふうに城下町を歩くのは初めてね。
リサが屋台の前で足を止め、乾いた葉束──香料草を抱えた女商人に話しかけていた。
その姿を眺めながら、セレナの胸にふわりと温かなものが広がる。
みんな、生き生きしてる——
セレナは、市場を見渡した。
荷を担ぐ女たち。値を交わす声。肩を寄せて歩く母娘。
この場の誰もが“務め”ではなく、自分の生きるためにここにいる。
今……すごく、解放された気分——
後宮では、妃候補達の役割は殆ど残されていないのに、
古い縛りだけが今も残り続けていた。
リサの声がして、セレナは息をつく。
「後宮も、あんなふうに自由だったらいいのに……」
二人が染織の店先で脚を止めたとき、
陽焼けした店主が人懐こい笑みを浮かべ、布束を揺らした。
「おや、綺麗なお嬢さん方。絹の新柄はいかがだ? 今なら“おまけ”つけとくよ」
リサは慌てて両手を振る。
「い、いえ、見るだけで……!」
セレナは笑って、差し出された布をそっと指にすべらせた。
金糸が光を弾き、織り込まれた樹脂香がふわりと立ちのぼる。
「上手な事言って、交渉が上手ね。
……おまけしてくれるなら買おうかしら……!!」
商人の笑顔。その口上。その“誘導の仕方”。
ぱちん、と頭のどこかで火がついた。
これ……豪族の説得に使えるのでは!?
胸の奥がひとつ跳ね、セレナは布を静かに戻した。
◆
ルナワ王宮の政務室。
セレナは呼吸を整え、バルネスの前へ歩み出る。
このアイデアは小説から得たものだけど……やってみる価値はあるはず。
「バルネス様、倉庫の件で……豪族の方々を納得させる案を考えてまいりました」
バルネスがわずかに眉を上げる。セレナは言葉を続けた。
「宴を開き、豪族の皆さまの功績をお讃えする場を設けます。
その中で高床式倉庫の話を持ち出し……まずは一人、あらかじめ賛同してくださる方を“仕込んで”おくのです」
「……仕込む、とな」
「はい。最初の賛成の声があれば、周りは“空気”に従います。
さらに宴で賛同を表明してくださった方に褒美を授ければ……王宮からの恩寵だと皆が見て、反対はしづらくなるはずです」
バルネスは顎をゆっくり撫でた。
「なるほど……姫様は興味深いことを考えられる」
「……やはり無茶でしょうか」
「無茶ではありません。むしろ、人心の理に適っております。
ただし――“仕込み”と悟られてはならぬ。最初の声が自然でなければ、逆効果です」
「!そうですか……」
よかった!……ちょっと詐欺っぽいけど、豪族も民も得をするなら、いいよね?
バルネスは筆を走らせた。
「では姫様。宴の段取りと“最初の一人”は、我らにお任せを」
「……ありがとうございます」
セレナは深く礼を執り、胸の内で小さく拳を握った。
失敗すれば、いろんな意味で痛い……! 必ず成功させないと!
◆
政務を終え、部屋へ戻る途中。
廊下の先で待っていたリサが、申し訳なさそうに手を上げた。
「……あの、セレナ様。さっき市場で見た絹布が、どうしても気になってしまって……。
もう一度だけ見に行っても、よろしいですか?」
「ふふ、いいわ。一緒に行きましょう」
再び2人は市場に向かった。
――夕刻の市場は、店主たちは店仕舞いを始め、通りのざわめきが沈みつつあった。
リサが絹布を手に取りながら、嬉しそうに頬を染める。
「セレナ様……買ってくださりありがとうございます……!」
「喜んでくれてよかったわ」
いつの時代も、女の子は買い物好きよね。そんな事を思っていると、背後から男たちの声が耳に入ってきた。
「……聞いたか? 北で戦の噂が立ってる」
「街道の荷が滞ってるらしいぞ。商人が皆ざわついてる」
「葡萄酒の値が今朝から少し上がったってよ。明日は布も吊り上がるかもな」
リサの笑みがふっと翳る。
「戦……ですか」
「……嫌だわ」
この時代は戦が身近であることを、喧騒の只中で思い知らされる。
リサが袖をそっとつまむ。
「……戦だなんて、怖いですね」
セレナは微笑を作り、その手を握り返した。
「今すぐルナワに関わる話じゃないわ。心配しないで」
……どこの国同士の戦争なのかしら……。
北を流れる大河から吹き下ろす乾いた風が、二人の影を寄せて揺らした。
◆
アウレナ王宮の回廊。
夕刻の光が青灰石の柱を染めるなか、兵が駆け寄ってきた。
「殿下、急報にございます!」
アルシオンは歩を止め、身体を兵に向ける。
兵は巻物を捧げ持ち、声を震わせた。
「北の砦が……敵軍に抜かれたと!」
「……何だと」
脇に控えていたラシードが王印を割り、巻物に目を走らせる。
アルシオンは拳を握り、低く息を吐いた。
「……政務殿へ向かう。軍議を開け」
――政務殿では、急報が告げられるや否やざわめきが満ちた。
ラシードが巻物を睨み、低く告げる。
「……三千。砦を抜き、そのまま進軍中。次は本砦が危うい」
廷臣達が慌てて声を張る。
「なぜ、この時節に――?」
「……秋の宴だ。あの場にいた他国の使節、皆見ていた。殿下が女武官を妃席に座らせたのを……」
「“秩序が崩れた王国”と見られたのでしょう。そこを突かれたのです!」
アルシオンは拳を握り締め、声を荒らげた。
「馬鹿な。俺は心に従ったまでだ!」
だが、その瞳の奥で一瞬、迷いが揺れた。
……秋の宴。あれが火種になったのか……?
廷臣たちの声が渦を巻くのを、ラシードが机を叩いて断つ。
「静まれ。まず敵の意図を読むべきだ。これはただの小競り合いでは済まぬ」
重苦しい沈黙が、部屋を満たした。
◆
翌朝の訓練場。
サフィアは桶の水に手を浸し、指先をこすり合わせる。
血と油の混じった汚れは、水だけではなかなか落ちない。
背後で、従兵たちがひそひそと声を交わした。
「北から急報だ……砦が抜かれたらしい」
「三千の軍勢だと。駐屯兵は退いたってよ」
その言葉が耳に届いた瞬間、サフィアの動きが止まった。
「……進軍、だと?」
胸の底に冷たいものが走る。
だが表情は変えず、額の汗を拭い、何事もなかったように訓練場を後にした。
回廊に出ると、帳の影から、上質な絹をまとった侍女たちの笑い声がこぼれていた。
通りすぎるつもりだった――だが、耳に入った言葉が背を縫いとめた。
「ねえ聞いた? 国境で戦が始まったんだって」
「ほんと? さっき急報が届いたって」
「でも殿下は政務を執ってるし、出陣なんて無理よね」
「だよねー。だから正妃さまがいれば支えられるのに……」
息が詰まり、足が動かない。
「……それに、このあいだの秋の宴よ」
「そうそう。他国の使節、全部見てたんでしょう? 殿下が女武官を妃席に座らせたの」
「そりゃ笑われるわよ。王宮の格が落ちたって」
「その隙、突かれたんじゃない?」
「セレナ様がいればねー。あの方なら後宮も宮も回ったのに……」
拳を握り締めても震えが止まらない。
私が……殿下を危うくしている?
笑い声が遠ざかるまで、その場に立ち尽くしていた。
胸に渦巻くのは、嫉妬、劣等感、そして――殿下を支えたい一心の焦燥。
「……どうすれば、私は――」
握り締めた拳をほどく。
洗い流したはずの指先に、まだ薄く汚れが残っていた。
◆
政務殿には地図が広げられ、
廷臣たちが声を荒らげていた。
「敵軍三千、進軍が速い! 本砦が落ちれば平原の都市が危うい!」
「なぜ止められなかったのだ。防壁の補修は終えていたはずだ!」
「偵察線も敷いていたのに……まさか一晩で突破されるとは!」
ラシードが机を叩いた。
「殿下。兵の動員を急ぎ定めねばなりません」
そのとき、扉が軋み、革甲冑に身を固めたサフィアが現れた。
一瞬でざわめきが跳ねる。
「女武官が軍議に……!」
「何事だ、退け!」
サフィアは迷いなく進み、アルシオンの前に膝を突いた。
「殿下。どうかおん自ら軍を率いてください。砦を守れるのは殿下しかおりません!」
廷臣が声を荒らげた。
「!女武官が……何を言っている!?」
他の廷臣たちも「正気か」「殿下は宮廷を離れられぬ」と口々に叫ぶ。
――その時。
「静まれ」
王妃ザリーナが扉前に立っていた。
ゆるやかに歩み出て、上段に立つ。
「国が揺れているのです。王妃がここに立つことに、何か不都合がありますか」
廷臣たちは言葉を失い、膝を折る。
ザリーナはアルシオンに目を向けた。
「殿下。戦況を見誤られてはなりません。
今や前線は“誰が出るか”で国の命運が決まります。
殿下が最も信を置いてきた者こそ、任せるにふさわしいはず」
革甲冑の肩がわずかに震え、サフィアの瞳はまっすぐ主君を映す。
アルシオンは机の縁を掴んだまま沈黙した。
……前線を率いる将は他にもいる。歴戦の将軍も、家柄を誇る貴族も。
だが彼らは家名を掲げ、功績を奪い合う。
勝っても王国の誉れではなく、己の誉れに変えてしまう……。
ひと呼吸置いて、思考は別の方向へ沈む。
俺が行くべきだろう……。
だが陛下に代わって政を執る今の俺は、宮廷を離れられぬ。
政を空ければ、たとえ戦に勝っても国は回らない。
視線の先――サフィアの瞳は、
王太子でも男でもなく、ただ“主”を見ていた。
ならば……俺が前に出られぬ以上、前へ行くべきは――。
やがてアルシオンは静かに顔を上げた。
「俺は陛下に代わり政を執っている。軽々に宮廷を離れることはできぬ」
言葉を切り、サフィアを真っ直ぐに見据える。
「だが――俺の剣はお前だ。サフィア。前線を託す。
俺の名誉を、その刃で守れ」
ざわめきが波打ち、すぐに呑み込まれた。
サフィアは深く頭を垂れ、震える声で答える。
「必ずや……殿下の御名にかけて」
◆
軍議が終わると、回廊の影にカリムが立っていた。険しい顔でこちらを見る。
「……本当に行くのか、サフィア」
一瞬胸がざわつく。サフィアは足を止めず、胸甲の肩を軽く叩いた。
「殿下が託してくださった。迷う理由はない」
「お前ひとりで背負えるものじゃない。戦は剣だけじゃないんだ」
「……私の力量は、お前が誰より知っているはずだろ」
カリムは一歩近寄り、低く囁く。
「じゃあ俺は、都で殿下を守る。だから……生きて帰れ」
その言葉が妙に重く胸に沈む。サフィアは答えず、歩みを速めた。
――執務室。
サフィアは胸甲のまま扉前で膝を折る。
「……殿下。お呼びと伺いました」
アルシオンは机に肘を突き、しばし見つめ、低く問う。
「……怖くはないのか」
サフィアは瞳を伏せ、すぐに顔を上げた。
「怖いですよ。死ぬのは。……でも、殿下のために戦えるなら、それでいい」
アルシオンは立ち上がり、サフィアの肩に手を置く。
掌の熱が胸甲越しに伝わる。
「……お前を行かせたくはない。本音を言えば、ここにいてほしい」
その声に、サフィアの胸がきゅっと詰まった。
けれど微笑む。
「殿下。そんな顔しないでください」
そっと手を伸ばし、彼の胸に触れた。
「ここに誓います。必ず生きて戻る。殿下の名を守って」
青の瞳が揺れる。次の瞬間、アルシオンは彼女を強く抱きしめた。
「……戻ってこい。必ずだ」
冷たい夜風が帳を揺らす中、額を寄せた呼吸だけが、かろうじて温かさを残していた。
◆
同じ頃、王宮の一室。
ラシードが盃をくゆらせ、口の端を上げる。
「……しかし、驚きましたな。王妃殿下が軍議にまで顔を出されるとは」
ナヴァリスは筆を止め、静かに言った。
「驚くには当たりません。王妃殿下は“序列の乱れ”を誰より嫌われる御方。
あの場で口を開かれたのも、むしろ当然でしょう」
「ふむ……だが、“あの女”を推したのは?」
「サフィア殿は殿下の寵愛を一身に受けている。戦で功を立てれば、
“愛する女を正妃に据える”という大義名分が整います」
ナヴァリスの筆先がわずかに揺れる。
「ですが――狙いが透けて見えるのは危ういこと。功績を立てられねば、
ただの無謀と笑われる」
硯に筆を浸しながら、ナヴァリスは数字を記す。
ラシードは肩をすくめ、盃を揺らした。
「戦の理由など後からいくらでも飾れる。だが世間は“分かりやすい物語”を好む。
……いずれにせよ、退屈はしませんな」
◆
城門前に軍鼓が鳴り響く。
槍の穂先が朝日に光り、二輪戦車の列が連なる。
サフィアは馬上に身を預け、戦装束の重みを胸に受け止めた。
振り返ると、政務殿の石段にアルシオンの姿がある。真っ直ぐにこちらを見つめていた。
……殿下。必ず戦果を挙げて戻る。殿下の剣として、そして――正妃として隣に立つために。
王宮の回廊から、王妃ザリーナがこちらを見下ろしていた。
口元には微笑みが浮かんでいる。
その視線が一瞬だけ、冷たく感じられるのは気のせいだろうか。
土埃が白く舞い、軍旗が乾いた音を打つ。
胸に渦巻く不安を押し殺し、サフィアは手綱を強く握った。
号令が列を走り、進軍が始まった。




