第9話 残照
王宮での協議は長く続いた。
父王は「すぐにでも建てよ!」と強硬に声を荒げ、バルネスは「豪族の反発を抑えねば」と冷静に釘を刺す。
マルディアも「民のためには急ぎたいですが……」と柔らかに言葉を添えた。
議論の末――まずは試験的に高床式倉庫を導入し、その成果を見て広げていく方針が定まった。
セレナは胸をなで下ろす。
その直後、バルネスが巻物を整えながら言葉を継いだ。
「……国営に、という声も出ております」
「……国営?」
セレナは思わず聞き返す。
バルネスは重々しく頷いた。
「倉庫を豪族任せにすれば、保管料や横流しで民が苦しむだけ。国家の管理下に置き、収穫を集約しなければ意味がない」
セレナは息を呑んだ。
「……それでは、豪族の方々は受け入れてくださるでしょうか」
おずおずと尋ねると、バルネスはわずかに笑った。
「簡単ではありませんな。収穫を握られるのは彼らにとって死活問題。陛下は強硬に推し進めたいご様子ですが、それでは反発を招く。――だからこそ、説得が要るのです」
◆
セレナは控えの間の窓辺に腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
香炉には杉と杜松の脂がくゆり、薄い香煙がゆるやかに立ちのぼる。
せっかく倉庫案は採用されたのに、また難題が……
唇を噛み、視線を落とす。
国が握れば、豪族にとっては収入を奪われるのと同じよね。簡単に認めるはずがない。
「セレナ様……?」
傍らのリサが心配そうに声を掛ける。
セレナははっとして、笑みを作った。
「ううん、大丈夫。ただ、少し考えていただけ」
茶器に伸ばした指先で縁をなぞる。
納得、か……。
推理小説で、似たやり取りを読んだ気がする。
どんな話だったのかしら――
窓辺から外を見ながら思い出そうとした、そのとき。
背後から小さな足音が近づき、ラディウスの声が響いた。
「姉上、ねえ……いつまでここにいるの?」
セレナは振り返り、微笑を浮かべる。
「どうしてそんなことを聞くの?」
ラディウスはしゅんと肩を落とし、うつむいた。
「……だって、またすぐアウレナに戻っちゃうんでしょ。父上、そう言ってた」
セレナの胸に、きゅっと切なさが走る。
膝を折って弟の目線に合わせ、そっと頬に手を添えた。
「……ええ、いつかは戻らなきゃ」
ラディウスは小さく頷いた。
けれど唇を尖らせ、視線を落とす。
「……ルナワに残ればいいのに……」
セレナは弟の頭を撫でた。
柔らかな髪が指先をすり抜ける。
皆に、戻ると約束した。
けれど、正妃候補としての役目はないのに。
――それでも、“戻る”意味はあるの?
◆
薄陽が差しこむ執務棟。
記録板は整然と並び、余白だけが白い。
ナヴァリスは筆を止め、沈黙した室内の気配を聞いた。
……静かすぎる。熱が失われたようだ。
数週間前までは、粘土板には追加案や要望が刻まれていた。
今は、与えられた務めを淡々とこなすだけ。
財政座はレイラが誇示に費やし、
娯楽座はアシェラの個人技だけ。
政務座のアナヒータは、一人で数字を追い続けている。
侍女や女官は「セレナ様がいれば」と囁くだけで、
誰も動こうとしない。
ナヴァリスは硯の水面に落ちる光を見つめ、淡く結論づけた。
……伸びきった芽に寄りかかり、姫が去れば流れも止まる。
巻物を閉じ、隣の席に腰を下ろしたラシードへ声を向ける。
「……そういえば、姫様がご提案なさった検問所の制度。
そこへ札番号と記録を加えられたのは、ラシード殿でしたな。
進捗はいかがでございましょう」
ラシードは、封泥の小塊を指先で転がした。
「ああ、まだ試験中だ。だが、頻発していた略奪箇所を抑えるには役立つだろう。
次は西の交易路に仕込む予定だ」
「西……交易の幹にございますな」
「実情は?」
「荷の遅れが目立つ。豪商どもがぼやいていた。
確かに、あの札は効いている。略奪は減った。だが――」
「些末な滞りも、やがて膨らみましょう」
ナヴァリスは淡々と告げ、硯に筆を浸した。
「……静観は必要にございますが」
「はは、まあ退屈せずに済みそうだ」
室内の灯が揺れ、二人の影が壁に長く伸びた。
◆
後宮の中庭。
薄い香の煙が柳の影に絡み、砂利を踏む音がさわさわと流れていく。
中庭の中央に据えられた水盤のそばで、侍女たちが肩を寄せ合う。
「……セレナ様がいらした頃は、みんな笑っていたのに」
「座も自然に動いて、叱責の声がぐっと減ったわよね」
「戻ってくださらないかな……」
通りすがりに、足が止まる。
すぐ背で交わされる声だった。
サフィアは振り向かなかった。けれど、琥珀の瞳が、わずかに冷える。
……セレナ様。
胸の底に、ぬるく尖ったものが沈む。
……どうしてあの娘ばかり。
指先が帯に触れ、結び目がきしむ。
回廊の向こう、青い衣の影がちらりと揺れる。政務殿へ向かう、あの方の背。
あの娘のいない後宮を——寂しいと。
喉の奥が熱い。
水盤に落ちた一片の葉が、くるりと裏返る。
……私だけを、見て。
嫉妬は、刃の背で撫でられるみたいに静かに痛い。
「——勤務に戻ります」
近くで控えていた侍衛にだけ届くほどの低い声だった。
振り返らずに警護線へ歩を戻す。背筋はまっすぐ、歩幅も乱れない。
揺れても、崩れない。アルシオンの前でだけは、絶対に。
柳の影が風に割れ、侍女たちの「セレナ様」という音だけが、長く耳の奥で細く鳴り続けた。
◆
政務殿の片隅、油皿だけが淡く照らす小部屋。
ラシードが盃を軽く揺らし、口元をゆるめる。
「殿下、面白いものですな。姫君がいなくなっただけで、宮がこうも軽くなるとは」
アルシオンは椅子に沈み、青の瞳を伏せた。
「くだらん話をするな。座は残っている」
――残っている。形は、な。
ラシードは淡く笑う。
「形だけでは動かぬということです。皆“セレナ様がいれば”と口にしておりましたよ」
その名が落ちた瞬間、アルシオンの拳が机をかすかに叩いた。
……聞き飽きた。あの娘の名を。
影ひとつで、なぜここまで惑わされねばならん。
蝋燭の炎が揺れた。
ラシードは片唇を上げた。
「……さて。寝所へ戻られぬのですか? お待ちでしょう」
「……余計な気遣いはするな」
短く返し、立ち上がった。
夜気が冷たい。
寝所へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
余計なことを考えるな。
扉を押す。
灯が揺れ、帳が落ちた――
夜の寝所。
淡い明かりが揺れている。
重ねた熱の余韻が、まだ肌に残っていた。
サフィアはアルシオンの胸に頬を押しつけ、静かに息を整えていた。
その重みが腕に伝わるたび、胸の奥に名を持たぬ痛みが疼く。
……俺は、この女を愛している。
彼は指先で黒髪を梳き、囁くように唇を寄せた。
「……おまえがいるから、俺は立っていられる。
おまえが俺の剣であり、心そのものだ」
サフィアが顔を上げる。
琥珀の瞳が揺れた。
「……ねぇ、アルシオン。
私、本当にあなたの隣に立っていいの?
武官としてじゃなく……正妃として」
アルシオンは息を吐き、彼女の頬を包んだ。
「……俺はおまえを愛している。
正妃に迎えるつもりでいる」
唇が触れ合い、熱が重なる。
だが――その奥底で、別の影が静かに揺れた。
……セレナ。
おまえを“愛している”わけではない。
ただ、あの在り方が、俺の理に触れただけだ。
サフィアの指先が肩に触れる。
その温もりは確かだ。だが、胸の奥で冷たい問いが燻る。
サフィアを正妃にしたい。心は揺らがない。
……だが、王太子としての俺は。
アルシオンは抱きしめる腕に力を込めた。
「……おまえを、離さない」
灯が揺れ、二人の影を絡めて溶かした。
◆
翌朝の訓練場。
乾いた剣戟が空気を裂く。
サフィアは汗を飛ばしながら、刃を振り抜く。
「……相変わらずだな」
背後から低い声。
振り返ると、カリムが立っていた。
「昨夜も殿下のもとにいたのか?」
「……余計な詮索はするな」
再び剣を振り下ろす。
カリムはため息をついた。
「お前は殿下の盾だ。それは誰にも真似できない役目だろう」
「……盾、か」
サフィアは、額の汗をぬぐった。
「それだけじゃ足りない」
「足りない?」
柄を握り直す。
「殿下の隣に立ちたいなら……守るだけじゃ駄目だ。
言葉も、礼も、私には知らないことが多すぎる」
「女官の真似でもするつもりか?」
「真似でもいい。笑われてもいい。……結果を出せば、誰も笑えない」
カリムは剣の柄に手を置く。
「……なるほどな。お前らしい答えだ」
サフィアは刃を構え直す。
「剣だけじゃ届かないなら、別の方法で戦うまでだ」
陽を返した刃が、まっすぐ前を向く。




