第8話 帰国
薄陽が差しこむ政務室。
王宮の中でも最も静かな一角に、粘土板と封泥付きの木札が積まれ、油皿の炎が低く揺れていた。
「……正妃候補の籍を外さぬのは、賢明なご判断」
ナヴァリスは巻物を静かに閉じ、淡々と告げた。
「属国の姫を公に退ければ、無用の波を立てるだけ。殿下は正しくお考えでした」
対するラシードは、掌の杯を軽く揺らした。
中身は香草を浸した湯で、政務室に酒を持ち込むのを禁じられている彼が、代わりに手慰みにしているものだ。
「ええ。ただ――侍女を随行させるとは。殿下にしては、ずいぶん殊勝な気遣いですな」
ナヴァリスはまぶたを伏せ、短く息を洩らす。
「余計な目と耳を増やしたに等しい。……管理の手間が増えるだけです」
「はは、それがまた面白い」
ラシードは肩をすくめ、灰色の瞳を愉快そうに細めた。
「姫君も、侍女も……いずれ揃って舞台に戻る。
その時、どれだけまたた宮が揺れるのか。退屈せずに済みますな」
ナヴァリスは答えず、
机上に残された数枚の書類を手に取った。
無言で一枚ずつ繰る。
「……姫様は、例の宴、
よほど堪えられたようですな」
ラシードは杯を揺らす手を止め、眉を上げた。
「ほう? なぜそう思う」
ナヴァリスは書類を重ね、淡々と告げる。
「修整だらけです。
――印章の深さが、すべて同じ」
ラシードは、思わず噴き出した。
「ははっ……慌てて一気に押したか。
目に浮かぶようですな」
ナヴァリスは書類を机に戻した。
「……本当に、戻られるのでしょうか」
ラシードは答えず、
香草湯の表面に浮かぶ波紋を見つめた。
◆
彩りの絹が風に揺れ、庭の花鉢に日が落ちていた。
後宮の共用広間では、妃候補たちが行き交いながら噂を交わしている。
文机の上には、未整理の文や帳が積まれていた。
「ルナワの姫様、国へお戻りになったそうよ」
レイラが盃を傾け、唇の端をわずかに上げた。
「まあ……結局、飾りにもなりきれなかったのね」
その言葉にアシェラが笑いを含んで扇をひらりと動かす。
「でも、少し寂しくなるわね。あの人がいると、後宮にちょっとした刺激があったもの」
アナヒータが扇を閉じ、静かに頷いた。
「確かに。あの方がいると、空気が動くのを感じましたわ」
レイラが唇に笑みを浮かべる。
「……まあ、しばらくは穏やかでいいんじゃなくて?」
「穏やかすぎて退屈するのよ」
アシェラが軽く肩をすくめ、盃を傾けた。
「どうせそのうち戻ってくるのでしょう? あの姫様なら」
アナヒータは小さく微笑む。
「ええ、“座”の根を残して行かれましたからね」
三人の笑い声が静かな昼の後宮に溶けていく。
香炉の煙がゆるやかに揺れ、空席になった一角に光が落ちた。
◆
大河に沿う穀倉の国――ルナワ公国。
川の肥沃を受けて畑は息づき、羊の群れが白い雲のように丘を渡っていく。
アウレナの支配下にありながら、その実りで均衡を保つ穀倉の国。
軋む車輪が轍を踏み、車体の金具が小さく鳴る。
葦で編んだ籠を積んだ牛車が道を譲り、行き交う人々の衣の裾を風が払った。
窓越しには、川面の光と金色の麦が風にきらめきながら揺れていた。
陽に焼けた麦藁の匂いに、湿った土の匂いが混じる。
ところどころに石造りの穀倉が並び、薄く石灰を塗られた壁が陽を反射していた。
今は亡き母と歩いた日の記憶がふと蘇る。
(優しい人だった……今世の親には、恵まれたな)
風にほどける麦畑の穏やかさとは裏腹に、セレナの胸は詰まる。
父は倒れ、弟はまだ幼い。
だからこそ後宮から呼び戻されるほど、国は揺れているのだ。
(あの元気なお父様が倒れるなんて……信じられない、信じたくない……)
ほんの少し前まで彼女はアウレナの後宮で「正妃候補」の席に縛られていた。
今は、国を背負う娘として呼び戻される立場。
同じ身でありながら、まるで別の秤に載せられたようだった。
(私が……しっかりしなきゃ……)
ルナワ第一王女として、その責任が胸に重くのしかかる。
麦畑の向こう、風に揺れる穂がひらひらと光を散らしていた。
「……まあ」
いつの間にか外へと溶けた視線の先で、リサが声を弾ませる。
「本当に……農業が盛んな国なんですね」
セレナは小さく笑い、頷いた。
「ええ、ルナワは“大河の穀倉”。小麦も大麦も葡萄も羊も……みんな、川の恵みに生かされているのよ」
リサは窓に身を乗り出し、丘に散る羊の群れを指差した。
「すごい……白い雲みたいに見えます」
「そうね。子どものころは、あれを追いかけて叱られたものだわ」
(そういえば……アウレナに向かう道中は、ずっと緊張していて外の景色なんて見ていなかったっけ)
外では羊飼いの歌が風に乗り、緑の畑がゆるやかに広がっていく。
((あの時はドキドキして、ひたすら俯いて……ただ馬車の揺れだけを感じていたな)
セレナはその景色を胸に刻みながら、静かに息をついた。
◆
石畳を叩く車輪が止まり、門楼の角笛が重々しく鳴る。ルナワ王宮――灰色の石壁と高い塔、旗竿には黒布と家紋旗が並んで揺れていた。門扉の青銅板には穀神の印が打たれている。
「……姫殿下!」
門をくぐるや、宰相をはじめ重臣たちが列を成し、一斉に膝を折った。セレナは息を整え、裾を揺らして馬車を降りる。胸の奥のざわめきを抑え、ただ父のもとへ向かう覚悟だけを固めた。
「父のもとへ――すぐに案内を」
回廊には香炉の煙が漂い、寝所へ向かう侍従たちが慌ただしく行き交っていた。重い扉が軋み、薄闇の寝所が現れる。
帳の内で、父――公王は枕に凭れ、横になっていた。
「……お父様!」
セレナは駆け寄り、床几に膝をつく。そっと父の顔を覗いた――が、思ったより顔色がいい。
(……?)
その瞬間、父王の瞼がうっすらと開き、口元がにやりと動いた。
「……セレナか。……ふぅ、わざわざ呼び戻すのは骨が折れたぞ」
「…………え?」
声が裏返る。枕に凭れた父王は、わざとらしく咳を一つ。その背で宰相が目を伏せ、重臣たちは気まずげに視線を逸らした。
「えっ……?」
セレナは状況が掴めずぽかんと口を開き、父王の笑みを見つめるしかない。
帳の内で半身を起こした父――公王は、咳払いひとつのあと、ずいと身を乗り出した。
「……で、セレナ」
灰色に混じる髭を撫で、ぎろりと目を光らせる。
「なぜだ。あれほど完璧な娘を置いておきながら……なぜアウレナの王太子は夜伽にも呼ばんのだ!」
「ええっ」
セレナは目を瞬いた。
(ま、まさか……仮病!?)
父王は拳を握りしめ、寝台の上から声を荒げる。
「礼も教養も申し分なく、政務だって仕込んでやった! それを使わず何をしているのだ、あの若造は!」
セレナは引きつった笑みを浮かべ、心の中で額を押さえた。
(そうだった。前世と違って、お父さんは私を過保護すぎるぐらいに大事にしてくれてたのよね……)
(ごめんなさいお父さん……実は夜伽に呼ばれたのにお断りしました。ごめんなさい殿下……)
寝所の空気は、重病人のはずの父の怒声で震える。父王がなおも拳を振り上げようとしたとき――
「……陛下。どうかご気分を鎮められませ」
と柔らかな声で遮ったのは、ルナワ宮中を取り仕切る女官長マルディアだった。
白髪が混じり始めた髪を結い上げ、母のような眼差しで進み出る。
その傍らには、まだ幼い王子ラディウスの姿。
女官長の手をしっかり握りしめていたが、姉の姿に気づくと嬉しそうに駆け寄った。
「……姉上!」
小さな声が寝所に響く。
セレナははっとして振り向き、膝をついて弟を抱きとめる。
「ラディウス……!元気でしたか?」
「はいっ!」
小さな胸が弾むように返事をし、セレナの腕の中で安心したように笑った。
その笑顔に、さっきまでの父王の怒気が少しだけ和らぐ。
マルディアは深く頭を垂れ、言葉を選ぶように続けた。
「――アウレナの秋の大饗宴。殿下が武官のサフィアを妃席に座らせた、という噂は、既にルナワにも伝わっております」
セレナの胸がどきりと跳ねる。
(やっぱりお父さんの耳に入ってたのね……)
女官長はなおも淡々と述べる。
「陛下は、その件を殊のほか憂いておられるのです。姫様の立場を軽んじられた――と」
父王は顔を真っ赤にし、再び声を荒げた。
「当然だ!我が娘を差し置き、余所の女を妃席に並べるとは何事だ!」
セレナは心の中で冷や汗をかく。
(でもお父さん、今は少し殿下も改心したの……なんて言いにくいな)
「……お父様。お気持ちは嬉しいです。でも……アウレナにも事情があります。どうか、私のことは案じずに」
セレナが声を落としてなだめると、公王はぶすりと唇を尖らせながらも布団に身を沈めた。
「……ふん。まあいい……だが、覚えておけ。お前は我が娘、国の宝だ」
その声にはまだ苛立ちの余韻があったが、次第に息が落ち着いていく。
セレナは布団の端を整え、静かに微笑んだ。
「はい……心得ております」
(でもよかった……お父さんが無事で)
セレナはそっと弟の手を取った。
ラディウスは不安げに父の寝台を振り返ったが、姉に導かれるまま一歩を踏み出す。
「行きましょう、ラディウス」
「……うん」
ふたりが静かに一礼し、寝所を後にすると、帳の内に香の煙だけがゆるやかに漂っていた。
(……そしてよかった。婚活パーティーが知られてなくて)
◆
ルナワ王宮の広間の一室。
壁のニッチには穀神への供物皿が整然と並び、窓から射す光が白い石床に澄んだ影を落としていた。
香の匂いがまだほのかに残り、室内にはしんとした気配が漂っている。
先ほど寝所に控えていた宰相バルネスは、改めてこの場でセレナを迎えるため、静かに待っていた。
深く礼をとり、改まった声で告げる。
「セレナ様……お戻りをお待ち申し上げておりました」
「……お久しぶりです。急な帰国でご迷惑をおかけします」
セレナが頭を下げると、マルディアが一歩進み、柔らかな笑みを浮かべる。
「お顔色が戻られたようで、何よりでございます」
ラディウスは姉の裾にしがみついたまま、ぱっと見上げて声を弾ませた。
「お父上、ずっと姉上の部屋の灯を消さなかったんだよ。
『セレナが帰る時のためだ』って」
「えっ……」
セレナは一瞬、言葉を失った。
(そんなに想っててくれたなんて……)
マルディアは静かに微笑み、そっと二人を見守る。
バルネスが咳払いを一つ。
「お姿が見えず、陛下もさぞご心細かったでしょう。こうしてお戻りになられ、ひとまず安堵されましょう」
セレナは居心地悪そうに微笑み、胸の奥でひそかに呟く。
(気恥ずかしいけど……やっぱり嬉しいな)
その隣で、緊張した面持ちのリサが裾を整え、一歩前へ進み出て深く一礼した。
「……あの、私はリサと申します。セレナ様にお仕えしております」
マルディアは驚いたように目を瞬かせ、すぐに穏やかな笑みへと変えた。
「まあ、セレナ様に従って来られたのですね。どうぞよろしく」
リサは頬を赤らめ、ふと窓辺に目を向ける。
「……ルナワの景色を見てまいりました。黄金色の畑がどこまでも広がって……本当に豊かな国なのですね」
その言葉に、ラディウスがぱっと顔を上げる。
「そうなんだよ!畑も羊もいっぱいで、収穫が多すぎて、せっかくの麦がすぐ傷むんだって――バルネスが言ってた!」
バルネスは苦笑を浮かべ、頷く。
「……王子の仰る通りでございます。豊作も過ぎれば悩みの種ですな」
セレナが首を傾げると、マルディアがため息を交えて続ける。
「今年も豊作でございますが……結局、保管しきれず傷ませてしまうのです。市場に出すにも人手も荷も足りず……」
バルネスが重く頷く。
「倉庫は湿気に弱く、冬を越せませぬ。せっかくの実りを腐らせ、虫の餌にしてしまう。いずれは“豊作飢饉”という笑えぬ事態にもなりかねん」
セレナは思わず口にした。
「そうなのですね……」
言葉では微笑を保ちながら、胸の奥では考えが巡る。
(それは……すごくもったいない。どうにかできないのかな。安く売り捌く?……でも人手が足りないし、馬車も限られてるし、それじゃ根本的な解決にはならない)
(ところで……この時代の倉庫って、どんな造りだったっけ……)
脳裏に浮かぶのは、石や土壁で囲われ、地面に直接床を打ちつけた暗い小屋。
(……そうだ。地面べったりに床を張っていたんだ)
ふと、日本の記憶が蘇る。神社の高床式の倉、床下に風が通る光景。
(……そうよ、日本って、確か床を地面から離して、湿気を避けてたんじゃ……)
セレナは小さく首を傾げ、気づけば口にしていた。
「――床を……地面から少し離してみてはどうでしょうか」
その一言に、室内の空気がぴたりと止まった。
マルディアが瞬きを繰り返し、バルネスは眉をひそめる。
「……床を、離す?」
「湿気を避ける……と、いうことですか」
セレナは少し肩をすくめながらも続けた。
「はい。地面に直接建てると、どうしても湿気や虫が入り込んでしまいます。
床を高くして風を通せば、腐りにくくなるのではないかと……」
マルディアは思わず顔を見合わせ、バルネスは顎に手を当てて唸る。
「……なるほど、地から離せば風が通るか」
「確かに……湿気で麦が黴びるのは避けられるやもしれませぬ」
リサが隣でこくりと頷き、声を弾ませた。
「なるほど! お日様の光も、少しは床下に入りますし……乾きやすそうです!」
バルネスは目を細め、じっとセレナを見つめる。
「……セレナ様。そのような発想、どこで」
「……ふふ。昔どこかで、そういう倉の話を耳にしただけです」
セレナは曖昧に笑みを浮かべ、深くは語らなかった。
マルディアは頬に手を当て、興味深げに呟く。
「……高床の倉、ですか。聞いたことはございませんが……」
「いずれにせよ、試す価値はあろう」
バルネスは低く言い、巻物を手繰り寄せた。
墨壺、葦筆、木簡が卓上に並ぶ。
「セレナ様、よろしければその構造を図にしていただけますか。実際に作ってみねば、わからぬゆえ」
ラディウスが嬉しそうに声を上げた。
「さすが姉上だ!お父上もきっと喜ぶよ!」
セレナは胸の奥が熱を帯びるのを感じ、力強く頷いた。
「ありがとう、ラディウス」
胸の内で、確かな手応えが芽吹く。
(よかった!前世の知識が役立てられて!)
◆
同じ頃、アウレナ王都――夜更けの寝所。
天蓋に薄絹が垂れ、灯の名残がほのかに揺れている。
甘い香りが空気に沈み、夜は静かに二人を包みこんでいた。
サフィアはアルシオンの胸に頬を寄せ、深いため息をついた。
「……やっぱり、戦場よりここがいい。アルシオンのそばが一番安心する」
低く落ちる声は、甘さよりも安堵に満ちていた。彼女にとって戦場は生きる場所でありながら、やはり命を削る場でもある。今この瞬間は、ただ抱かれていることが何よりの救いだった。
アルシオンは黙って黒髪を撫で、胸の奥に影を隠すように吐息を洩らした。
「……おまえがいるから、俺も背を預けられる」
サフィアは小さく笑って顔を上げたが、すぐに瞳を揺らす。
「……ねえ、アルシオン。わたし、本当にあなたの隣にいていいんだよね?」
「……どうした?」
アルシオンが眉をわずかに動かすと、サフィアは視線を伏せた。
「私はずっと、あなたを守るために剣を取ってきた。
けれど……」
言いかけて、サフィアは唇を噛んだ。
(後宮ではセレナの話題が飛び交ってる――)
続けかけた言葉を、喉の奥で押し殺す。
「……時々、怖くなるの。
あなたの心が――もし、どこかへ揺れたらって」
(知らなかった……こんなにも心が脆いなんて)
琥珀の瞳が真剣にこちらを探る。アルシオンはその視線を受け止め、静かに言葉を落とした。
「……揺れたりはしない。おまえは俺の剣であり……そして、愛する女だ」
サフィアの頬がふっと緩み、胸の奥に安堵が広がる。
「……そう、ならいい。わたしはそれだけで戦える」
彼女は再び身を寄せ、アルシオンの腕に体を絡めた。熱を分かち合いながらも、アルシオンの瞳はふと天蓋の向こうを見て――また影を沈める。
(……なぜ影が消えぬ)
青の瞳に宿ったわずかな翳りは、油皿の光に溶けることなく、静かに残り続けていた。




