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シウアルマ(転生姫はお飾り正妃候補?愛されないので自力で幸せ掴みます)  作者: 福嶋莉佳
二章

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第3話 渇望

淡い光が帳の隙間から差し込み、サフィアは寝台に横たわっていた。


……昨夜は、結局アルシオンと顔を合わせることはできなかった。


いつもなら、夜更けに視線で呼ばれる。

名を呼ばれずとも、彼の意図が分かる。


けれど昨夜は――何もなかった。


だから分かる。あの時、呼ばれたのは別の女。


夜伽……。


そう、理解していたはずだ。

アルシオンは王太子。

正妃となる以上、他の候補を迎えるのは“務め”のひとつ。

当然のこと。


それなのに、胸が締めつけられ、息が苦しい。


理性と感情がぶつかり合い、静かな痛みだけが残った。



朝の回廊。アルシオンは政務室へ向けて歩を進めていた。

角を曲がったところで、足を止める。


「……殿下」


サフィアの声。琥珀の瞳が、かすかに揺れていた。

朝に顔を合わせるのは珍しくない。だが、今朝は空気が違う。


「どうした」


問いかけながら、アルシオンはその表情を測る。


サフィアは小さく首を振り、ぎこちなく微笑んだ。


「ただ……殿下のお顔を見たくて」


足元の空気が沈む。

アルシオンは短く息を吐いた。


「……そうか」


彼女の脇を過ぎる。

外套が揺れ、風が二人の間を切り裂いた。


――離れない。その強さに、救われてもいる。


振り返ることなく、政務室へ向かって歩を進めた。





書庫の窓から差す光が背表紙を撫で、舞い上がった埃が金色の粒のようにきらめいた。


セレナは静かに葦筆を取った。

墨を含ませる手つきはいつも通り――けれど胸の底には、まだ昨夜の余韻が残っていた。


セレナはそっと息を落とし、指先で羊用紙の端を整えた。


隣でリサが控え写しを整えながら、ちらりと主の横顔を盗み見た。


「……セレナ様。……大丈夫でしょうか?」


その声音はかすかに震え、憐れむような眼差しが注がれている。夜伽に呼ばれ、拒まれて戻った――リサには、そう見えたのだろう。


……私が拒んだ事を知ったら、リサはどう思うのかしら。


セレナは筆先を葦紙に滑らせ、微笑んだ。


「大丈夫よ。心配かけてごめんね」


リサはなお言葉を飲み込み、心配そうに眉を寄せる。


……サフィアは、どう思っているのかしら。


それが義務だと分かっていても――胸が痛むのは避けられない。


セレナはひとつ息を整え、黙々と筆を走らせる。


……私だったら、いやだな。


リサはその背を見つめ、黙っていた。


前世では、愛されることなど考えもしなかった。

けれど彼と出会って、それを知った。


――だが後宮では。

それを望むことさえ、許されない。


みんなは、どう思っているのかな……。


記録板を伏せ、席を立つ。

今日は妃候補たちの茶会が開かれる日。


思い切って聞いてみようかしら。


裾を整え、廊下へ出た。





広間には白布を掛けた卓が並び、香り高い茶器と菓子が整えられていた。

妃候補たちのほか、給仕に当たる年長の女官や侍女が脇を固め、柔らかなざわめきが絶えない。


「……昨夜は殿下のお渡りがあったそうよ」

「まあ、誰のもとへ? まさか――」

「しっ、声が大きい」


セレナは盃を受け取りながら、耳に入る噂を聞こえないふりで受け流した。

けれど掌はじっとりと汗ばんでいた。


奥の卓には、主だった妃候補たちが座している。

レイラは金の杯を軽やかに掲げ、アシェラは薄衣を揺らして談笑していた。


セレナはゆるりと歩を進め、控えめに声をかける。


「ご一緒してもよろしいでしょうか」


「まあ、もちろん」


レイラは艶然と微笑み、視線を流す。


「妃候補は皆、同じ卓で語り合うものですもの」


他の妃候補がさざめき、話題を継いだ。


「それにしても、やっと殿下もお目覚めになられたみたいね」

「愛する方を正妃に……なんて噂もありましたわ」

 

アシェラが扇を広げ、唇の端に弧を描く。      


「そうね。正妃といえば“華やかさ”が何より大切。

 民も使節も、飾りを見ると安堵するものよ。愛なんて、その次」


レイラは杯を置き、低く笑んだ。


「ええ、“正妃は体裁”。

 愛などあれば足をすくわれるわ。大事なのは、殿下の隣に堂々と座れること……それだけ」


セレナは静かに盃を置き、視線を落とした。


前世で知ってしまった温もりを――忘れられなかった。


ひと呼吸置いて、唇を開いた。


「皆様は……誰かに見初められたいとか、愛し合いたいとか……、

 一度もお思いになったことはないのでしょうか?」


妃候補たちの扇の骨が止まり、杯に添えられた指がぴたりと固まる。

しかし次の瞬間、笑いが弾けた。


「まあ、恋物語の姫君みたいですこと」


アシェラが肩を揺らした。


「愛し合う正妃だなんて……儀礼の演目としては拍手喝采でしょうけれど?」


レイラは金杯を指先で回し、琥珀色の液面を揺らした。


「可愛らしいお考えですわね。でも幼いの。

 正妃は夢を追う座ではなく、殿下と国を支える“顔”。……務めは務めよ」


セレナは杯の縁を見つめた。


「……私は、一度きりの人生ですので」    


扇を膝の上で、そっと握った。


「……やっぱり、誰かに愛されたいのです」


扇の骨がかすかに震えた。

レイラは鼻で笑い、アシェラは目尻だけを愉快そうに緩める。

誰も深くは取り合わない――広間には再び華やかな談笑が戻っていった。


けれどその一言だけは、セレナの胸の奥で静かに息をし続けていた。





茶会を辞したのち、人気の引いた回廊を、セレナはリサを伴って歩いた。


胸元へ扇をそっと寄せ、短く息を吐いた。


隣のリサがちらと視線を寄越し、また前を向く。

気遣いが袖口から静かに伝わってくる。


「ねえ、リサ。……あなたはどう? 誰かと恋をしてみたいって、思ったことはないの?」


不意を突かれ、リサは足を止めた。頬に薄紅が差し、視線が揺れる。


「わ、私ですか……? わたしのような者には、身に余ることで……」


小さな声で言い、うつむく。


セレナは横顔を見て、ほんの少し微笑んだ。


歩みを再び合わせる。


回廊の香がやさしく流れ、胸の内に、かすかな寂しさと淡い温もりが並んでいた。





昼下がりの政務室に斜めの光が差し込む。


ラシードが入ってきて、静かに一礼した。

灰の瞳は笑っていないのに、口端だけがわずかに緩む。


「殿下。……本日の茶会、少々興味深いことがありまして」


「何だ」


ラシードは、巻物を机に置いた。


「妃候補の皆が“正妃は華やかさ、体裁だ”と笑い合う中……ひとり、場違いな夢を口にした姫がおりまして」


わざと間を空け、目尻を細める。


「“私は一度きりの人生なので……誰かに愛されたい”――そう仰ったそうです」


アルシオンの眉がわずかに動き、目の奥に影が差す。


「……誰が、そんなことを」


「ルナワの姫君、セレナ様です」


ラシードの声音は淡々としていた。


「妃候補の卓では笑い話にされましたが……殿下のお耳には、どう響くでしょう」


机の下で、アルシオンの拳が無意識に固く結ばれた。


ラシードはそれを見逃さず、唇の端だけで薄く笑う。


「夢想か、愚直か……それとも、芽か」


扉が閉じ、政務室には静寂だけが残った。


アルシオンはひとり、静かに息を吐く。


……セレナが“愛されたい”などと。


胸の奥を、思いもよらぬ痛みがかすめる。


あの姫は務めを選ぶ女だと思っていた。

だがその一言は、自分が抱いた理想と、静かに響き合っていた。


さきほど押した印章の粘土が半ば乾き、指先にざらりと残っている。


そして、厄介な疑念が浮かんだ。


誰の愛を望むと言うのだ。……俺では、ないだろう。


その考えが胸をひどくざわつかせる。


理屈では切り離したつもりの感情が、青い瞳の奥で静かに渦を巻いていた。




夜の回廊。

石床は昼の熱を手放し、井戸の底のような冷たさを取り戻している。


近衛に導かれ、サフィアは歩を進める。


……今夜は、アルシオンが呼んでくれた。


胸の奥に、じんわりと熱が広がった。

昨夜は胸が裂けそうだった。

だが今日は違う。呼ばれた――その事実だけで、心がほどけていく。


重い扉が開く。

寝所の灯りが、獣紋の織物をやわらかく浮かび上がらせた。


中に立っていたアルシオンの青い瞳が、まっすぐに彼女を捉える。


「アルシオン……」


呼びかける声は、わずかに震えた。

アルシオンは一歩近づき、いつもの調子で言う。


「来たか、サフィア」


穏やかで、淡々とした声音。

けれどサフィアには、それで十分だった。


「うん。……呼ばれたから」


少し照れたように笑い、言葉を足す。


「今日は、政務が長そうだったでしょう。

 顔、少し疲れてる」


アルシオンは一瞬だけ目を伏せ、口元を緩めた。


「そう見えるか」


「見えるよ。昔から、無理するとすぐ分かるもの」


そう言って、サフィアは自然な仕草で距離を詰めた。


「……ねえ、ちゃんと食事は?」


「昼は取った」


「“昼は”ね」


軽い咎め口調に、サフィア自身も少し安心する。

――いつものやり取り。いつもの距離。


「アルシオン。……会いたかった」


そう言って、彼の胸に抱きついた。

琥珀の瞳を隠すように、額を肩に押しつける。


アルシオンは一拍遅れて、その身体を受け止める。

背に回された腕は、確かに温かい。


「……急に甘えるな」


低く言いながらも、その腕は離れなかった。


「いいでしょう。恋人なんだから」


少しだけ、冗談めかして言う。

胸の奥で疼く不安を、言葉の軽さで包み込むように。


……やっぱり、アルシオンにとっても、私が一番よね。


そう思わなければ、壊れてしまいそうだった。


アルシオンはサフィアの髪に触れ、短く息を吐く。


「今日は……少し、話そう」


その一言に、サフィアの胸が小さく跳ねた。


「うん。何の話?」


「……たわいない話でいい」


その言葉に、サフィアは小さく笑った。


「うん。じゃあ……今日のこと、聞いて」


何を話したのかは、どうでもよかった。

こうして同じ灯の下にいられること――

それだけで、今夜は十分だった。

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