第3話 渇望
淡い光が帳の隙間から差し込み、サフィアは寝台に横たわっていた。
……昨夜は、結局アルシオンと顔を合わせることはできなかった。
いつもなら、夜更けに視線で呼ばれる。
名を呼ばれずとも、彼の意図が分かる。
けれど昨夜は――何もなかった。
だから分かる。あの時、呼ばれたのは別の女。
夜伽……。
そう、理解していたはずだ。
アルシオンは王太子。
正妃となる以上、他の候補を迎えるのは“務め”のひとつ。
当然のこと。
それなのに、胸が締めつけられ、息が苦しい。
理性と感情がぶつかり合い、静かな痛みだけが残った。
◆
朝の回廊。アルシオンは政務室へ向けて歩を進めていた。
角を曲がったところで、足を止める。
「……殿下」
サフィアの声。琥珀の瞳が、かすかに揺れていた。
朝に顔を合わせるのは珍しくない。だが、今朝は空気が違う。
「どうした」
問いかけながら、アルシオンはその表情を測る。
サフィアは小さく首を振り、ぎこちなく微笑んだ。
「ただ……殿下のお顔を見たくて」
足元の空気が沈む。
アルシオンは短く息を吐いた。
「……そうか」
彼女の脇を過ぎる。
外套が揺れ、風が二人の間を切り裂いた。
――離れない。その強さに、救われてもいる。
振り返ることなく、政務室へ向かって歩を進めた。
◆
書庫の窓から差す光が背表紙を撫で、舞い上がった埃が金色の粒のようにきらめいた。
セレナは静かに葦筆を取った。
墨を含ませる手つきはいつも通り――けれど胸の底には、まだ昨夜の余韻が残っていた。
セレナはそっと息を落とし、指先で羊用紙の端を整えた。
隣でリサが控え写しを整えながら、ちらりと主の横顔を盗み見た。
「……セレナ様。……大丈夫でしょうか?」
その声音はかすかに震え、憐れむような眼差しが注がれている。夜伽に呼ばれ、拒まれて戻った――リサには、そう見えたのだろう。
……私が拒んだ事を知ったら、リサはどう思うのかしら。
セレナは筆先を葦紙に滑らせ、微笑んだ。
「大丈夫よ。心配かけてごめんね」
リサはなお言葉を飲み込み、心配そうに眉を寄せる。
……サフィアは、どう思っているのかしら。
それが義務だと分かっていても――胸が痛むのは避けられない。
セレナはひとつ息を整え、黙々と筆を走らせる。
……私だったら、いやだな。
リサはその背を見つめ、黙っていた。
前世では、愛されることなど考えもしなかった。
けれど彼と出会って、それを知った。
――だが後宮では。
それを望むことさえ、許されない。
みんなは、どう思っているのかな……。
記録板を伏せ、席を立つ。
今日は妃候補たちの茶会が開かれる日。
思い切って聞いてみようかしら。
裾を整え、廊下へ出た。
◆
広間には白布を掛けた卓が並び、香り高い茶器と菓子が整えられていた。
妃候補たちのほか、給仕に当たる年長の女官や侍女が脇を固め、柔らかなざわめきが絶えない。
「……昨夜は殿下のお渡りがあったそうよ」
「まあ、誰のもとへ? まさか――」
「しっ、声が大きい」
セレナは盃を受け取りながら、耳に入る噂を聞こえないふりで受け流した。
けれど掌はじっとりと汗ばんでいた。
奥の卓には、主だった妃候補たちが座している。
レイラは金の杯を軽やかに掲げ、アシェラは薄衣を揺らして談笑していた。
セレナはゆるりと歩を進め、控えめに声をかける。
「ご一緒してもよろしいでしょうか」
「まあ、もちろん」
レイラは艶然と微笑み、視線を流す。
「妃候補は皆、同じ卓で語り合うものですもの」
他の妃候補がさざめき、話題を継いだ。
「それにしても、やっと殿下もお目覚めになられたみたいね」
「愛する方を正妃に……なんて噂もありましたわ」
アシェラが扇を広げ、唇の端に弧を描く。
「そうね。正妃といえば“華やかさ”が何より大切。
民も使節も、飾りを見ると安堵するものよ。愛なんて、その次」
レイラは杯を置き、低く笑んだ。
「ええ、“正妃は体裁”。
愛などあれば足をすくわれるわ。大事なのは、殿下の隣に堂々と座れること……それだけ」
セレナは静かに盃を置き、視線を落とした。
前世で知ってしまった温もりを――忘れられなかった。
ひと呼吸置いて、唇を開いた。
「皆様は……誰かに見初められたいとか、愛し合いたいとか……、
一度もお思いになったことはないのでしょうか?」
妃候補たちの扇の骨が止まり、杯に添えられた指がぴたりと固まる。
しかし次の瞬間、笑いが弾けた。
「まあ、恋物語の姫君みたいですこと」
アシェラが肩を揺らした。
「愛し合う正妃だなんて……儀礼の演目としては拍手喝采でしょうけれど?」
レイラは金杯を指先で回し、琥珀色の液面を揺らした。
「可愛らしいお考えですわね。でも幼いの。
正妃は夢を追う座ではなく、殿下と国を支える“顔”。……務めは務めよ」
セレナは杯の縁を見つめた。
「……私は、一度きりの人生ですので」
扇を膝の上で、そっと握った。
「……やっぱり、誰かに愛されたいのです」
扇の骨がかすかに震えた。
レイラは鼻で笑い、アシェラは目尻だけを愉快そうに緩める。
誰も深くは取り合わない――広間には再び華やかな談笑が戻っていった。
けれどその一言だけは、セレナの胸の奥で静かに息をし続けていた。
◆
茶会を辞したのち、人気の引いた回廊を、セレナはリサを伴って歩いた。
胸元へ扇をそっと寄せ、短く息を吐いた。
隣のリサがちらと視線を寄越し、また前を向く。
気遣いが袖口から静かに伝わってくる。
「ねえ、リサ。……あなたはどう? 誰かと恋をしてみたいって、思ったことはないの?」
不意を突かれ、リサは足を止めた。頬に薄紅が差し、視線が揺れる。
「わ、私ですか……? わたしのような者には、身に余ることで……」
小さな声で言い、うつむく。
セレナは横顔を見て、ほんの少し微笑んだ。
歩みを再び合わせる。
回廊の香がやさしく流れ、胸の内に、かすかな寂しさと淡い温もりが並んでいた。
◆
昼下がりの政務室に斜めの光が差し込む。
ラシードが入ってきて、静かに一礼した。
灰の瞳は笑っていないのに、口端だけがわずかに緩む。
「殿下。……本日の茶会、少々興味深いことがありまして」
「何だ」
ラシードは、巻物を机に置いた。
「妃候補の皆が“正妃は華やかさ、体裁だ”と笑い合う中……ひとり、場違いな夢を口にした姫がおりまして」
わざと間を空け、目尻を細める。
「“私は一度きりの人生なので……誰かに愛されたい”――そう仰ったそうです」
アルシオンの眉がわずかに動き、目の奥に影が差す。
「……誰が、そんなことを」
「ルナワの姫君、セレナ様です」
ラシードの声音は淡々としていた。
「妃候補の卓では笑い話にされましたが……殿下のお耳には、どう響くでしょう」
机の下で、アルシオンの拳が無意識に固く結ばれた。
ラシードはそれを見逃さず、唇の端だけで薄く笑う。
「夢想か、愚直か……それとも、芽か」
扉が閉じ、政務室には静寂だけが残った。
アルシオンはひとり、静かに息を吐く。
……セレナが“愛されたい”などと。
胸の奥を、思いもよらぬ痛みがかすめる。
あの姫は務めを選ぶ女だと思っていた。
だがその一言は、自分が抱いた理想と、静かに響き合っていた。
さきほど押した印章の粘土が半ば乾き、指先にざらりと残っている。
そして、厄介な疑念が浮かんだ。
誰の愛を望むと言うのだ。……俺では、ないだろう。
その考えが胸をひどくざわつかせる。
理屈では切り離したつもりの感情が、青い瞳の奥で静かに渦を巻いていた。
◆
夜の回廊。
石床は昼の熱を手放し、井戸の底のような冷たさを取り戻している。
近衛に導かれ、サフィアは歩を進める。
……今夜は、アルシオンが呼んでくれた。
胸の奥に、じんわりと熱が広がった。
昨夜は胸が裂けそうだった。
だが今日は違う。呼ばれた――その事実だけで、心がほどけていく。
重い扉が開く。
寝所の灯りが、獣紋の織物をやわらかく浮かび上がらせた。
中に立っていたアルシオンの青い瞳が、まっすぐに彼女を捉える。
「アルシオン……」
呼びかける声は、わずかに震えた。
アルシオンは一歩近づき、いつもの調子で言う。
「来たか、サフィア」
穏やかで、淡々とした声音。
けれどサフィアには、それで十分だった。
「うん。……呼ばれたから」
少し照れたように笑い、言葉を足す。
「今日は、政務が長そうだったでしょう。
顔、少し疲れてる」
アルシオンは一瞬だけ目を伏せ、口元を緩めた。
「そう見えるか」
「見えるよ。昔から、無理するとすぐ分かるもの」
そう言って、サフィアは自然な仕草で距離を詰めた。
「……ねえ、ちゃんと食事は?」
「昼は取った」
「“昼は”ね」
軽い咎め口調に、サフィア自身も少し安心する。
――いつものやり取り。いつもの距離。
「アルシオン。……会いたかった」
そう言って、彼の胸に抱きついた。
琥珀の瞳を隠すように、額を肩に押しつける。
アルシオンは一拍遅れて、その身体を受け止める。
背に回された腕は、確かに温かい。
「……急に甘えるな」
低く言いながらも、その腕は離れなかった。
「いいでしょう。恋人なんだから」
少しだけ、冗談めかして言う。
胸の奥で疼く不安を、言葉の軽さで包み込むように。
……やっぱり、アルシオンにとっても、私が一番よね。
そう思わなければ、壊れてしまいそうだった。
アルシオンはサフィアの髪に触れ、短く息を吐く。
「今日は……少し、話そう」
その一言に、サフィアの胸が小さく跳ねた。
「うん。何の話?」
「……たわいない話でいい」
その言葉に、サフィアは小さく笑った。
「うん。じゃあ……今日のこと、聞いて」
何を話したのかは、どうでもよかった。
こうして同じ灯の下にいられること――
それだけで、今夜は十分だった。




