第2話 後宮
数日の旅路を経て、アウレナ王国の王都が視界に広がった。
黄金色の城壁が陽光を反射し、角笛の音が胸に響く。
門を抜けると、はためく敷物と甘い香りが迎え入れた。
案内された後宮は、金糸の天幕がきらめき、曲がりくねった回廊は、迷路のように続いていた。
庭の花々は咲き誇り、侍女たちの衣も華やかだ。
さすがは大国。
そんな空気に圧倒されていた。
――そのとき。
「まぁ……妃候補のお姫様ですって」
声の主は、紅の衣に金糸を散らし、宝石を幾重にも身につけた女だった。
レイラの動きはゆるやかで、豪奢な裾を引きずるたび、飾りがきらめく。
「遠路はるばるご苦労さま。あら、その服、地方の仕立て?」
「……!」
一瞬、体が固まった。
今のは嫌味だとわかるが、
どうしよう。
言葉が、見つからない。
セレナが言葉を失ったのを見て、レイラはゆるやかに顎を傾けた。
紅の唇がさらに深い笑みに歪む。
……駄目だ。
息を吸う。
セレナは深く一礼する。
「初めまして。ルナワ公国第一王女、セレナと申します。遠く離れた小国から参りましたので、どうか色々と教えていただければ嬉しく思います」
卑屈さを欠いた声音に、レイラは一瞬まばたきし、
「ええ、もちろん」とだけ返した。
セレナは微笑みながら、レイラを見つめる。
何も言われない?
……よかった。
張り詰めていた肩の力が、わずかに抜けたところで、女官たちが再び一礼する。
「では、姫様のお部屋へご案内いたします」
◆
回廊をいくつも抜け、香の漂う扉の前で立ち止まった。
侍女が一歩前に進み、金の取っ手に手をかける。
「こちらが本日より姫様の居室にございます」
帳の奥には、絹の天蓋を垂らした寝台と、黒檀の書見台。
敷き詰められた絨毯は足音を吸い、香炉からは白い煙が立ちのぼっている。
その手前に、一人の長身の男が立っていた。
黒髪を後ろで束ね、切れ長の灰色の瞳。
深藍の衣に銀の帯を締め、品の漂う佇まい。
だが、その眼差しの奥には、わずかに疲れの影が滲んでいた。
男は静かに一礼した。
「ようこそお越しくださいました。ラシードと申します。アウレナ王国の宰相にございます」
低く響く声が石壁に反射し、部屋の空気をさらに張り詰める。
宰相自らが姿を現す――その事実に、この縁談の重さを感じた。
侍女たちは一層姿勢を正し、セレナの背後で息を潜めた。
「ルナワ公国第一王女、セレナです。よろしくお願い致します」
……お疲れ気味ね。
休めてるのかしら。
ラシードは軽く頷き、口元に淡い笑みを刻む。
「お疲れのところ恐縮ですが――殿下がお待ちです」
その言葉が落ちると同時に、帳の奥から衣擦れの音がした。
寝台の背後、香炉の白煙が溜まる内室へと続く薄紗。
王族が近臣のみを通す控えの間が、静かに揺れ、革靴が絨毯を踏み、重くも確かな足取りが近づいてくる。
香の煙が割れるようにして、ひときわ高い気配が現れた。
長身の男。
鋭く澄んだ青の瞳――王太子アルシオン。
短い黒髪が、陽を受けて静かに艶めく。
凛とした面差しに影を落とす。
軍装に包まれた肩と胸は力強く、立ち姿には、人を惹きつける気品が漂っていた。
この人が……。
「ルナワ公国第一王女、セレナにございます。お目にかかれて光栄です、アルシオン殿下……」
膝を折ったまま、指先に細かな震えが走る。
「顔を上げよ」
ゆっくりと顔を上げると、蒼い瞳が真正面から射抜いた。
だがすぐに、その険が取れ、口元に穏やかな笑みが浮かぶ。
「遠路ご苦労だった、姫君。ようこそアウレナへ」
低く落ち着いた声が胸を震わせ、一瞬で息を奪われた。
この人の花嫁候補だなんて……!
気づけば、瞬きを忘れていた。
アルシオンはふと視線を宰相へ移し、短く告げる。
「――案内を頼む。次に行くところがある」
にこやかな笑みのまま言い残し、足音だけを残して去っていった。
え……もう、行ってしまうの?
セレナは名残惜しそうに、その背中を目で追った。
◆
訓練場。
乾いた土の匂い、木剣がぶつかる鈍い音。
朝から続く鍛錬の気配。
王宮に入ってからも、武官としての鍛錬を欠かしたことはない――それが、アルシオン殿下の護衛である、私の務めだから。
額の汗を拭った、そのとき。
「待たせたな、サフィア」
背後から聞き慣れた声が落ちてきて、
自然と笑みが浮かぶ。
「殿下こそ、お忙しい中ありがとうございます」
アルシオンは一歩近づき、サフィアだけに向ける視線を落とす。
その瞳は戦場のものではなく、柔らかさを帯びていた。
「……お前の顔を見ると、やっぱり落ち着くな」
わずかに口角を上げ、指先でサフィアの頬の汗を拭う。
「今日はもう稽古をやめて、俺のそばで休め。お前が無事でいるほうが、何より俺の力になる」
「じゃあ……ずっと傍にいれば、殿下はもっと強くなれますね」
「間違いない」
そのやり取りは、王宮の空気を甘く熱くするほどの親密さであった。
ふと、訓練場の入口に、新しい影が立っているのに気づく。
異国の衣をまとい、まだ緊張を隠せない面差しの少女。
案内役の侍女に導かれていることからも――新しく迎えられた“妃候補”なのだと分かる。
妃候補なんて、珍しくもない。
サフィアは胸の奥で軽く吐き捨てるように思い、すぐに意識をアルシオンへ戻した。
――なのに、ほんの一瞬だけ瞼の裏に、彼女の大きな瞳が焼き付く。
……なんでだろう。
視線は自然に訓練場へと向き直った。
◆
今のは一体……。
その場に釘づけられたように、足が動かない。
息の仕方を、一瞬忘れる。
女武官の凛とした姿、殿下との近さ――焼きついた光景が、まぶたの裏で硬直させる。
すぐ脇の回廊に、たむろしていた数人の妃候補がいた。
苛立ちを隠そうともせず、毒を含んだ声を投げ合う。
「またあの女が殿下と二人きり……」
「剣しか振れないくせに、武官のくせに……」
「妃候補の前で堂々と見せつけるなんて、品がないわ」
どういうこと……?
動揺を隠せない声で侍女に問いかける。
「今の……訓練場の女性は?」
リサは一瞬、言葉を飲み込むように唇を閉ざした。
それから、周囲を気にして声を落とす。
「サフィア様です。山間地方の豪族の末娘。殿下直属の武官にして……アルシオン殿下のご寵愛を受けておられる方でございます」
「……え?」目を見開く。
「武官なのに?」
リサは視線を伏せ、さらに声を落とす。
「はい。武官でありながら、アルシオン殿下のお心に最も近い存在――と、後宮ではもっぱらの噂で」
回廊の向こう、二人の影はすでに見えない。
しかし先ほどまで、殿下が向けていた親しげな表情だけが、脳裏に焼き付いて離れなかった。
それに――
正妃候補に挨拶したその足で、
恋人のところに行くなんて!
あっけにとられ、胸の奥で小さな波が立つ。
リサはそんなセレナの横顔を一瞬見やり、そっと口を閉ざす――が、やがて低く告げた。
「……だからこそ、他の候補の方々は、ご自分から動かれることはほとんどございません。
それが叶わぬと分かれば……日々は自然と静かなものになります」
「……そう」
そっと視線を足元へ落とす。
王子様だし、よくある話よね、きっと。
必死で自分に言い聞かせても、寂しさが残る。
笑ったつもりなのに、頬に浮かんだのは戸惑いの影ばかりだった。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
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