【番外編】後宮監のひととき
後宮監――それは、後宮における秩序の要である。
華やかな帳の裏で、静かに全てを整え、流れを止めぬ者。
王妃に仕えながらも、その権限の源は王家にある。
誰の味方でもなく、秩序の味方。
――それが、ナヴァリス・フェンディの信条であった。
回廊の片隅で、女官と侍女たちが小さく輪を作っていた。
「未婚なのよね」
「そうらしいわ。三十五でしょう?」
「なんでかしら」
「若い頃は武官だったらしいわよ」
「うそー、剣とか持ってたの?」
くすくすと笑いがこぼれる。
「でも笑わないわよね」
「奥方がいらしたら気の毒だわ」
「それはそれで、優しかったら素敵かもしれないわよ?」
「ええー、想像つかない」
悪意はない。
遠い存在を、少しだけ人として思い描く、他愛のない噂。
そのとき。
石床を打つ、一定の足音が近づく。
一瞬で空気が張りつめる。
「……おはようございます、後宮監様」
ナヴァリスは歩みを緩めない。
「おはようございます」
それだけを告げ、静かに通り過ぎる。
表情は変わらない。
足取りも、変わらない。
背後で、控えめな吐息がこぼれる。
「……聞かれてた?」
「きっと」
「怒られないわよね」
「怒るような方じゃないわ」
ささやきは、再び小さく戻る。
ナヴァリスは振り返らない。
ただ、回廊の角へと歩を進めた。
廊下の角で、ラシードが待っていた。
「人気者ですね」
「何の話です」
「武官だったとか。……それに、未婚だとか」
ナヴァリスは足を止める。
「後宮は暇なのですね」
「三十五でしたね。世間では“立派な男前が結婚もせず”と囁かれる頃合いです」
ナヴァリスはわずかに息を吐いた。
「縁談の話は、これまで幾つかありましたが――すべてお断りしました」
ラシードは目を細める。
「なぜ?」
「後宮監に妻を持たせれば、出自で噂が立ちます」
「中立を守るために?」
「守るべきは中立ではありません。秩序です」
短い沈黙が落ちる。
ラシードは、低く笑った。
「……そこまで考えているとは」
ナヴァリスは答えない。
「だから私が言わなければ、休みも取らないわけだ。なるほど、なるほど」
「あなたが休めと言うから、廊下を歩いているのです」
「ははっ、それは失礼を。せっかくの休暇に水を差しましたな」
ラシードは一礼し、踵を返す。
「どうぞ、秩序の守り手殿。今日は何も整えずにお過ごしください」
足音が遠ざかる。
ナヴァリスはしばしその場に立ち尽くし、やがて静かに歩き出した。
◆
回廊を抜け、庭へ出る。
昼の陽は高く、石灰岩の床を白く照らしていた。
乾いた土に灌木が並び、中央の浅い水路を細く水が流れている。
石を撫でる水音と、硬い葉の擦れる音だけが、庭にあった。
――静かだ。
ナヴァリスは水路の縁に目を落とす。
水を受ける角石のひとつが、半寸ほど外れている。
気づかなければ、それで済む程度のずれだ。
だが、一度視界に入れば消えない。
「……誰が動かした」
石の前に屈み、指先で触れ、ゆっくりと押す。
――だが、動かない。
力を込める。
石はわずかに軋んだだけで、びくともしなかった。
「……重いな」
土が締まり、下で噛んでいるらしい。
ナヴァリスは手を離す。
整えようとすれば、
土を掘り、根を切り、周囲を崩さねばならない。
そこまでして、今日直すべきことか。
水は流れている。
大きな歪みはない。
――問題ない。
彼は立ち上がる。
石はそのままに、
庭の中央を、ゆっくりと歩き出した。
◆
回廊の影に、ひとつの気配があった。
白い柱の陰に立ち、
庭を見下ろしている。
セレナだった。
ナヴァリスの動きを、黙って見ている。
ナヴァリスはそのまま庭を横切り、
回廊の奥へと姿を消した。
石は、ずれたまま。
水は変わらず、細く流れている。
「……そっか、うん」
セレナは柱から身を離し、
静かに、その場を去った。




