第15話 繋
昼下がりの庭園に、金糸を織り込んだ天幕が張られていた。
まだ宴の余韻が後宮に漂う中、今日は妃候補たちが顔をそろえての茶会だった。
卓上には果実と蜂蜜を添えた菓子が並び、香草を煮出した温い飲み物が湯気を立てていた。
この習わしは王妃ザリーナが他国から取り入れたもので、もとは神前の香祀を由来とするという。
「この前の宴、やはり評判になっておりますわ」
口火を切ったのは、赤絹の衣を纏ったアナヒータだった。
「アルシオン殿下が、あのように公衆の前で妃席にお呼びになるなど……各国の使節も目を丸くしておりました」
「ええ、わたくしの父も書状で知らせてまいりました」
続けたのは、金の腕輪を揺らすレイラ。
「“アウレナは情を盾にするのか”と、隣国の王たちは訝しんでいるそうですわ。……考えるだけで、気が重くなります」
アシェラが扇を口元に当て、楽しげに笑った。
「でも外交なんて、どれだけ顔を繕っても、腹の底では駆け引きばかり。結局は言葉より、贈り物や婚姻で決まるものではなくて?」
「……そうかもしれませんが」
アナヒータは金の杯を掲げる。
「だからこそ、殿下の隣に立つ正妃は、外交の場で“国の顔”になるのです。言葉ひとつ、仕草ひとつが、国の印象を左右します」
セレナは湯気の立つ杯を手にしたまま、言葉を失っていた。
胸の奥にひやりとした感覚が広がる。
――外交。
その響きは、すっかり意識の外に追いやっていたものだった。
これまで、後宮の実務や侍女たちへの教えが、自分の務めだと思っていた。
けれど、それだけでは足りない。
広間の扉の外に広がる、より大きな世界の気配を、今さら突きつけられた気がした。
お父様も、宴の話を聞いたら……きっと怒るよね。
そもそも、今の私の立ち位置を、どう思うかな。
セレナは視線を卓の向こうへ向けた。
……あの子、こういう場は苦手そうね。大丈夫かしら。
杯の中で揺れる茶の色を見つめ、そっと唇を結ぶ。
ふと、先日の回廊での言葉が胸をよぎる。
リサは、ああ言ってくれたけれど……
庭園を抜ける秋の風に、枯れ葉が舞い、茶卓の上に一枚、静かに落ちた。
セレナはそれを指先で拾い上げ、胸元へとそっと引き寄せる。
……私が、ここにいる意味はあるのかな。
その問いだけが、胸の奥に静かに沈んでいった。
◆
朝の後宮はまだ人影もまばらだった。
侍女リサは化粧道具を整えるため、机上の木箱を開いた。
白粉、香油、小瓶の香料――見慣れた並びの中に、小さな彩陶の壺がひとつ紛れていた。
「……昨日までは、なかったはず……」
訝しみながら蓋を外した瞬間、甘苦い草の香りに、金属を舐めたような匂いが混じって鼻を刺す。
反射的に指先で確かめかけ――すぐに思い直し、即座に払い落とした。
胸の奥に浮かんだのは、草木座で最近教わった薬草の一節。
《粉末にすれば白粉に似るが、甘苦く、肌からも毒が回る》
血の気が引く。
慌てて手巾で指を拭い、振り返った先で、セレナがすでにその小壺へ視線を落としていた。
「その化粧品……どうかしたの?」
「……っ、セレナ様。それには、どうかお触れにならないで……!」
「……まさか、これは……毒?」
「セレナ様! どうか、お手を――!」
リサはとっさに壺を手巾で覆い、半身で主の前に立つ。
セレナは視線を伏せ、肩をわずかに落とした。
その横顔を見て、リサははっと顔を上げた。
「セレナ様……! そんなこと、絶対にございません!」
蒼ざめた顔で身を寄せ、必死に訴える。
「これは……誰かが、セレナ様を陥れようとしたのです!」
セレナは小さく首を振り、わずかに苦笑を浮かべる。
「……大丈夫よ。そんなに落ち込んでいないから」
自分に言い聞かせるような声音だった。
そしてふと、セレナはリサの指先に目を留める。
「それより……リサは大丈夫? さっき、粉に触れていたでしょう」
「は、はい……すぐに払いましたから……」
「……念のために、お医師に診てもらいましょう」
セレナは扇を胸に抱き直す。
「後宮監のもとへ行きましょう。確かめてもらえば、安心できるわ」
リサははっと目を見開き、すぐに深くうなずいた。
「……はい、セレナ様。すぐに」
◆
セレナとリサが足を踏み入れると、卓に座したナヴァリス・エフェンディが顔を上げた。
「……姫様に、侍女殿。朝早くにお越しとは――さて、どのようなご用向きでしょう」
セレナは胸に抱いた扇をきゅっと握り、彩陶の壺を卓上にそっと置いた。
「……後宮の化粧道具の中に、これが紛れていました。
白粉に似ておりますが、侍女が確かめたところ、異様な匂いが――毒の疑いがございます」
ナヴァリスの動きが、一瞬止まる。
「……なるほど。毒などという言葉、軽々しく口にするものではありませんが……
姫様のお手から出された以上、看過はいたしかねますな」
彼は手を伸ばしかけ、しかし触れることなく、視線だけで壺を量る。
「姫様ご自身で、お使いには?」
「いいえ。開けただけです。
幸い、侍女が草木座で学んだ知識で気づいてくれました」
ナヴァリスはしばし黙り込み、扇の端を撫でるセレナの仕草を観察してから、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました。この件、ただちに調べさせましょう。
配下の管理が及ばず、誠に申し訳なく存じます」
ナヴァリスは机に置いた手を組み直す。
「ただし……姫様。
このような事は、軽々に広めぬ方がよろしい。
後宮は噂一つで火がつく場所――真実よりも先に、炎が回るのです」
リサが不安げにセレナを見る。
セレナは扇を胸に抱き直し、静かに頷く。
「……わかりました。ナヴァリス様のお言葉に従いましょう」
「ご理解いただけて何より。こちらで然るべく処理いたしますので、
姫様はどうぞご安心を」
セレナは視線をリサへ向けた。
「それより……リサのことを。
毒の粉に触れてしまったのです。医務室で診ていただけますか」
ナヴァリスは短く頷き、脇に控えていた小者を呼び寄せる。
「承知いたしました。侍女殿は医務室へ。――念には念を、ですな」
リサは深く頭を下げ、小さく礼を述べた。
再び筆が取られ、
執務室には、紙をなぞる音だけが静かに響いていた。
◆
セレナは一礼し、部屋を後にした。
長い廊下に出ると、吐息まじりに小さく呟く。
「まあ、あの人は仕事が早いから……何とかしてくれるでしょう」
……たぶん、ね。
セレナは扇を胸に抱いたまま、うつむき加減に歩いていた。
一体、誰なのかしら……
はっと足が止まる。
……もしかして――
扇を握る指先に、思わず力がこもった。
そのとき、教育座で学んでいる若い侍女が、柱の陰からおずおずと顔をのぞかせた。
怯えた瞳でセレナを見つめ、両手を胸の前で固く握りしめている。
「……姫様」
セレナが足を止める。
侍女の声はかすれていた。だが、震えながらも一歩を踏み出す。
「わ、私……見てしまったのです」
侍女は顔を伏せ、必死に言葉を繋いだ。
「姫様のお部屋で……お化粧箱を……
あの、サーヒ様のお付きの侍女が……いじっているのを……」
セレナの胸に、冷たい衝撃が走る。
やっぱり――……
扇を握る指先に力がこもる。
怯えに震える肩に、セレナはそっと手を置いた。
「……ありがとう。勇気を出して話してくれて。
あなたのことは、必ず守るから」
侍女の瞳が大きく揺れ、込み上げる涙がきらりと光る。
「ひ、姫様……」
堰を切ったように声が震え、侍女は深く頭を垂れた。
セレナは扇を握り直し、衣の裾を翻して歩き出す。
行き先は――再び後宮監の執務室。
静かな足取りのまま、しかし迷いなく。
◆
扉を開け放つや否や、机に向かっていたナヴァリスが顔を上げる。
「……後宮監。至急です」
息を整えぬまま、セレナは真っ直ぐに告げた。
「今、侍女のひとりから報告がありました。どうやら……私の化粧箱に触れていた者がいたようです。
その子の安全を、まず確保してください。
それと――サーヒ様付きの侍女の部屋を、今すぐ確保なさってください。
不審者が入り込んだ可能性がある、という名目で」
ナヴァリスは眉をひそめ、しばし瞳を細めてセレナを見つめた。
「……承知しました。理由づけも悪くはありませんな。
『不審者侵入の恐れ』――それなら表立った波風も立たぬ」
椅子から立ち上がり、執務机脇の鈴を鳴らす。
「すぐに兵を回し、侍女の保護と部屋の確保を行わせましょう。
証拠が残っていればよいが……さて、どう出ますか」
サーヒ付きの侍女の寝所はすでに封鎖され、兵と女官たちが慌ただしく出入りしていた。
敷物をめくり、衣装棚を開け放つ手が続き――
「……ありました!」
女官が差し出したのは、手のひらに収まる彩陶の小瓶だった。
淡い釉薬に異国風の模様。
蓋には細かな意匠が施され、底には見覚えのある印章が刻まれている。
ナヴァリスはそれを受け取り、黒い瞳を細めた。
「……倉の印だ。正式に後宮へ通された品ということになる」
単なる私物ではない。制度を通じて、正式に後宮へ納められた品だった。
「つまり、誰かが仕入れの段階でこれを通した……」
ナヴァリスは小瓶を掌で転がしながら、セレナへ視線を送る。
「……これは私の落ち度だな。
後宮に入る品はすべて、女官長の許可なくしては通らぬ決まり。
そこを突かれたか……」
セレナは静かに息を吐いた。
だが、すぐに顔を上げる。
「……後宮監。
女官長を問い詰める前に、帳簿の確認をなさった方がよろしいのでは?」
「……なるほど。
証拠を突きつける前に、仕入れと許可の記録を洗う、か」
セレナは扇を胸に抱いたまま、一歩進み出た。
「……私も同席してよろしいでしょうか。
この件の当事者ですから」
ナヴァリスは一瞬ためらうように視線を落とし、やがて小さく頷いた。
「……承知しました。
当事者であればこそ、帳簿を目にされる意義もありましょう。
ただし――くれぐれも、お静かに」
◆
記録蔵は厚い石壁に囲まれ、昼でも灯火が欠かせぬ薄暗さだった。
棚に並ぶ木簡と羊皮紙からは、墨と蝋の匂いが漂っている。
ナヴァリスは机に木板を束ねた出納記録を広げ、
刻まれた取引の列を指で追った。
「……ここが香料や薬草を取り扱う記録です」
セレナは息を潜め、隣から覗き込む。
机に並べられた木板の列は整然としていたが――
その中に、ひとつだけ目を引く刻みがあった。
「――ありました。三日前、『香料小瓶』一点。用途は『化粧具納入』。許可印は……」
ナヴァリスの声が低く沈む。
「……マリシェ女官長」
指先で刻まれた印の影をなぞり、ナヴァリスの表情がかすかに曇った。
セレナの胸に、言葉にならないざわめきが広がる。
机の脇には、同時期の出納をまとめた木板束がいくつも積まれていた。
ナヴァリスは束を順に見渡した。
それぞれの結び目には封泥が残り、
押し当てられた印章の凹みが刻まれている。
その印影は、どれも均一だった。
「妙なものだな。几帳面……いや、女官長の癖か」
ナヴァリスは眉を寄せたものの、すぐに意識を別の行へ滑らせる。
「……いや、今は追及すべきではありませんな。問題はこの香料小瓶だ」
木板に刻まれた「香料小瓶 一点」の文字を指で押さえ、眉間を寄せる。
「三日前に搬入。マリシェ女官長の許可印。――これが、件の毒壺と符合します」
ナヴァリスは木板束を閉じ、低く息を吐いた。
「……やはり、女官長を呼ばねばなりますまい」
低く抑えた声は、石壁に反響してひどく重たく響いた。
「搬入記録がある以上、彼女の承認なしには成り立ちません。説明を求めるのは、当然の流れでしょう」
ナヴァリスの視線がセレナへ向けられる。
「姫様。ここから先は、後宮の規律と権限に関わる場です。
女官長を呼び出すのは、後宮監である私の役目。
この先の対応も、私の責務として進めましょう」
ナヴァリスは例の木板を手にして、立ち上がる。
「どうか……この後の動きは、私にお任せを」
セレナは扇を胸に抱き、深く息を整えた。
「……わかりました。どうぞ、よろしくお願いいたします」
ナヴァリスは小さく頷く。
「承りました。姫様のお心、しかと受け止めました。……どうかご安心を」
◆
ナヴァリスの采配に委ねるしかない。
セレナはそう胸に刻み、回廊へ出た。
ぼんやり考えに沈んだ、そのとき――
「姫様!」
甲高く震える声が、石壁に響いた。
振り返ると、先ほどの侍女が顔を涙に濡らし、裾を握りしめて駆け寄ってくる。
「サーヒ様が……!
告発した侍女をあぶり出すために……い、今まさに鞭打ちを!」




