第29話 休日
29.休日
休日の朝は、音が少ない。
通りを走る車の気配も遠く、窓の外から聞こえるのは、風に揺れる洗濯物の擦れる音くらいだった。
恭介はキッチンで湯を沸かし、紅茶のティーパックを用意する。慣れた手つきだが、急ぐ様子はない。時間に追われない朝は、それだけで少し気持ちが軽くなる。
「今日は平和ですね……」
誰に向けた言葉でもなかった。それでも、声に出すことで現実を確かめる癖が、恭介にはあった。
今日は特事からの呼び出しも、連絡もない。こういう日があることを、彼は大切にしていた。
「一人の時間……か」
眼鏡をかけ直し、カップを手に取る。アールグレイの香りを楽しむ。
頭の中を整理するには、静かな時間が必要だ。常に誰かを守る立場にいるからこそ、何も起きない日常が、どれほど貴重かを恭介は知っている。
ふと、本屋に行こうと思った。
最近、新しい本を買っていない。読むことは好きだが、忙しさにかまけて、いつの間にか同じ本ばかりを読み返していた。
外に出ると、街は休日らしい顔をしていた。家族連れや、恋人同士。それぞれの生活が、重なり合いながら流れている。その中にいても、孤独だと感じることは無い。恭介は一人の時間も愛おしいと感じるからだ。
大型書店に入ると、独特の匂いが鼻をくすぐった。紙とインク、少しだけ埃を含んだ空気。恭介はこの匂いが好きだった。並んでいる本を眺めているだけで幸せを感じることができる。
恭介はまず、ビジネス書の棚へ向かう。効率、成果、成功。並ぶ言葉はどれも強い。だが、それらを必要とする人の不安も分かる。次に自己啓発。前向きな言葉の裏にある焦りや恐怖。ここにも、穢れは溜まりやすい。
そして、ミステリー。謎があり、真実があり、最後には必ず「答え」がある世界。恭介は、この構造に救われる人が多いことを知っている。恭介も最後に意外性をみせてくれる、このジャンルが好きだった。
最後に、時代小説の棚。
「……やはり、落ち着きますね」
静かな覚悟、無言の選択。言葉は少なくとも、背負っているものが重い人物たち。彼らの生き方は、現代にも通じる。古き時代を生きた者たちの物語。それを懐かしいと思う気持ちもある。
店内を一通り周り終えた時だった。人の流れの中に、わずかな違和感が混じった。空気が、ほんの少し重い。恭介は視線を上げる。
一人の男性が、本棚の前で立ち尽くしていた。
背中は丸く、肩が落ちている。履いているスニーカーの踵が潰れていた。片手で棚を支えるようにして、動けずにいる。年齢は四十代前半。スーツは着ていないが、仕事帰りのような疲労が滲んでいた。
——穢れだ。濃くはない。だが、絡みつくように重い。
失敗への恐怖。責任の重圧。誰にも弱音を吐けない孤独。彼から漏れる穢れから、そういった感情を恭介は感じ取った。それらが、静かに沈殿している。
そして、その先にある悲壮な決意も——
助ける必要があると判断した。見てしまった以上、通り過ぎることもできない。
男性の手には、一冊のミステリー小説があった。恭介も好きな作家の作品だ。新作として世に出てから、もう一年程は経っているだろうか。
恭介は、そっと隣の棚に立った。声をかける前に、距離を測る。近すぎても、遠すぎてもいけない。穢れを刺激しないように。否定しない、ただ同じ空間にいる。
恭介は時代小説を一冊抜き取り、しばらくページをめくるふりをした。そして、少し間を取り口を開く。
「……それ、面白いですよ」
男性は驚いたように肩を揺らした。
「え……あ、そうなんだ」
「はい。伏線の張り方が丁寧で、最後まで裏切りません」
それは、本心だった。恭介は、無理に話を広げない。男性は、少し視線を落としながら言った。
「……最近、集中できなくて。途中で読むの、やめちゃうんだ」
「えぇ、そういう時、ありますね」
「これも……最後まで読めるか……」
その言葉に、穢れがわずかに濃くなる。恭介は気づいたが、表情には出さない。
「それでも手に取っている。それだけで十分だと思います」
恭介は微笑むでもなく、否定もしない。だた事実を伝える。
「……そう、かな」
「必ず最後の結末まで確かめてください」
恭介の言葉には気持ちがこもっていた。男性は、はっとして顔をあげる。
「物語は逃げ場所じゃありません。楽しむ場所ですから」
恭介は言葉に穢力を乗せて飛ばす。胸の奥が、わずかに冷えた。だが、それ以上の違和感は残らない。
そして、その瞬間に穢れがほどけた。ゆっくりほどけて消えていく。
男性は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「……なんだか、少し元気が出たよ」
「それなら……よかったです」
それ以上、恭介は踏み込まなかった。男性に背を向け、会計に向かう。
「……ありがとう」
背後から声がした。
「こちらこそ。本好きの方と話せて良かったです」
振り返ると、男性は少しだけ背筋を伸ばして立っていた。手には、先ほどのミステリーと、恭介が手にしていた時代小説。
「良い読書を」
それだけ言って、恭介は店を出た。夕方の光が、街を柔らかく包んでいる。特別なことはしていない。名前も知らない。
「今日は……やはり平和ですね」
本の入った袋を持ち、恭介は歩き出す。誰にも気づかれない休日。だが、名も知らぬ人の心を少しだけ軽くした。
それで十分だと、恭介は思うことにした。




