第27話 キミのことが好きなわたしが好き
27.キミのことが好きなわたしが好き
霧ヶ峰桜は、自分のことが嫌いだった——
理由を言葉にするのは、昔から得意じゃない。ただ、感情を外に出すたびに、何かが壊れてしまう気がしていた。
笑うのも、怒るのも、泣くのも、全部が怖かった。だから、何も感じていないふりをしていた。いや……実際に何も感じてなかったのかもしれない。
しかし、雪村と出会ってから変わった。二人の始まりは、普通とは言えないものだった。彼は桜の目の前に降ってきた。比喩ではなく、言葉通りの意味で。そのことが桜の感情を揺さぶった。彼との出会いは、桜の中で静かに残った。
ある日突然、世界が輝き出したわけでもない。ただ、気づけば呼吸が楽になっていて、気づけば笑っている時間が増えていた。
感情に色がついた、という表現は少し恥ずかしい。それでも、以前より世界がはっきり見えるようになったのは確かだった。
彼は、誰にでも優しい。声のかけ方も、距離の取り方も、自然で軽い。無理をしている様子はなく、当たり前のようにそうしている。気づけば人が集まっていて、気づけば好意を向けられている。
……ずるいと思う。
モテるからずるい、という単純な話じゃない。その優しさが、特別なものじゃないところが、ずるい。わたしの気持ちを彼は知っている。きちんと言葉にしたことはないけれど、それでも、分かっていないはずがない……
それなのに、態度は変わらない。誰に対しても同じように接して、同じように笑う。だから、ずるい。
でも、わたしは知っている。ほんの僅かな違いだが、二人きりのときだけ少し違う。
歩く速度が、いつもよりわずかに遅くなる。人混みでは、無言のまま立ち位置が変わる。疲れている日は、何も言わずに飲み物が差し出される。
全部、言葉にしない。説明もしない。確認もしない。それが、ずるい。
ある日、二人での帰り道。夕暮れが街を柔らかく染めていた。信号待ちの間、わたしは彼の後ろに立っていた。人の流れを避けるために、ほんの一歩だけ。
——信号が変わった。なんとなく足が動かない。まるで何かを試しているみたい。
青に変わった信号。彼は数歩進む。わたしはまだ動けない。
ふいに彼は振り返った……しかし、何かを言うことはなかった。
ただ、当然のように手が伸びてくる。拒む理由はなかった。理由を考える前に、指先が触れて絡んでいた。迷いもためらいもない動き。まるで、そうするのが決まっていたみたい……
そして——そのまま歩き出しても、手は離れなかった。道が曲がっても、会話が途切れても、結局、最後まで繋がれたままだった——離したくなかった。
昔のわたしは、あまり笑わない子供だった。感情を表に出さないことで、何かを守っているつもりだった。
今は違う。よく笑うし、よく悩む。ヤキモチも焼くし、寂しくもなる。忙しいくらいに、心が動く。
でも——それが嫌じゃない。これは彼がくれた感情だから、人間らしくて、悪くないと思える。
キミは、知らないでしょうね。優しくて、ずるいキミは。
どれほどわたしが、この感情に振り回されているかを。どれほど、この胸の奥が騒がしいかを。わたしからは教えてあげない。それくらいのイジワルは許してほしい。
わたしは、自分のことが嫌いだった。
けど今は——キミのことが好きなわたしが好きだから、この気持ちに素直になろうと思った。そして、いつか——
机の上にある小箱を開ける。中で光るのは、小さな指輪。ピンクゴールドのシンプルなデザイン。主張しすぎないその輪郭を、指でなぞった。
——確かめるように何度も。離れないことを。選んだことを。そして、今の自分の気持ちを問いかけるように。
指輪は、何も答えない……形があるからといって、心まで保障されるわけじゃない。
それでも、桜は息を吐いて——小さく微笑んだ。




