第23話 ゆずれない想い
23.ゆずれない想い
放課後のチャイムが鳴った瞬間、雪村くんが立ち上がった。
「大祐、桜……俺たちは先に行くぞ」それだけ言って、教室を出る。
いつもと変わらない口調なのに、なぜか空気が一段、静かになった。僕は桜さんと顔を見合わせる。恭介くんは、まだ席に座ったままだった。
「……恭介くん?」
声をかけると、彼は眼鏡の奥で、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
「……大丈夫ですよ、先にどうぞ」
それ以上は言わない。桜さんも、理由を聞こうとはしなかった。
「……時間、あまりないわ」
小さな声だったけれど、焦っているのが伝わる。何かを急いでいるというより、遅れてはいけない、そんな感覚。
廊下に出ると、雪村くんは壁にもたれて待っていた。腕を組み、天井を見上げている。先に出たのに、なぜここで待っているのか分からない。そして、いつものように説明も足りないが、僕は待つしかない。
ほどなくして恭介くんも出てきた。
「準備は?」雪村くんが問いかける。
「……」
恭介くんの返事はない。しかし、しっかりと頷いた。それだけで、雪村くんは満足したように口角を上げた。
「よし。じゃあ行くか」
階段へ向かう途中、桜さんが、恭介くんの袖を軽く引いた。
「必要な時だけの約束……忘れないでね。その力は……本当に必要な時だけにして——」
「……」恭介くんは、もう一度返事の代わりに頷いた。
二人のやり取りの意味は、僕には分からなかった。けれど、桜さんの声色はいつもより少しだけ重い。
屋上へ続く最後の階段。鉄の扉の前で、雪村くんが足を止める。そして振り返らずに言った。
「百合は一人で動くぞ……それがあいつの強さであり……弱さだ」
返事はなかった。けれど、誰も異を唱えなかった。恭介くんは、ただ一度だけ、静かに頷いた。
「大祐。空気の流れに注意しとけよ」
「空気の流れ?どういうこと?」
「お前なら感じ取れるさ……」
「えっ!」
次の瞬間、扉が開く。風が吹き込み、空が広がり——百合さんのいる屋上へと繋がっていた。
——屋上での話が終わった後、僕たちは特事の事務所に移動していた。しかし、いまだに屋上の会話の意味を、僕だけは理解していなかった。
特事の事務所は、昼間に来たときよりも静かだった。照明は落とされ、部屋の奥にあるモニターだけが淡く光っている。空調の音と、キーボードを叩く微かな音だけが響いていた。
「……ここだ」
雪村くんが短く言う。モニターには、見覚えのある雑居ビルの内部が映し出されていた。画角は高め。天井の隅から俯瞰するような映像だ。
「監視カメラ……?」
「正確には、仕込んでもらったカメラだ」
「仕込んでもらった……?」
それ以上は説明しなかった。裏で動いている誰かがいる——その存在を、僕はもう疑っていない。画面の中で、バーの扉が開いた。
「百合さん……本当に来たのね……」
桜さんが、思わず息を呑む。間違いなく百合さんだった。迷いのない足取りで、店内に入っていく。画面越しに見える内装、薄暗い照明。そして、画面越しでも分かるほど、穢れが澱んでいた。
「……穢れ、濃くなってる」
桜さんが小さく言った。同じものを感じていたらしい。胸の奥が、じわじわと締め付けられる感覚。
百合さんは、まっすぐ奥へ進む。その視線の先——
「……ひなのさん……!」
いた——
カウンター席。彼氏の隣で、ひなのさんは笑っていた。——いや、笑っているように見えた。やけに一つ一つの動きが大きい。
「……もう、飲んでるな」雪村くんの声が低くなる。
テーブルの上。空になった小さな袋。見覚えのある錠剤の色。
——A.V。
百合さんが、ひなのさんの前に立つ。何かを言っている。声は届かないが、口の動きは必死だ。ひなのさんは一瞬、きょとんとした顔をして——それから、今度は間違いなく、楽しそうに笑った。
「……駄目だ……百合さん」僕の喉から、思わず声が漏れる。
ひなのさんは立ち上がり、百合さんの肩に手を置いた。距離が近い。近すぎる。百合さんが、首を振る。強く、はっきりと。
それでも——ひなのさんは、笑ったままだ。
画面の隅で、男たちが動く。一人が電話を取る。別の男が、奥のドアを開ける。
「……取引だ」
恭介くんが、初めて口を開いた。その声は冷静だったけれど、どこか張り詰めている。百合さんは、ひなのさんの手を引いた。今度は、力を込めて。
ひなのさんが、少しだけ顔を歪める。笑顔が崩れる。
——ごめん、百合。大丈夫だから……
画面越しなのに、その言葉がはっきり聞こえた気がした。百合さんの手が、一瞬止まる。でも、離さない。離せない。
「……百合さん……」
桜さんが、祈るように呟いた。この先、どうなるのか。僕たちは、ただ見ていることしかできない。助けに行けない。踏み込めない。
その時、ヒールの音を響かせて、綾瀬川さんが事務所に入ってきた。雪村くんが呼んだのだろうか。
「ごめんなさい、遅れたわ」
「はるか、おせーよ」
「……官邸に呼ばれていたのよ……」
官邸……その一言で、この場所が現実だと、改めて思い知らされた。——それより百合さんだ。雪村くんはどう判断するのだろう。このままでは……
「はるか……俺たちは出るぞ」
「えっ!」思わず僕は声を出してしまった。
二人は特に反応をせず、話を進める。はずかしい。邪魔にならないようにしようと心に誓った。
「……わかったわ。車を準備する」
「すぐ出るからな、よろしく」
局内が慌ただしくなってきた。思ったより人数がいたようだ。僕は何をしていいのか分からず、邪魔にならないよう立っているしかない。焦る気持ちもあり、早くここから出たいと思った。
「事態はすぐに動く。フォロー頼むわ」
「えぇ、分かってるわ。後の処理も任せて」
「さすが、俺のはるかだな」
「……桜さんに怒られるわよ」
雪村くんは軽口を叩きながら、事務所を出ていく。僕たちも遅れないよう、後を追う。こんな時でも雪村くんは変わらない。それがとても頼もしく思えた。
——その数分後、僕らは車の中にいた。
「雪村くん、どうするの?何か考えはあるの?」
「何が?」
「何がって……手を出さないって約束したじゃない」
「そうだな、約束は守る」
「……なら……」
「ちゃんと選ばせてやるさ……百合にも」
これ以上説明する気はないようで、雪村くんは腕を組んで目を瞑っている。他の二人も口を開かない。それぞれが自分の想いにふけっている。僕も同じように自分の気持ちを整理しようとした。けど、僕の気持ちは一つだけだ。
——治す。どんな傷でも。それが、百合さんの正しさを壊すことになっても。
……少しの時間だけ、百合さんのことを思う。きっと百合さんも、こんな気持ちだったのだ。自分の気持ちの押し付けかもしれない、しかし、ゆずれない想いがある。
自分のするべき事をはっきりさせて落ち着いた。もうすぐあのビルが見えてくる。
——見えた。しかし——
「雪村くん!」
「あぁ、見えてるぜ」
バーの扉から、穢れが溢れていた。最悪の状況が想像出来る。あの中にいて百合さんは無事なのか。
「雪村さん、これでも約束を——」
「恭介、ビル全体を封界してくれ」
「!」
ずっと曇っていた桜さんの顔が、パッと明るくなる。そうだ、このままでいいわけがない。何かを失ってでも護りたいものがある。
「桜、出ていいぜ。怒ってるんだろ?」
「えぇ、もちろんよ!」
雪村くんは桜さんの頭を撫でて、優しく「やりすぎんなよ」と言った。少し桜さんの昂りも収まったようだ。
「恭介は封界したら維持だ。大祐は——俺と来い」
皆に指示を出した時、車が停止した。降りてすぐに扉へ向かう。
「さぁ、迎えにきたぜ——いくぞ」
「はい」
みんなの声に、僕の声も重なった。今はもう一人じゃない——




