第12話 涙がまだ悲しみだった頃
12.涙がまだ悲しみだった頃
僕の覚悟は決まった。
だけど、胸の奥が、かすかに震えている。怖くないわけじゃない。むしろ、はっきりと怖い。さっきまで目の前で起きていた出来事が、まだ受け止めきれていない部分もある。
燃える右腕。祓われていく穢れ。そして、何事もなかったかのように戻ってきた雨音。
理解してしまった。ここまで僕を苦しめてきたものが、何だったのかを。もう、知らなかった頃の自分には戻れない。
僕らは、倒れている男から少し距離を取り、路地の端に立っていた。誰も急かさない。誰も、僕に言葉を求めない。
それが、かえって重かった。
「……さて」
沈黙を破ったのは、雪村くんだった。いつもの調子。けれど、どこか違う。
「大祐。次はお前の番だろ」
逃げ場はない。でも、逃げたいとも思わなかった。
喉が鳴る。唾を飲み込んでも、言葉はすぐに出てこない。
視線を落とすと、雨に濡れた地面が揺れて見える。その先で、さっきまで暴れていた男が倒れている。顔は傷だらけで、額と口から血を流していた。
僕は男に近づいた。——誰かに見せるつもりなんてなかった。
そして、手をかざす。その瞬間、手のひらがじんわりと熱を持つ。淡い光が、男の傷に滲むように広がっていった。
「……僕は」
思った以上に声が、震えた。誤魔化すように、深く息を吸う。
「僕は……人と、少しだけ……違う」
誰も口を挟まない。ただ、待ってくれている。
「……他人の怪我や病気を治すことができるんだ……」
もうすっかり男の傷は綺麗になっていた。血だけが残り、表情は穏やかになってる。
「すごい……こんな一瞬で」と霧ヶ峰さんが呟く。
僕はみんなの顔を見ることができなかった。
「昔からなんだ……気がついたら……できるようになってた」
言葉にするほど、過去が鮮明になる。
転んで膝を擦りむいた友達。血を流して泣いていた。痛そうで、見ていられなくて、ただ手を伸ばした。
次の日、その友達は僕を避けるようになった。
風邪で高熱を出した友達。苦しそうで、どうしていいか分らなくて、また手を伸ばした。
次の日、もう口をきいてもらえなかった。
「最初は……自分が特別だと思わなかった」
でも、何度も同じことを繰り返し、確信してしまった。
僕が普通じゃないこと。化け物だという人もいた。
——それは最初の記憶。
まだ幼かった頃に出会った、小さくて真っ白な犬。捨て犬だった。
車道に飛び出して、目の前で吹き飛ばされた命。
頭が真っ白になって、気付いたら泣きながら抱きしめていた。温もりが、どんどん失われていく。消えていくのが、どうしても耐えられなかった。
——死なないで。泣きながら、それだけを祈った。
その時、手のひらが熱を持った。そして、その小さな命は、息を吹き返した。
あとから、名前をつけた。——ローラ。助かったのは犬だけではなかった。
だが——
誰もが、死ぬ運命であると感じた子犬。そして、返り血で血だらけになりながら助けた少年。目撃した人たちの目は、恐怖と、嫌悪で満ちていた。噂はすぐに広まる。それが転校を繰り返すことになる理由となった。
「……それ以来」
声が、詰まる。
「誰にも言わなかった。言えなかった」
怖かった。能力そのものよりも、人の目が。そして自分が壊れていくのが。
「……治るんだ。触れれば……時間を巻き戻すみたいに」
そこまで言って、僕は次の言葉を紡ぐことが出来なくなった。口を開けば涙がこぼれそうだった。
沈黙。
檜山くんが、静かに頷いた。
「なるほど。治癒の力……ですね」まるで、天気の話でもするみたいな口調。
霧ヶ峰さんは、優しく微笑んでいた。
「……優しい力だね」その一言で、胸の奥が、きゅっと縮む。
雪村くんは、少しだけ考えるように視線を逸らし——それから僕を見た。
「それで?」
短い問い。でも、背中を押されている気がした。
「……怖いんだ……また、あの視線が——」
ついに涙がこぼれた。だけど……もう、それでいいと思った。
今までの悲しみや、後悔、寂しさや後ろ暗さ。それらを全てぶつけても、この人たちは揺るがない——そう思える。
誰も一人では生きていけない。そんな当たり前のことから逃げていた。だけど、もう自分自身を認めてあげたい。この呪いのような力を祝福に変えて、みんなと生きていきたい。
「それでも……」
僕は、顔を上げた。もう涙など好きなだけ流れればいい。それでも僕は伝えたい。
「それでも、僕は大切なものを、大切な人を——護りたいんだっ!」
震えはまだ消えない。でも逃げてはいない。
涙は止まらない。でも、涙がまだ悲しみだった頃には戻りたくない——
今流す涙は、悲しみを乗り越えて、また前に進むことができる僕の喜びの涙だ。
自分の気持ちに蓋をして、閉じこもっていた。けど、雪村くんたちに出逢い、気持ちを揺さぶられた。だから今、僕自身の意志で歩き出す時が来たんだ。
「僕が救えるのなら、見ているだけなのは……嫌なんだ」
言い終えた瞬間、胸がすっきりした。
でも——
雪村くんは、少し寂しそうに笑った。
「……お前は……やっぱ、お前なんだな」
言葉の意味は分らない。けど、こんな表情の雪村くんは初めてだった。なぜか雪村くんも泣きそうな顔にみえた。
励ましでも、同情でもない。ただ、何かを諦め、受け入れたという顔。
「俺からみたら、お前は治癒の力がある——ただの中学生だ」
雪村くんは、僕の前に立ち、右手を差し出した。
「それでも——俺について来ると決めたんだろ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが静かにほどけた。
流れる涙は止まらない。世界もすぐには変わらない。
だけど——雨はいつの間にか止んでいた。
世界は変化していく。僕もこの日を境に、元の場所には戻らない。




