第10話 雨音
10.雨音
……ほんの少しだけ雨が降っている。
それに気づけるほど、昨日に比べると落ち着いているのかもしれない。無意識に、雨が地面を濡らし、独特の匂いと雰囲気を肌で感じ取っていた。しかし状況は相変わらず最悪だ。
「お前たち、何なんだよっ!関係ないだろっ……」
男の声は震えていた。怒鳴っているのに、どこか必死で壊れかけている。
——ずっと見えている。
男の背後に、昨日よりも厚みを増した穢れ。まるで感情が何層にも重なって、人を歪ませているみたいだった。
雪村くんが、女子高生の前に立つ。
「よぅ、また会ったな」
「……またお前か」
男が、ぎょろりと雪村くんを睨む。その瞬間、穢れが一気に膨れ上がった。
「邪魔すんなよ……!奪われたんだ……俺のものを……!」
——奪われた。
その言葉が、穢れをさらに加速させる。
「……お前のものじゃねえよ」雪村くんは静かに言った。
「けどな、彼女は——俺がもらうわ」
雪村くんは、ニヤリと笑みを浮かべる。少年という言葉が似合わないほどの、歪んだ笑みで。霧ヶ峰さんの表情も少し怖い。
次の瞬間、男が無言で殴りかかってくる。煽られて完全に我を忘れている。
だが——速い。昨日よりも、確実に。
またしても雪村くんは半歩だけ退き、拳を流すようにかわした。その表情は見えないが昨日と同じく普段通りの様子で、この修羅場にもまるで動じていない。
そのまま連続で拳を振り上げてくるが、雪村くんにはかすりもしない。
「力が少し底上げされてるな」
雪村くんが、冷静に分析して呟く。怖いほど、いつもと変わらない。
彼は右手を少し上げ、指先に小さな炎を灯した。昨日も見た小さな炎。それだけで、空気の圧が変わる。
男が、一瞬たじろいだ。
「……なんだよ、それ……!」
雪村くんが炎を軽く投げつけた次の瞬間、男が放つ穢れが焼かれるように後退していく。祓われていく感覚はいったいどんなものなんだろう。
「やめろ……!俺は間違ってない……間違っていないんだあああ!!」
その叫びが、合図だった。
男の目が——濁った。瞳の奥で、焦点が合わなくなり、口元が歪む。
「……違う……違う違う……!」と、男は獣のように叫ぶ。
背中が不自然に反り、関節が軋む音がした。人の形は保っている。だが、立ち姿が人らしくない。首が傾き、笑っているのか、泣いているのか分からない表情。
「……やはり、堕落は避けられませんでしたか」檜山くんがつぶやいた。
(……これが、堕落……なのか)
男の体を、強烈な穢れの濁流が呑み込み、覆い隠す。叫び声が大きく、悲痛なものになる。見ているだけでおぞましく、そして吐き気がするほどの人間の悪意が形として現れた。
(怖い……)
僕はかつてないほどの恐怖を感じる。もうすぐ、この化け物と対峙することになることに。
それでも……逃げ出すことはできない——
やがて徐々に晴れていく穢れの中から、男が姿を現す。その姿を目の当たりにして、寒気を感じ足が震える。
明らかに正気じゃない。
理性が感情に押し潰され、嫉妬と執着に絡め取られて、自分で選ぶことをやめてしまった人。穢れに染まる、というよりも汚染されているようだ。
やがて、それは——叫ぶのをやめた。
肌の色は、顎のあたりまで穢れと同じ黒色に染まり、まるで龍の手に首を抑えられたタトゥーのようにみえる。瞳は金色に光り、その両目には狂気が宿っている。そして、異様な立ち姿でゆらゆらと全身が揺れていた。
女子高生が、恐怖で息を詰める。
その瞬間——
「雪村さん、穢場出すよ」
霧ヶ峰さんが、静かに言った。
「護って——穢場封界」
彼女が一歩踏み出す。足元から淡い光が、彼女を中心に一気に広がった。それはとても綺麗で、安心する光。地面から心地よい風が吹き、空気が浄化されるような感覚。
彼女は胸の前で手を合わせ、祈りを捧げるような姿勢になる。神聖なるその姿はまるで、巫女のようだ。
路地の壁、地面、空間そのものが、薄い膜に包まれていくのが見える。
外の音が、すっと遠ざかる。街のざわめきが遮断される。
(……いま、穢場の中にいる?こんなに……)
空気が冷たい。でも、それは恐怖じゃない。霧ヶ峰さんは、穏やかなまなざしで堕ちた男を見据える。
「ここから先は、外には影響しない」
その声は、静かで揺るぎがなかった。
「そして彼女にも、もう手は出せないよ。私が護っているから」
女子高生を見ると、地面に倒れていた。気を失っているようだ。限界を超えた恐怖だったのだろう。そして穢場と同じ光のドームで全身を覆われている。
その瞬間——揺れているだけだった男が動いた。いや、消えた。
何か金属同士がぶつかり合う様な音がしたと思ったら、男が女子高生に対して、かがみこむように手を伸ばしていた。
男の指はするどい針のように変形していて、女子高生をめがけて突き出されている。それを雪村くんが右足の先で止めていた。雪村くんは片足という不安定な状態でも、ピクリともしない。
「お前さー」溜息をつきながら雪村くんが言う。
「女の子に手を出す男はクズだって、前にも教えてやったよな?」
「ぐ、……ぎぎ、ぎぐ……」
「お前の相手は俺だ。よそ見すんじゃねぇよ」
にらみ合い、一瞬の間が空き、男が動き出す。攻撃の矛先が雪村くんに変わった。二人の動きは人間離れという言葉では足りないくらい速かった。目で追うのが精一杯だ。攻撃しているのは男の方で、雪村くんはポケットに手をつっこんだまま、いつもの表情でかわしている。
……ひとしきり暴れた後、男の動きが止まった。
「なんだ……もう終わりか?」息切れ一つせずに、雪村くんは言う。
男は上半身を揺らしながら、様子を見るように立ち止まっている。
「じゃあ……そろそろ終わりにしようか」
ふいに——雪村くんの雰囲気が変化した。空気がはりつめ、その場にいる全員の意識が引き寄せられる。迫力が増したというより、そこに在るものの格が変わった、そんな感覚だった。
右手だけを自由にし、警戒した様子もみせず、男へと歩み寄っていく。
「お前を、祓ってやるよ」その言葉が落ちた瞬間——
——右手が激しく燃え上がった。
炎は腕に絡みつくように揺らめき、形を変えながらメラメラと燃えている。雪村くんの表情と対照的に、激しく、荒々しい炎だった。僕は思わず一歩、後ずさる。
この静かな空間で、聞こえているのは雨音だけだった。




