第9話 Breaking the Habit
09.Breaking the Habit
最初に気付いたのは、檜山くんだった。
「煉から送られてきた場所は、この辺ですね」
淡々とした声色だが、どこか張り詰めたものが混じっていた。
あれからすぐに学校を飛び出して、僕たちは少し早足で目的地に向かっている。何処へ向かっているか分からない。でも檜山くんも、霧ヶ峰さんも、そして——雪村くんも間違いなく、同じ方向を目指している。
(……また、あの感覚だ)
胸の奥が、かすかにざわつく。昨日とよく似た感覚。
けれど、どこか違う。穢れの気配が、前よりもはっきりしている気がした。
ふいにみんな同時に足を止めた。
檜山くんは再びスマホを取り出して、画面を指でなぞるようにして確認している。
「方向は間違ってないようですね」
その言葉に雪村くんは返事をしなかった。ただ道の先をじっと見つめている。人通りは少なく、夕方の光がビルの隙間に沈みかけている。
その向こう側に、何かがある。
理由は分からないけど、そう確信できた。しばらくそうしていたと思ったら——
「こっちだ」とそれだけ告げると、再び動き出した。
僕たちは無言で、その背中を追う。
——また、同じような出来事が起ころうとしている。けれど、同じでは終わらない。
そんな予感だけが、はっきりと胸に残っていた。
雪村くんの背中を追いながら、僕は無意識に呼吸を整えていた。心臓の音が、少しだけ速い。走っているわけでもないのに。
通りを一本外れると、街の音が一段落ちる。車の走行音が遠のき、人の声もまばらになる。その代わりに、空気が重くなった。
(……やっぱり、ある)
視界の端に、薄く滲むような黒い靄が見え始める。昨日よりも、確実に分かりやすい。見ようとしなくても、勝手に目に入ってくる。
「真田くん」
霧ヶ峰さんが、小さな声で呼びかけてきた。
「……見えてる?」
一瞬、迷ったが、僕は小さく頷いた。
「うん。昨日より……濃い気がする」
「やっぱりね」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。けれど、その横顔はいつもより少しだけ硬い。
檜山くんが足を緩め、前方を指さす。
「この先です。煉の報告ではコンビニ裏の路地です」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひくりと反応した。
(……どんどん気配が濃くなる)
昨日と同じ構図。同じ時間帯。同じような場所。偶然とは思えなかった。
路地の入口が見えてくる。蛍光灯が一本、頼りなく点いている。
その下で——
人影が二つ、重なっていた。
「……っ」
声にならない息が、喉から漏れる。
昨日の女子高生が、壁際に追い詰められている。
「だから、もう無理だって言ってるでしょ……!」
「嘘つくなよ……!俺のこと、好きだって言ってたくせに……!」
男の声は低く、粘ついていた。怒鳴っているのに、どこか懇願するような響きが混じっている。
——見えてしまった。
男の背中から、昨日よりも分厚い黒い靄が立ち昇っている。そして僕はもうその正体を知っている。
穢れは男の輪郭に沿ってまとわりつき、時折、感情に引きずられるように脈打っていた。
(……穢れが――育ってる)
昨日の出来事が、何も終わらせていなかったことが、はっきりと分かる。
「……あいつ、昨日よりも歪んだな」
雪村くんが、低く言った。
その声には、苛立ちよりも、どこか諦めに近い感情が滲んでいた。
「大祐、分かるか?自分で……自分の意志で変われない奴もいる」
その言葉が、胸に刺さる。同じ行動を、同じ感情を、何度も繰り返してしまう。僕に向けられた言葉なのではないかと感じた。
男が女子高生の腕を強く掴んだ。
「もう逃げんなよ……!俺だって、必死なんだよ……!」
「やめてぇ……!誰か……!」
その声を聞いた瞬間、雪村くんが一歩、前に出た。
「——行くぞ」
短い言葉。けれど、それで十分だった。
檜山くんが即座に周囲を確認する。
「この狭い空間なら穢場で封界した方がいいですね」
「任せる」雪村くんが短く応える。
「私がやるわ」
(この三人、ホントに――)
憧れにも似た感情が僕を支配する。ここに僕も並びたいと心から思う。けど、まだその資格が無いことは理解している。
霧ヶ峰さんは、静かに息を整えていた。彼女の周囲の空気が、わずかに冷えていくのを感じる。
(……霧ヶ峰さん)
何をしようとしているのかは分らない。けれど、何らかの準備が整いつつあることは分る。霧ヶ峰さんを包む空気感がそれを示していた。
雪村くんが、路地へ足を踏み入れる。
「——そこまでだ」
その声は、決して大きくない。だが、雪村くんが発した空気の振動は路地全体に響いている。
男が振り返る。
その瞬間――黒い靄が大きく揺れた。
「またか……また、邪魔する気かよっ!」
歪んだ笑み。昨日よりも、確実に壊れかけている表情。
僕は悟った。これは、単なる再現じゃない。昨日の続きだ。そしてこれが穢れのその先なのか。
男から止められなかった感情が、形を変えて、もう一度現れた。
——そして今度は、もっと深く堕ちようとしている。
霧ヶ峰さんが、静かに言った。
「封界、いつでもできるよ。けど……お手柔らかにね」
雪村くんは、右手だけポケットから出した。
「桜、俺のこと信じろよ」
「……うん」と応じる霧ヶ峰さんの顔が、少し紅潮しているように見える。
二人の空気感とは裏腹に、路地の空気が張りつめていく。僕は、その場から目を離せなかった。
——この先で、人が堕ちる瞬間を、はっきりと見てしまう気がしたから。




