紫影の眠り(1)
洞窟の闇を紫の瘴気が満たしていく。
黒翼を広げた紫堕天使が、愉快げに微笑んだ。
「人は誰しも“幸せだった頃”を抱いて眠るものだ。抗う必要などない……お前たちも、そのまま夢に沈めばいい」
足元に広がった影が杭のように伸び、四人を地面に縫いつけた。
「っ……!」
ナヅキは剣を振り払おうとしたが、影は鉄鎖のように絡みついて離れない。
次の瞬間、仲間たちの瞳が淡く紫に染まり始めた。
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ネツレイの視界に広がったのは、畑に囲まれた小さな一軒家だった。
縁側の向こうには、父が手入れした菜園が広がり、夏草と土の匂いが風に混ざって流れ込んでくる。
ちゃぶ台の上には母の作った湯気立つカレー鍋。
「おかわり、いる?」
エプロン姿の母が微笑み、弟は「ルーもっとかけて!」と声を弾ませる。妹はスプーンを振り回して叱られ、父は農作業帰りのまま缶ビール片手に「勉強も忘れんな」と笑った。
外ではヒグラシが鳴き、暮れなずむ田舎の夕暮れが家を包む。
「……ああ……これが……俺の家族だ……」
ネツレイの目に涙がにじむ。
帰れなくなった日常が、今そこにあるように近く感じられた。
——このままここにいられるなら、それでいい。そう思わずにいられなかった。
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ニシナの前に広がったのは、柔らかな日差しに照らされた教室だった。
黒板に書かれた数式、廊下を駆け抜ける声。
机を寄せ合い、友達と笑いながらお菓子をつまむ放課後。
制服のポケットには、小さな飴玉。
机の中には、交換した手紙。
病室の白い壁ではなく、ここには色がある。音がある。にぎやかで、当たり前の毎日がある。
「……うそ……また……戻れたの……?」
瞳が潤み、心臓がくすぐったく跳ねる。
失われたものを取り戻せる幸福に、抗おうとする意志はみるみる薄れていった。
この夢から、目を覚ます必要なんてあるのだろうか。
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そして、キサラギの瞳に映ったのは冬のカフェだった。
ストーブの温もりに満ちた店内、窓の外には白い息を吐く通行人。
木のテーブル越しに、タバコを咥えたリヅが微笑んでいる。
「キサラギ、また硬い顔してる。もっと肩の力抜いたら?」
低く優しい声が、胸の奥の冷たい部分を溶かしていく。
もう二度と聞けないと思っていた声。
もう二度と届かないと思っていた温もり。
「……リヅ先輩……っ……」
喉が詰まり、言葉が零れ落ちる。
あの日果たせなかった言葉を、ようやく伝えられる気がした。
願いが叶うなら、この時間が続けばいい。永遠に。
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三人の表情から戦意が消え、安らぎの吐息が洩れる。
影はさらに深く絡みつき、眠りに落ちるように身体が沈んでいく。
その様子を見て、紫堕天使は恍惚とした笑みを浮かべた。
「そうだ……それでいい……人は“最も幸せな夢”に抗えはしない」
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だが、その言葉を嘲笑うように、鋭い声が洞窟に響いた。
「はァァ!? なんだこれ、気持ち悪ぃ!」
ただひとり、ナヅキだけが影を引きちぎり、幻を一蹴して立ち上がっていた。
長葱剣を担ぎ、目の前の紫堕天使を睨みつける。
「幸せな夢? 寝言は寝て言え! 俺は今が一番幸せなんだよ!!!」
怒声は洞窟の奥にまで轟き、仲間たちの心を揺り起こす。
サラダの天使が愉快そうに笑った。
『その通りだ、ナヅキ。その馬鹿みたいな直球が、お前の強さだ!』
ナヅキが剣を振り抜いた瞬間、野菜の光が弾けて仲間たちを包み込んだ。
田舎の風景も、青空の教室も、カフェの窓辺も——すべてが音を立てて崩れ去る。
残されたのは現実と、仲間の存在だけだった。
「……っ」
ネツレイは歯を食いしばり、夢に涙を残したまま剣を握り直す。
その耳元で、毒キノコの天使が低く嘲るように囁く。
『……ちっ、やはりそうか。お前は毒に沈むには真面目すぎる』
ニシナは胸を抑えて呼吸を整え、震える声で「戻れた……」と呟いた。
メデューサの天使の声が、静かに彼女の背を押す。
『……そうだ。怖れを抱いたまま、立て。それがお前の強さだ』
キサラギも、リヅを失う痛みを改めて噛みしめながら、それでも目の前にいる仲間へ視線を上げた。
花火の天使は爆ぜるように告げた。
『……いいね。その痛みの中で立ち上がる姿こそ、一瞬の輝きだ!』
「お前ら、夢にしがみつくんじゃねぇ! 幸せは今ここにあるだろ!」
ナヅキの叫びが、再び戦場に火を灯した。
その言葉に応じるように、サラダの天使が愉快に笑った。
『ははっ! 言ってやったな、ナヅキ! 夢をブチ壊して現実で笑う……それが一番の栄養だ!』
紫堕天使の笑みが初めて揺らいだ。
「……夢を拒む……だと……?」
四人は再び立ち上がり、剣を構えた。
紫の瘴気を切り裂くように、闘志が燃え上がっていった。




