魔王の気配(1)
翌朝、天啓庁本部の執務室。
窓から差し込む光は冷たく、昨夜の惨状を洗い流すにはあまりに心許なかった。
チェリーは執務机に腰掛け、四人を迎えた。
長い薄緑の髪が肩に落ち、眼差しはいつもと変わらず穏やかだ。だがその奥には、揺るぎない緊張が漂っていた。
「襲撃の件、詳しく聞かせてもらえる?」
キサラギが前に出て、簡潔に報告を始める。
裏切り幹部との交戦、そこへ現れた紫色の上位堕天使、そして告げられた“魔王の目覚め”。
「……遂にこの時が来てしまったのね」
チェリーは目を伏せ、深く息を吐いた。
ネツレイが懐から端末を取り出し、卓上に置く。
「これを。あの時、堕天使の一体に探知機を仕込むことに成功した。まだ反応は生きてる」
端末のモニターには、地図上で点滅する赤い光が映っていた。
その位置は山岳地帯の奥深く、人の立ち入らぬ禁足の領域。
「よくやったわね、ネツレイ。さすがって言うべきかしら」
チェリーは柔らかく微笑んだ。
ネツレイは苦笑し、血が滲む肩を抑えた。
「無茶をした甲斐はあった、ってことだな」
チェリーは端末の光をしばし見つめ、真剣な声音で続けた。
「……場所がわかった以上、動かない理由はないわ。魔王の気配が本当にそこにあるなら、悠長にしている時間はもう残されていない」
ナヅキが腕を組み、口の端を上げる。
「ついに決戦の地ってやつか。腕が鳴るぜ」
その軽口に、ネツレイが苦々しげに睨む。
「お前はいつも簡単に言う……。これが本当に最後の戦いになるかもしれないんだぞ」
だがニシナは不安そうに拳を胸の前で握りしめ、それでもはっきりと言葉を出した。
「でも……私たち、もう後ろには下がれません。あそこに行って、確かめなきゃ」
チェリーはそんな彼女の言葉に頷き、視線を全員に巡らせる。
「……私が前に出れば早いって、みんな思うんでしょうね。でもね、そうはいかないのよ」
ゆるやかに首を振るチェリーにナヅキが真っ直ぐな視線で問いかける。
「なんでですか? チェリーさんが戦えば、きっと——」
チェリーは微笑を浮かべながらも、その声には苦味が混じっていた。
「私の“風”は、戦場を丸ごと呑む嵐。敵だけじゃなく、味方も街も巻き込む。」
一瞬だけ、チェリーの瞳に遠い記憶が揺れる。
「……昔、守りたかった子を風にさらってしまったの。だからもう、全力では振るえない」
その場が静まり返る。彼女は視線を机上の資料に落とし、言葉を続けた。
「それに……この庁舎の“風の結界”を維持しているのは、私の天使。これが途切れたら、全国のゲートが一気に開いてしまうわ。そうなったら、魔王どころじゃなくなる」
ネツレイが思わず息を呑む。
「……つまり、トップが戦場に出ること自体がリスク、ってことか」
チェリーは軽く肩をすくめて笑った。
「そうよ。風は止まっちゃいけない。だから前には出ない。……出られないの」
けれど、その笑みの奥にある影は、確かに悔恨を抱いていた。
彼女は四人を見回し、柔らかく言葉を結んだ。
「だからこそ、あなたたちが必要なの。ナヅキ、キサラギ、ネツレイ、ニシナ。……あなたたちが、私の代わりに嵐の中を駆け抜けて。私が守る“世界”のために」
ナヅキは拳を握りしめ、ぐっと胸を張った。
「上等っすね。……俺たちがやってやりますよ。魂も命も、仲間と一緒なら絶対に喰わせない」
「——ええ。あなたたちに任せるわ。行動は明朝。準備を怠らないように」
チェリーの目が細められ、ほんの僅か安堵の色が浮かんだ。
場が解散の空気に包まれた時、ナヅキが急に手を挙げた。
「はいっ! 一つ提案! 出発前に腹いっぱいカレー食べたいです!」
「……お前、今それ言うか」
ネツレイが深くため息をつき、こめかみを押さえた。
チェリーは肩をすくめ、微笑をこぼす。
「ふふ。緊張をほぐすのも大事よ。いいじゃない、最後の晩餐にはちょうどいいわ」
ナヅキは「やった!」と声をあげ、子どものように拳を突き上げた。
そんな彼の背を見ながら、残る三人は小さく笑みを交わした。
——決戦前の、ほんの一瞬の安らぎだった。




