紅の暴威(3)
炎の渦が広がり、赤堕天使の影が不気味に揺れた。
荒野を溶かすような熱と硫黄の匂いが鼻を突き、視界の端で地平線がゆらゆらと揺らめく。
「……今だッ!」
ネツレイが歯を食いしばり、スティレットを構えて炎の壁へ突っ込んだ。
まとわりつく熱風が皮膚を焼くように痛い。だが彼は退かなかった。
刹那、彼の左手の甲に契約刻印が浮かぶ。
青紫の毒光がスティレットに走り、刃先から立ち上る煙が炎を押し返した。
——彼が編み出したのは、毒と風の複合技。
堕天使の炎をほんの一瞬だけ鈍らせる、彼にしか扱えない奇策だ。
スティレットが弧を描き、毒の霧が炎の盾をかすめた瞬間、赤堕天使の体勢がわずかに崩れる。
「隙、作ったぞナヅキ!」
「——おうよッ!」
ナヅキが吠え、熱に包まれながら長ネギの刃を振り抜く。
刃が炎を切り裂き、赤堕天使の胸元へ深く叩き込まれた——
だが、そこで終わらなかった。
『甘いんだよ、人間ッ!』
赤堕天使の掌が爆ぜ、炎が衝撃波となってナヅキを吹き飛ばす。
「ぐッ……!」
宙を舞ったナヅキが、無防備のまま地面に叩きつけられた。
全身を襲う鈍痛、視界を覆う黒。意識が、落ちていく——
---
「ナヅキッ!」
ネツレイが叫ぶ。
だが赤堕天使は嗤い、炎をまとった腕を倒れたナヅキへと伸ばした。
「させるかよッ!」
ネツレイは全身の筋肉が裂けるのも構わず、前に飛び出した。
両手のスティレットに毒の契約刻印を宿し、交差させて赤堕天使の腕を受け止める。
灼熱が皮膚を焼き、息が詰まる。
それでも彼は退かない。
「こいつは……お前なんかに……触らせねぇ!」
毒光が刃先からじわりと広がり、炎に触れるたびに黒い霧を立ち上らせる。
その霧が赤堕天使の視界を曇らせ、動きを鈍らせた。
『チッ……毒か……小賢しい真似を』
赤堕天使が顔をしかめ、炎の渦をさらに濃くする。
炎の竜巻が轟音を立て、ネツレイの背中に直撃した。
「ぐ……っ……!」
皮膚が裂ける感覚、喉を焼く熱。
それでも彼はスティレットを離さなかった。
片膝をつきながらも、ナヅキの前に立ちはだかる。
(絶対に……こいつを……守る……!)
ネツレイの脳裏に、過去の任務の光景がよぎる。
あの時も、仲間を守れなかった——その悔しさが、今の自分を突き動かしていた。
「立てよ、ナヅキ……! お前の番だろうが!」
赤堕天使の炎が再び弾け、地面に赤い亀裂が走る。
ネツレイは限界寸前の身体でスティレットを投げ、刃に宿した毒霧を一気に散布した。
黒紫の煙が炎に混じり、赤堕天使の腕が一瞬だけ痙攣する。
そのわずかな間に、ネツレイは倒れかけたナヅキの肩を掴んだ。
「おい、起きろ! 俺ひとりじゃ持たねぇ!」
---
——黒い闇の奥から、森の音が聞こえる。
ナヅキの脳裏に蘇るのは、中学の頃の記憶だった。
母はすでに亡くなり、唯一の家族だった父は借金取りに追われて「解散だ」と言い放ち、姿を消した。
取り残された少年は、行くあてもなく町をさまよった。
その足がたどり着いたのは、古びた廃神社。
それでも、雨風がしのげればもうどこでもよかった。
誰も世話をしなくなった境内は荒れ放題で、小さな祠の前でナヅキは力なく腰を下ろした。
「腹、減った……もうどうでもいいや……」
その時だった。
祠の中から、ぼんやりと光る影が現れた。
『どうでもいいとか言うなよ。私のところに来たお前はラッキーなのだからな』
現れたのは、小柄で気まぐれそうな天使だった。
しかし、その背には鮮やかな野菜や果実の幻影が揺れている。
「……なんだよ、あんた」
『私は豊穣の天使……のはずなんだけどな。神社が潰れてから力が抜けてしまった。参ったよ』
天使は肩をすくめ、手にした籠をひょいと持ち上げた。
そこには新鮮なパンや野菜が並んでいた。
『なぁ坊主。お前、居場所ないんだろ? 私もないんだ。だったらさ——一緒に強くならないか?』
ちらつかせられた食料に、ナヅキの腹は素直に鳴った。
その時の少年に、拒否する余地はなかった。
「……わかったよ。けど、条件ひとつ」
『なんだ? 食生活改善なら大歓迎だぞ』
「絶対に、“解散”とか言うな。俺を置いてくやつは、もうごめんだ」
天使は一瞬、驚いたように目を瞬かせ——そしてにやりと笑った。
『いいねぇ。その根性、気に入った。じゃあ決まりだ。私がお前を依代にする。力、欲しいだろ?』
そうして交わされた契約。
それが、ナヅキとサラダの天使の始まりだった。
---
暗闇の中、ナヅキはうっすらと目を開ける。
目の前には、あの天使が立っていた。
『……立て、ナヅキ。私たちの契約、忘れたのか?』
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
失い続けてきた自分に、唯一残された“居場所”。
それが、この天使と仲間だった。
「……ああ。まだ、終わってねぇ」
目を開いたナヅキの周囲に、再び野菜の幻影がきらめく。
地面を蹴り、炎の中へと再び飛び込んだ。
「やっと起きたか……!」
ボロボロになりながらも、ネツレイが振り返る。
「さっさと働け、バカ」
「わかってるよ!」
息を合わせ、ふたりは赤堕天使に向かって突き進んだ。




