青き幻惑(1)
雪の残る街外れ。
人通りのない廃ビル街を、リヅはひとり歩いていた。
吐く息が白く溶け、ヒールの音が冷たく響く。
通信機からは「単独での追跡は危険だ」というチェリーの声が何度も繰り返されていた。
それでも彼女は応答せず、静かに歩を進める。
(……ここにいるはず。気配が濃すぎる)
路地裏を抜け、錆びついた非常階段を見上げたとき——。
ひらり、と空気に冷たい波紋が走った。
『……見つけた』
耳に届いたのは、透き通った少年の声。
振り返った瞬間、視界が一変した。
——気がつけば、そこは白い霧に覆われた無限の空間。
廃ビルも、街も、雪も消えていた。
代わりに、吐息が凍りつくほどの冷気が肌を刺す。
目の前に現れたのは、瑠璃色の瞳を輝かせる存在。
中性的な顔立ちに、背中から透けるような蒼い翼が広がり、その羽から氷片がはらはらと舞い落ちていた。
『君が“薔薇のリヅ”だね。やっと会えた』
青堕天使は、楽しげに唇を吊り上げる。
リヅは動揺を見せず、赤いロングヘアをかきあげて前に出た。
「そういうあなたは……幻惑の堕天使、かな」
『ふふ。呼び方はなんでもいいよ。でも——』
青い瞳がきらめき、空間に花びらのような氷の光が舞った。
その輝きは徐々に形を成し、リヅの目の前に“ある人影”を浮かび上がらせる。
「……!」
心臓が跳ねた。
そこに立っていたのは、もう二度と会えないはずの“親友”の姿。
柔らかく笑いかけてくる幻影の髪には、氷の粒が溶けるように煌めいていた。
『どう? 嬉しいでしょ。君が一番会いたかった人を、氷の底から掬ってきたんだ』
青堕天使は無邪気に笑い、白い指を鳴らした。
幻影が一歩、リヅへと歩み寄る。
その瞳は、かつて交わした約束をそのままに映していた。
吐息すら白く凍り、空間そのものがゆっくりと氷に閉ざされていく。
リヅの胸の奥が、強く締めつけられる。
「……また、会えるなんて」
思わず声が漏れる。
けれど、その瞬間。
——(惑わされるな、リヅ)
薔薇の天使の低い声が頭の中に響いた。
赤い花弁が視界の端でちらりと舞う。
「っ……そうだね。あなたは、もうここにはいないんだ」
リヅは瞼を閉じ、深く息を吐いた。
再び目を開いたとき、その瞳には迷いが消えていた。
幻影は微笑んだまま、リヅの頬に触れようとする。
しかしリヅは一歩下がり、指先から赤い花弁を散らす。
「……優しい幻だ。でも、私はもう騙されない」
花弁は鋭い棘に変わり、幻影の姿を容赦なく切り裂いた。
氷の結晶が砕けるように、幻はきらきらと散り、白い霧がひび割れて消えていく。
『……おやおや。即興で作った幻影にしては、結構良い出来だと思ったんだけどなぁ』
青堕天使は楽しそうに肩をすくめた。
吐息が霧散するたび、周囲の空気がさらに冷え込んでいく。
「遊びに付き合っている暇はないよ」
リヅの足元に赤い蔦が伸び、棘を光らせる。
『じゃあ、本気で遊ぼうか。——氷の鏡の世界で!』
青い瞳が閃いた瞬間、霧の空間が割れるように揺らぎ、無数の鏡の壁が現れる。
どの鏡にもリヅの姿が映り込み、幻影が氷像のように無限に増殖していった。
リヅは短く息を吐き、薔薇の茨を握りしめる。
「鏡合わせの舞踏……いいね。じゃあ、私も本気を見せるよ」
赤と青、二色の花弁と氷片が宙に散り、幻惑と薔薇の戦いが幕を開けた。




