揺らぐ秩序(2)
黒く染まった片翼を広げたセイランが前に進み出ると、背後の堕天使がにこにこと笑いながら囁いた。
『へぇ……やっぱり特別だね、君』
その視線が、真っ直ぐにニシナへ注がれる。
蛇のような髪が緊張でぴくりと動き、ニシナの喉がひゅっと鳴った。
「わ、わたし……?」
『そう。だって君は一度、死にかけたんだろう?』
堕天使は楽しげに両手を叩く。
『死の境から戻った魂は、とても純度が高い。……甘い果実みたいにね』
ぞわり、と空気が粘ついた。
ニシナの顔が蒼白になり、思わず一歩後ずさる。
「やめろ……!」
ナヅキが前に出て、長ネギの剣を構える。
「ニシナに触れたら、ただじゃおかねぇ!」
しかしセイランが道を塞ぐように立ちはだかった。
「ナヅキ……下がれ。彼女を差し出せば、お前たちだって救われるんだ」
「黙れ!」
キサラギが声を荒げる。
「誰かを犠牲にしてまで生き延びても、後悔するだけだ!」
ネツレイは眼鏡の奥で冷静に光る瞳をしながらも、手が小さく震えていた。
「……奴ら、本気でニシナを狙ってる。守りを厚くしろ」
堕天使は笑いながら一歩、また一歩と近づく。
『怖がらなくていいんだよ。君が差し出せば、全部終わるんだから』
無邪気な声が、ナイフよりも鋭く心を抉る。
ニシナは必死に首を振った。
「……わ、私は……みんなと……生きたい!」
その瞬間、堕天使の目に興味の炎が宿る。
『あぁ、いいね。その必死さがたまらない——』
「ふざけんなぁぁぁぁ!」
ナヅキの咆哮が夜空に轟き、刃が閃光を描いた。
堕天使の無邪気な笑い声が、冷たい夜気を震わせた。
『さあ、どうする? 君たちの仲間を守るか、それとも差し出すか。……どっちにしても、楽しい結末になるけどね』
その言葉と同時に、セイランの黒い刃がニシナへ振り下ろされる。
「——っ!」
体が固まるニシナ。
瞬間、ナヅキの足が地面を蹴っていた。
自分でも考えるより先に。
閃光のように割って入り、長ネギの剣で黒刃を受け止める。
衝撃で手が痺れたが、ナヅキは歯を食いしばって踏みとどまった。
「……っざけんな……! ニシナに指一本触れさせねぇ!」
剣と剣が軋み、火花を散らす。
セイランの腕は震えていた。
それでも刃は振り下ろされる。
「……俺だって……守りたかった……! けど、怖かったんだ……魂を奪われて消えるのが……!」
その叫びは、かつて優しかった先輩の面影を一瞬だけ滲ませた。
「——だからって!」
ナヅキが食いしばった歯の間から声を絞る。
「仲間を切り捨てて生き残って……それで満足かよ!」
火花が散り、闇と炎がぶつかり合う。
堕天使が面白そうに目を細める。
『へぇ……君、一見やる気なさそうなのに。そんなに大事なんだ?』
「……ああそうだよ! 俺は今まで、自分が戦う意味なんか考えたことなかった! 魂なんかどうでもいいって思ってた! でもな——!」
ナヅキは振り絞るように叫ぶ。
「仲間が死ぬのは、もっと嫌だ! 俺は——生きてるみんなを守るために戦うんだ!」
その声に、キサラギとネツレイが一瞬、息を呑んだ。
ニシナは涙をにじませながら、ナヅキの背中を見つめていた。
堕天使が口元を歪め、楽しげに手を叩く。
『ははっ、いいねぇ! やっと少しは楽しませてくれそうだ!』
次の瞬間、堕天使の黒翼が広がり、無数の闇の刃が空へ舞い上がる。
ナヅキは深く息を吸い込み、全身の力を刃に込めた。
「——行くぞ!」
仲間を背に、初めて全力で吠えるその姿は、まるで夜空に灯る炎のようだった。




