揺らぐ秩序(1)
その日、天啓庁の会議室は重苦しいざわめきに包まれていた。
壁のスクリーンには監視映像が流れている。
路地裏。黒い羽を広げた堕天使が、若い契約者の前に立っていた。
無邪気な笑みを浮かべながら、その瞳には冷えた光が宿る。
『ねえ、契約者くん。君……怖いんだろう? 死んだら魂を奪われるって』
堕天使は甘く囁き、手を差し伸べる。
『私と契約すればいい。魂を渡さずに、力だけを手に入れられるよ』
契約者は怯えた顔で後ずさったが、やがて恐怖に押し潰されるように頷いた。
その瞬間、映像はノイズに覆われ、途切れた。
「……これが最近確認された堕天使の手口よ」
チェリーの声が鋭く響く。
「“魂を奪われない契約”。人の恐怖心を突き、騙して取り込んでいる」
会議室がざわめいた。
「……本当に魂を渡さずに済むのか……?」
「じゃあ俺たちは、なぜ危険を背負って……」
不信の声が次々と上がる。
組織を支える“信頼”が音を立てて揺らぎ始めていた。
ネツレイは眉をひそめ、冷ややかに言う。
「……秩序が崩れるな。最も恐ろしいのは敵じゃなく、仲間の疑心暗鬼かもしれない」
ナヅキは舌打ちし、苛立ちを露わにする。
「くだらねぇ! どうせ魂だろうが何だろうが、俺たちが勝ちゃ関係ねぇだろ!」
だが、その強がりも空しく、ざわめきは消えなかった。
誰もが心の奥で「もし本当に魂を渡さずに済むなら」という誘惑に怯えていた。
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数日後の夜。
任務帰りの道、寮の近くの街灯の下に人影が立っていた。
「……セイラン先輩?」
ニシナが目を見開く。
かつて彼女を気遣い、優しい笑顔を向けてくれた先輩契約者。
しかし今の彼の片翼は黒く染まり、背後には堕天使が寄り添っていた。
『ふふ……気づいた? この人はもう、私と契約したんだよ』
堕天使が耳元で囁くように言う。
『“魂を渡さずに済む”と知った時、人はどんな選択をすると思う?』
セイランの表情は穏やかだったが、その声は震えていた。
「……俺は……怖かったんだ。戦って死ねば魂を奪われる。……その恐怖に、耐えられなくなった」
「そ、そんな……!」
ニシナの声が震える。
「だって先輩はいつも、“私に大丈夫だ”って言ってくれたじゃないですか……!」
セイランは視線を逸らし、黒い翼を大きく広げた。
「すまない。怖くなって……俺は選んでしまった。もう後戻りはできない」
その言葉に、ナヅキの血が逆流する。
長ネギの剣を握り、歯を食いしばった。
「……ふざけんな!」
怒りが迸り、声が夜空を震わせる。
「甘い言葉に縋りつくなよ! お前は騙されてんだよ!」
稲妻のように視線がぶつかる。
セイランの目に、かつての優しさはもうなかった。
——ここから先は、言葉では止められない。
仲間と敵。道を分けた者同士の戦いが、静かに幕を開けようとしていた。




