道標(2)
休日の午後。
リヅに頼まれた買い物で、キサラギは大きな紙袋を両手に抱えていた。
「……はぁ、買いすぎじゃないですかコレ」
「助かるよ、キサラギ。君は荷物持ちに向いてるね」
ヘビースモーカーの上司は、いつもの軽さで笑った。
買い物を終えると、商店街の一角にある小さなカフェに入った。
窓際の席に座り、湯気の立つ紅茶を前に一息つく。
「ねえ、少し休んでいかない?」
リヅはカップを両手で包み、瞳を伏せた。
「……キサラギ。森で迷った赤ずきんのように——君が無くしたら困る“道標”は何?」
唐突な問いに、キサラギは瞬きをした。
「道標……?」
リヅはふっと笑う。
「私はね……もう会えない親友との約束なんだ。『いつか、この世界を光で照らそう』って。……それが私の道標だよ」
声には切なさと、どこか影のような寂しさが混じっていた。
紅茶の香りとともに、静かな沈黙がふたりを包む。
キサラギは答えに詰まった。
これまで“自分が犠牲になること”を恐れていなかった。
むしろ、それで誰かを救えるなら本望だと思っていた。
だから——“無くしたら困る道標”など、考えたことがなかった。
「……俺には……」
言いかけて、言葉が続かない。
リヅは静かに微笑む。
「まだ見えていないだけで、きっともうあるはずだよ。君の中に」
そう言って、テーブルの上でキサラギの手をぎゅっと握った。
指先から伝わる温もりに、キサラギの心臓がひどく跳ねる。
「……リヅ先輩」
その言葉は、深く胸に残った。
“道標”——まだ形を持たないまま、心の奥で芽吹き始めていた。
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カフェを出てリヅと別れた帰り道。
両手に残る感触が、まだじんわりと温かい。
「……道標、か」
キサラギは小さく呟いた。
寮の玄関を開けると、甘酸っぱい香りと賑やかな声が耳に届いた。
「おい、ニシナ! そのレモンケーキの最後の一切れは俺のだって!」
「え、えぇっ!? わ、私もうお皿に取っちゃいました!」
「だからお前は食い意地張りすぎなんだよ!」
「ちょ、ちょっと二人とも……落ち着いて!」
ナヅキとニシナがネツレイの焼いたレモンケーキをめぐって本気で揉めている。
ネツレイ本人は慌てて間に割って入ろうとするが、二人の手は皿の上で交差して止まらない。
その横でサラダの天使は腕を組み、ふてくされた顔でケーキの残りをじっと睨んでいた。
「……どうせ作るなら、人参やほうれん草を混ぜ込むべきだったな」
——変わらない、賑やかな日常。
けれど今のキサラギには、その光景がなぜか眩しく映った。
(……もし誰かがここからいなくなったら。この温かさは、どうなる?)
胸の奥がざわめいた。
それは“死んでも構わない”と思ってきた自分が、初めて覚えた喪失への恐怖だった。
そして同時に——“守りたい”という芽生えでもあった。
「……おかえりなさい、キサラギさん」
ニシナが振り返り、柔らかく微笑む。
その笑顔に、不意に心臓が跳ねた。
(……もしかして——これが)
まだ答えは見つからない。
だが確かに、リヅの言ったとおり“道標”は芽吹いている。
キサラギは目を伏せ、わずかに唇を結んだ。
「……ただいま」
その一言に仲間たちの視線が集まり、笑顔が広がる。
その温かさこそが、自分を導く光なのかもしれないと、キサラギは思った。




