第3章 母の揺籠にて
黄昏が近づいていた。
だが、この街には太陽など最初から存在しないかのようだった。
天空を流れる浮遊運搬車が、エンジン音とともに黒い蒸気を吹き上げる。
曇天の隙間をすり抜けるその煙が、空をさらに灰色に染め、頭上に架かる金属アーチの梁を影のように浮かび上がらせていた。
路地は歯車のように放射状に広がり、交差点の中心では、蒸気仕掛けの時計塔が鈍い音で時間を刻む。
塔の麓に点在するのは、焼け焦げたような屋台。鍛冶屋、修理工、闇の薬売り──どれもが同じような顔で、同じような咳をしていた。
彼らはクロノドロップの供給もとの一つ”エターナル”の裏口でゴミ箱を漁っていた。
バルは帽子のつばを深く被り、ロングコートの内ポケットから小さなスケッチ帳を取り出した。
そこには、噂を頼りに書き留めた**「供給ルートの地図」が雑然と並ぶ。
「これが三つ目……。空っぽ、か」
アメリアは膝を曲げて、屋台裏のゴミ袋から出てきた空のアンプルを放りなげた。
「クロノドロップの空瓶があるだけか。売人ども、もうちょいマシな証拠残してってくれてもいいのに」
バルは鼻を鳴らした。「用心深い連中だ。時間が漏れる薬を売ってるって自覚がある」
結局、エターナルで得た情報は”母の揺籠”と言う名前と地下に繋がる輸送ルートの入り口らしき場所だけだった。
「“母の揺籠”って名前、マジで気持ち悪いよね。どこの詩人気取りだよ」
「最初にそう呼んだのは、あそこがクロノケミカルと呼ばれていた頃にいた、設計技師らしい」
「皮肉だな。母から与えられるものが、時を狂わせる薬なんて」
バルは歩を進めながら、細い通路の奥に目をやる。そこには、旧クロノケミカル研究所《母の揺籠》へ続くと言われる“地下栄養幹線”の入り口があるはずだった。
「ここに、工業地帯から古い輸送管が伸びている。加工前の薬成分を都市内に流すルートだ」
アメリアは眉をひそめる。
「じゃあ、地上で売られてるやつ……全部ここから?」
「可能性は高い。でも今の情報でわかるのは精製所のごく一部までだ。根はたぶん地下深くだ」
周囲に目を光らせると、金属鳥がひとつ、瓦礫の上からバルを見下ろしていた。
「見張りかも」
「鳥にも気を使う時代か。やれやれ……」
アメリアは懐から銀色に光る小型の時間音叉を取り出した。指先で軽く振動させると、澄んだ金属音が空気を震わせ、まるで時間そのものが共鳴するかのように微かな光の粒が周囲に漂った。
「……これで少しは……」
足元の古びた床板に反応する光の粒。アメリアは息を詰め、音叉を手首に沿って揺らす。すると、床の隙間から過去の断片が幽かに映し出される。転倒したトレーラーの影、奔走する人々、そして――雲母の粒子が空中に舞い、青い光を放つ。
「時間の波が……ここにまだ残っている……」
彼女は音叉の振動を微調整し、粒子の軌跡を追った。小さな光の流れは、かつてクオンが身を挺して守った場所へと続く。アメリアはそっと膝をつき、指先で空中に浮かぶ粒子をなぞるように導いた。
「わかってきた……ここで起きたこと……」
音叉が放つ共鳴は、単なる音ではなかった。過去の出来事の残響を拾い上げ、時間の断層に刻まれた痕跡を可視化する装置。アメリアは光の粒と影の残像を重ね合わせ、静かにその足を進めた
「多分ここ」
アメリアはベルトのポケットから工具を取り出し、見た目は何もない床の一部差し込んだ。
カチリ、と音がして、床に扉が浮かび上がる。
「ま、こういうのは任せてよ。ガキの頃にさんざんやったからね。生きるために」
バルは何も言わず、ゆっくりと扉を押し開けた。
暗闇の中からは、ほんのかすかに、スチームような音が響いていた。
それはまるで、金属の血管が脈打っているような音だった。
「……聞こえるか? あれ、スチームトレーラーの音だ」
「いやな予感しかしないけど、行こうか。そろそろ母親の顔を見にいこうじゃん」
アメリアが先に地下通路に足を踏み入れる。
蒸気が足元を這い、下り坂は深く、ゆるやかに、続いていく。
通路内は、喉元に絡みつくような蒸気の層に満ちていた。金属の匂いに混じって、古びた薬品と焦げた機械油の臭気が漂う。
狭い通路を進むたび、バルの懐中灯が照らす先に、錆びた医療機器や解体されたままのチューブが現れては、黙ってその存在を訴えていた。
アメリアは足元に注意しながら、バルの右後方を歩いていた。左足に仕込まれた補助義足が、ガチリと小さな音を立てるたび、地下の壁がそれを倍にして返す。
「なんか昔を思い出す」
と懐かしさのなかに切なさをはらんだ表情でつぶやいた。
まだ彼女が十歳に満たない頃──
この街の下層地区”パイプヴェイン”と呼ばれる難民居住層にいた。
母親は早くに失踪し、父はスチームトレーラーにまだ幼かったアメリアを乗せて面倒を見ながら、クロノドロップの密造と輸送で何とか命を繋いでいた。
トレラーはある日、クロノドロップの原料を輸送中、事故にあった。そのとは亡くなり、アメリア一人が助かったのだ。
「左足、……その時、巻き込まれて失ったの。誰も助けてくれなかったよ。骨組みの鉄材の上で丸まって寝てた。冷たかった。世界に拒まれてるみたいでさ」
「でも、その時に拾ってくれたのが、あんたさ。最初は、壊れた街灯の下で『なぜか文字だけやたら綺麗に書くガキ』って笑ってたくせに、いきなり工具渡してきてさ。『腕は悪くなさそうだ。使ってみろ』って」
バルは苦笑した。「覚えてる。……言い方が、ずっと前の俺と同じだった」
「バル。あんたはいつも義足がある左側に立って私を守ってくれた。あんたに助けられたのは、義足じゃない。……時間を、だよ」
バルは少し戸惑う様な顔を浮かべ、すぐにいつもの顔に戻った。
二人は先を進んだ。
下層通路は次第に広がり、やがて彼らは巨大な円形空間へと辿り着いた。
壁に貼られた“共鳴反射板”──金属の羽のような装飾。天井に吊るされた無数の“録音球”──それぞれ微かに震えている。中央に置かれた“音の柱”──結晶で作られた管は静かに呼吸しているようだった
ドームの中心に近づくとバルの手にした修復用の時位相探査機が、微かに震えはじめる。
「ここだ。時間軸が安定していない。けれど……逆に、ここを使えば行ける」
彼は何もない空間一部を手で撫で、精密な金属ピンを差し込んだ。
その瞬間、空間に扉が現れ、その向こうから時計じかけの歯車が回転する音が鳴りはじむる。
そして”母の揺籠”の扉が開いた。
そこは、元製薬会社というより、“大聖堂”に似ていた。
天井は高く、ガラスではなく“音響結晶”で造られており、
かつて響いた歌の余韻が、空間そのものに染みこんでいるようだった。
柱の一本一本が、時間の揺らぎを封じた“音柱”
床は無数の音符が刻まれた古代譜面盤
中央には、蓄音機と修復装置を複合した巨大な“共鳴核”
部屋全体が、“音楽”を保存するための記録媒体であり、
それと同時に、“時間の緩衝地帯”として外界から切り離されていた。大きなガラス状の球体が浮かんでいる。
内部で液体がゆるやかに回転し、金属製のチューブが何十本もそこから伸びていた。
「……これが、母の揺籠?」
アメリアは吐き捨てるように言った。
球体の下部には、古びたラベルが辛うじて読めた。
《ARK-00_β:仮歌構造体》
「ゆりかご、、、ARK(方舟)……? バル、これ“歌”の成分を抽出してる……まさかこれ、プロト・クオンの残響記録?」
バルが低く唸った。「ああ……。つまり、これが奴らの“源泉”だ」
そこに──唐突に、機械鳥が鳴く声が鳴いた。
バルはとっさにきびすをかえした。
その男は、静かに“廃区画の天蓋”の上に立っていた。
夜の空に張り巡らされた時間断層が、ゆっくりと明滅している。煤けたガラスの屋根越しに、瓦礫の灯が揺れている。
全身を黒いコートで覆い、頭部には金属と陶磁を組み合わせた異様な仮面。
額の中心にある一対の亀裂は、まるで時計の針が逆に進むように、刻一刻と開閉を繰り返している。
再び仮面の音は二人の前に現れた。
「……また、音が動き出したか」
電子音が混ざったくぐもった声。だがその声に、確かな情動は含まれていない。抑制された意識。あるいは──封印された過去。
その肩に、機械鳥が止まっていた。全身が青銅と黄銅で構成された機械の鳥だ。右眼にだけ、赤いレンズがはめ込まれているのが他の機械鳥と違っている。
キーキ、キリリ、と歯車を巻く様に鳴く。鳥はゆっくりと仮面の男の側頭部へ嘴を近づけ、微弱な“記憶素子”を読み取るような動作をした。
「……彼女の歌は、まだ残響している。
バル……お前は、あれを止められるのか?」
バルは身構える。手を拳銃にかけるも、男は動かない
バルはアメリアをかばうように一歩後ろへ引く
仮面の男は低い声で告げる。
「“母の揺籠”は、いずれ胎動を止める。だがその前に……君たちが答えなければならない。“歌”を誰が鳴らしたのか──」
その瞬間、闇が現れ仮面の男は闇に吸い込まれ様に消えた。
ふと、アメリアが何かに気づき、足元を見る。
そこには僅かに輝く、アルカインと書かれたアンプルが置かれていた。
静寂の中、遠く彼方で機械鳥が、鳴く声だけが響いていた。
キーワード
密造所「母の揺籠」
アルカインと書かれたアンプル