Bar エスピナス
裏通りへ一歩入ると剣呑とした雰囲気を持つ者が多くなる。
クライム・ギルド、今でいえばマフィア、ギャング、ヤクザと呼ばれる犯罪集団、多くは麻薬や人身売買、用心棒や傭兵、決闘代行、復讐代行等の暴力行為が生業になっている、この国には大小幾つもの組織が存在してシノギを削りあっていた。
ここはラインハウゼン共和国の北、通称茨の街、ソーン・シティ。
多くの組織がこの街に拠点や事務所を構えるのには訳がある、この街を治めるホランド子爵のバックアップを得られるからだ。
具体的には領内での犯罪行為を除いて取り締まられることがない、他の領で罪を犯してもホランド領に逃げ込んでしまえば逮捕される心配がないからだ。
子爵は貴族の階級からいえば下から数えた方が早い、上位である伯爵や公爵であっても手を出せないのは更に上のケツモチがいるからだ、対立する犯罪組織であってもホランド領の中では表立って事を起こすことは出来ないのは暗黙のルールだ。
この街で断罪の判決を下せるのは更なる権力を持つ者だ、伯爵、公爵よりも更に権力を持つ者がこの国に幾人いるものか。
暗黙の了解が犯罪組織の中立都市ソーン・シティを聖域としていた。
その禁を破れば払う代償は小さくはないことを組織は理解しているが、下っ端の意識はそこまで働かない、殺しに発展せずとも突発的な衝突は絶えない。
街の端に一軒のバーがある、カウンター十席の小さな店、提供するのはお酒だけ、ビールやワインなどの安酒は置いていない、年代物のブランデーを主にウイスキーやラムを揃えている。
当然単価は高い、客を選ぶ店の名をエスピナスと名付けた。
壁にかけてあるダーツの的は骨董品だが現役だ。
犯罪者の街ソーン・シティの中にあっても店の中での粗野な振る舞いは厳禁だ、経営者の私が血を見るのも下品な大声も大嫌いだから。
このルールを守れないなら誰であろうと店の扉は開けない。
それで商売になるのかって、それが開店すれば客足は途切れることはない、満席にはならないが誰もいない事もないから不思議だ。
どの犯罪組織の傘下にも入っていない女一人で店を営むにはソーン・シティは危険すぎる街だ、油断はできないが手助けしてくれる連中もいないではない。
私は客たちに自分をママやミストレスとは呼ばせない、私には霧愛・蒔絵という名前がある、バーの店主としては本名を偽る必要はない。
偽らなければならないのは副業の方だ。
副業の名刺は(霧の魔女)と名乗っている、人の病を相手にしている、医師よりは呪術師に近いかもしれない、内科専門、刀傷や銃創は治せない。
治すは違う、私は病を喰う。
詳細を言えば病巣となる癌細胞、ウィルス、梅毒、エイズ、果ては身体に害を成す毒までが私の中の瘟鬼の餌になる。
瘟鬼が何かなのかは私にも分からない、幼き頃のある日から私の中の悪魔が目覚め霧の魔女が誕生した。
瘟鬼のもう一つの力、人に致命的な害を成す、それは正に魔女の力だ。
魔女とは世界の禁忌、討伐の対象、災いと死を齎す人類の敵だ、魔女として聖教会に捕らえられれば真実であろうがなかろうが死が待っている、死に至る拷問の末に自白を強要される、認めようと認めまいとゴールに待つのは死だ。
聖教会騎士団審問官、聖人の鎧を纏ったサイコパス、喜々として人間を破壊する。
大嫌いだ!
瘟鬼が私に抵抗をさせる、死ぬ事を許さない。
細い水糸を束にしたような黒髪を腰まで伸ばし、切れ長の目に収まるのは碧い影を引いた黒い瞳、白すぎる肌に赤い唇、女にしては背が高い。
おまけに仕事の時は必ず黒衣のコートを身に纏う、どう見ても魔女だ。
自分で演出しているとはローペンの意見だが間違ってはいない、不気味さを帯びれば多少の武器になる
ただリアルすぎると息をしているだけで聖教会の騎士団に目を付けられかねない。
調子に乗れば簡単に足を掬われる、ここは犯罪のプロが住まう街だ、油断は出来ない。
副業の患者はバーの常連客からのみ受け付けている、一見の客は受け付けない。
魔女の存在を知る者は少ない方が良い。
出来ればこんなことはしたくはないが瘟鬼を満足させるためには必要な事だ、自分の身体の奥深くに強烈な渇望がある、知りたい、自分を殺した病の全てを。
私は一度死んでいる、病に喰われて捨てられた、それ以前の記憶はあやふやだ。
魔王を倒すに強大な腕力や火力は必要ない、いかなる勇者や英雄を持っても殴ることが出来ない極小の敵、善人も悪人も貧民も富民も平等に標的になる、異宗教や肌の色、言葉の違いなど取るに足らないと知るべきなのだ。
現世に悪魔は存在する、しかし神は存在しないのだから。
患者を診る前には病状だけではなく患者の置かれた状況を調べておくのがルールだ、私の専門は内科、血は見たくない、なにより気持ち悪いし怖い。
魔女医師と聞いて何でも治せると勘違いしている輩が多すぎる、ここに治療院を開いて三年になるが未だに三人に一人は骨折だのナイフで刺されただの、銃で撃たれた連中の依頼が来る、いちいち説明するのが面倒だから一見はとらない。
気紛れに診てしまうとロクなことにはならないと知っているから、あの日のように。