「雛人形って、苦手なんです」後編
ところで、私には弟と妹がいます。
弟とは一歳、妹とは三歳離れています。
妹はとてもよく笑う子どもでした。
本当によく笑うのです。何もないところを見ては、楽しそうに笑う。一方おしゃべりの方は全くで、いつまで経っても言葉を覚えません。また歩くこともできない。あまり動き回る子ではなかったのですが、動く時にはハイハイで部屋を移動していました。
成長速度は人それぞれですからそんなこともあるのでしょう。ですが小学生に上がる頃の私には、妹は何かおかしいのではないかと思えてなりませんでした。
初めて妹が二階に上がった年。「妹がおかしいかもしれない」その疑念が塗り替えられないものとなった年。私が今でもひなまつりの時期になると思い出してしまう年。私は六歳。妹は三歳でした。弟は自分より後に生まれた妹までもが二階に上がるので、自分もと駄々をこねていました。ですが、私は弟が羨ましくて仕方ない。
妹が二階の部屋に入るなり、顔を輝かせ楽しそうに部屋をハイハイで走り回りました。
「キャッキャッキャッ」
とにかく走り回るのです。よほど楽しいのか、笑い声が止まりません。思わず雛人形を見てしまいました。全員妹を見ています。座っているはずの子雛が立ち上がっていました。
――そんなわけない。人形がひとりで立つわけない。
反射的に反らした目を恐る恐る雛人形に向けてみれば、やはり去年の記憶と違わず人形たちは前を見て大人しく座っていました。
しかし、口元は隠せていません。口元が笑っているのを隠せていないのです。雛人形たちが口元に笑みを称えてます。嬉しくて仕方がないという笑みを。
後ろにいる母を振り返ると、俯き右手を伸ばしています。走り回る妹を指差していました。母は無表情のまま妹の動きに合わせて腕を動かしています。
怖くなって一階の父に助けを求めました。部屋から逃げたかったのです。階段を駆け下り、父に抱き着きました。怖い怖いと泣いた気がします。
しかし父から返事はない。顔を上げてみて驚きました。
今まで見たこともない顔で笑っているのです。
父は母を愛しているようでしたが、幸せそうには見えませんでした。いつも悲しそうな顔をしているのです。その父がとても嬉しそうに、しかし目には涙を浮かべています。笑ってはいけないのに頬が緩んでしまう、そんな顔でした。
逃げ場はありません。一階では父がおかしい。二階では妹がおかしい。母はいつものように無機質な表情のまま、階段で私を手招いています。
「やだ! 上で寝ない!」
私はパニックでした。呆然としている弟以外、家中のすべてがおかしくなったのです。泣きながら叫ぶように言った途端、二階でバタバタと走り回っていた音がピタリ――と止みました。
階段で手招く母がふらりと倒れるのに駆け寄る間もなく、ドタバタと再度激しい音がこちらに近付いて来ます。叫び声はもう声になりません。
妹が四肢をばたつかせながら階段を降りてきたのです。ハイハイというよりは暴れているように見えました。今まで言葉一つ話さなかった妹が何か言っていますが、とても聞き取れません。倒れている母を無視して私の方へやって来た時は、恐ろしくて気を失うかと思いました。いえ。あの時の私は気を失いたかったでしょう。
唾を撒き散らし、頬を紅潮させ、はあはあと息を切らして妹が四つん這いのままこちらへ向かって来ます。驚いて尻餅をついた私は、小さな妹が馬乗りになっても動けませんでした。
妹は不気味な様相で口の端をニィと上げました。
そして、やっと彼女が何を言っているか理解したのです。
「入れた入れた入れた入れた」
言葉の真意は分かりませんでした。しかし何を言っているのか聞き取れた瞬間、私はようやく気を失いました。
目を覚ますと家族はいつも通りといった顔で、何も起こらなかったかのように生活していました。一瞬恐ろしい夢でも見たのかと。あれは夢だったのかと。現実逃避しそうになりました。
しかしそれからと言うもの、母と妹は人格が変わってしまったのです。あの日、何かが起きたことは明白でした。
無口だった母は朗らかに笑う、優しく明るい母になりました。とても嬉しかったです。何故だかこちらが本来の母であるように思えるのです。父も嬉しそうで、我が家には笑顔が増えました。
逆に妹は毎日ぼーっとどこかを見つめるだけで、喋りもしなければニコリとも笑わなくなってしまいました。数年経つと会話をするようにはなりましたが、まるで以前の母のように能面を貼り付けたような顔になってしまったのです。
あの後急にスタスタと歩けるようになりました。ハイハイをやめて、必要な時には歩いて移動します。
大人になった今。表情に乏しい妹の言動もさほど気になりません。ただ何故かこの時期にはひなまつりの曲に誘発されて、あの年のことを思い出してしまうのです。何故か、この時期にしか思い出せないのです。
今でも二月末頃になると、あの家に大きな雛人形が飾られています。私はその時期、家に寄り付きません。父の話によると、雛人形は妹が準備するようになったそうです。
妹が言っていた「入れた」とはどんな意味だったのでしょうか。何が、どこに、入れたのでしょうか。
私にはどうにも妹が、以前の妹と同じようには感じられません。
そういったことがあり、私ね、雛人形って、苦手なんです。
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