サジタリウス未来商会と「後悔を消す薬」
昼下がりの公園は、休日にもかかわらず閑散としていた。
ベンチに座り、コーヒーをすすりながらぼんやりと空を見上げていたのは、水野隆司という男だった。
40代後半の彼は、一見すると平凡な中年男性だが、その内面には暗い思いが渦巻いていた。
「どうしてあの時、違う選択をしなかったんだろう……」
かつて隆司は、自身の起業計画に胸を躍らせていた。
だが、親や周囲の反対を受け、安定した職業に就く道を選んでしまった。
安定した収入を得ているものの、夢を諦めた後悔は今も彼を縛り付けていた。
「もしあの時、勇気を出していれば……」
何度も同じ考えが頭を巡り、彼を苦しめていた。
その時、不意に視界の端に奇妙な屋台が映り込んだ。
屋台は、公園の奥の木陰にひっそりと佇んでいた。
古びた木製の看板には、手書きでこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
「サジタリウス未来商会……?」
興味を引かれた隆司は、コーヒーを置いて屋台に近づいていった。
屋台の奥には、白髪交じりの髪と長い顎ひげを持つ初老の男が座っていた。
その男は、隆司が来るのを待っていたかのように微笑みを浮かべた。
「ようこそ、水野隆司さん。お悩みの様子ですね」
「俺の名前をどうして知っている?」
「ここを訪れる方のことは、全て分かっています。そして、あなたの抱えている後悔についても」
「……後悔?」
サジタリウスは懐から小さな瓶を取り出した。
それは、透明なガラス製の瓶で、中には青い液体が少量入っていた。
「これは『後悔を消す薬』です」
「後悔を消す薬……?」
「ええ。この薬を飲めば、過去の後悔がまるで存在しなかったかのように、心から消え去ります。その代わり、あなたはその選択がもたらす結果や教訓も忘れることになります」
隆司は息を呑んだ。
「そんなことが可能なのか?」
「もちろん。ただし、後悔が消えた後のあなたがどう感じるかは分かりません。それでも試してみますか?」
隆司は迷ったが、後悔のない人生に魅力を感じ、薬を購入した。
自宅に戻った彼は、瓶を手に取り、少しの間眺めていた。
「これを飲めば、あの時の選択に悩むこともなくなる……」
そう呟くと、意を決して薬を口に含んだ。
次の瞬間、隆司の中から、かつての後悔の記憶がふっと消えていく感覚がした。
不思議なことに、起業計画を諦めたという思いも、それによって失った感情も、すべてが曖昧になっていった。
「……なんだったっけ、俺が悩んでたのは?」
頭の中が軽くなり、長年の重荷から解放されたようだった。
数日後、隆司はいつものように職場で働いていた。
以前のような迷いや悩みはなくなり、淡々と日常をこなしている自分に気づいた。
だが、それは同時に、何かを失った感覚でもあった。
「俺って、こんなもんだったのかな……?」
起業の夢を追いかけた情熱も、後悔を糧に努力した経験も、何もかもが薄れていた彼は、ただ空虚な日々を過ごしているだけだった。
再びサジタリウスの屋台を訪れた隆司は、問いかけた。
「ドクトル・サジタリウス、この薬のおかげで俺は後悔から解放されました。でも、なんだか、何も考えられなくなった気がします」
サジタリウスは静かに頷き、言った。
「後悔というのは、時に人を苦しめますが、それがあるからこそ未来への道を考え、行動する力が生まれるものです。あなたはそれを失っただけです」
「じゃあ、どうすればいいんだ?もう薬を飲んだ俺には、何も残っていない……」
「いいえ。後悔を消したことで、あなたは新たなスタート地点に立ったのです。これからの人生をどう生きるか、それを決めるのはあなた自身です」
その日以来、隆司は自分の「これから」に目を向けることを決めた。
以前のように過去の選択を悔やむのではなく、今できることに集中する。
趣味の一環で始めたSNSで発信を続けると、意外にもそれが評判を呼び、新しい出会いや仕事の依頼に繋がった。
数年後、隆司は新しい挑戦を始めていた。
ふと友人に言った一言が、自分でも意外に思えた。
「後悔を消したのは良かった。でも、後悔がなくても未来は自分で作らなきゃならないんだな」
サジタリウスは公園の木陰で次の客を迎える準備をしながら、どこか満足げに微笑んでいた。
【完】