僕たちは生まれ変わりたがっている。
本日もまた風呂の掃除をゴシゴシとやっていて、私はふと思い出すわけです。
一昨年、家のリフォームをしまして、レ○パレスというマンスリーマンションに一月半暮らしました。この1ルーム6畳に妻と二人暮らしというのは中々に大変でしたが、これは今回の主題ではありません。いかに私がストレスを抱えていたのかなどということを今ここで明らかにしたところでどうなるというのでしょうか。ぐふっ(泣)。
…そうだった。風呂掃除の話をしたかったのでした。ユニットバスの風呂掃除です。
私は元々掃除が大好きというわけではないけれど、すごく抵抗があるわけでもない。そりゃ独身時代の風呂掃除は悲惨なものでしたが、現在ではこんなにきちんと清潔にすることができるヒトとなったのです。
そんな6畳一間で妻と45日間顔を突き合わせていても不平不満を言わない、風呂掃除だって立派に出来るという大人の私であってもあの『ユニットバスの掃除』というのは何だかすんごく嫌だったんですね。
私はいったい何が嫌だったんでしょうか。こうして風呂をこすっている間にちょっと考えてみたのです。
皆さん先刻ご承知の通り、ユニットバスというものは風呂とトイレと洗面台がユニットになってるんです。「何言ってんだ。当たり前じゃねえか」とあなたは思いましたか。私もです。
レオ○レスのユニットバスはトイレの便器とバスタブがシャワーカーテンで仕切られ、洗面台はその中間の所に何というのでしょうか、バスタブの方に半分引っかかった形で存在している。私は特にこの部分の掃除が大っ嫌いでした。あの洗面台の裏面をこすっている時間はここしばらくの人生の中でもっとも『落魄』という言葉を自分の身の上に重ねた数分間でした。
そんな落魄した私は6畳一間に妻と顔を突き合わせ、毎夜狭いロフトで毛布を奪い合って就寝しました。そこでそのユニットバス清掃の一部始終を思い返しつつ、哲学的に考え込みながら妻が少しずつ巻き込んでいく毛布陣地の奪回を試みるわけです。無駄な抵抗だとわかっていても。
またしても本題から逸脱いたしました。ユニットバス哲学の話です。
「なぜ西洋人はトイレとバスを一緒にしやがるのか」という話です。
これは単に部屋のスペースを効率的にしたいという発想ではないですよね。あの何考えてんだかまったくわかんない『アメリカンセパレート』、略して『アメセパ』というものの存在でも確かです。
あいつらどんなに広くても、その広~~い部屋のど真ん中に便器を置いたりするんです。しかもその便器を挟んであっちにシャワーブース、こっちにバスタブって、何考えとんじゃ。
失礼しました。繰り返しになりますが45日間耐久6畳妻対面夫として忍耐力に定評のある私はもっと落ち着いて考察を進めるべきでした。
それにしてもあのリゾートホテルによくあるアメセパ…使い方がわからないです。シャワー浴びてからトイレの前をビシャビシャ濡れた身体で通り過ぎてバスタブに浸かりに行くんですかね。逆ですか?バスタブからビシャビシャでシャワーか?いやいや、バスデダビシャビシャトイレ経由ビシャビシャワー…どっちにしろ部屋中ビシャビシャです。もう何言ってんだかわかりません。
ホテルだからビシャビシャのままほっといたって、翌日ルームキーパーが綺麗にしてくれるんだからいいじゃん、そのままで…って思いました?そんなあなたを私は西洋的ブルジョビショワジーと呼びましょう、フフン(謎の嘲笑)。…申し訳ありません。思考と言葉に乱れがありました。
ビシャビシャとかシャワーとかブルジョワとかビヨンセとか大変読みにくい文章となったことをお詫びします。
要するに私はバスルーム全体の床を濡らすのは嫌なんです。後からトイレ行くとき床が濡れてるのが嫌だってのもありますが、その部屋がそんな状態になっていること自体に嫌悪感がある。何かご先祖様に顔向けできないとか死んだお婆ちゃんに怒られそうだというようなタイプの罪悪感です。
ここで私はある天啓に至りました。日本在住のお風呂の神様が降りてきたと言っても過言でない。
西洋の方々にとってバスルームというのは汚くなった身体の汚れを落とす場所なんですね、当たり前ですけど。だから洗面台もトイレも同類です。『汚れを落とす処理スペース』というのがベースにある。
私の嫌悪感の正体は多分ここです。
私にとって、いや多分私たち日本人にとって風呂は単に汚れを落とす場所ではない。もっともっとある意味『神聖な場』なんです。それこそ一日の汚れどころか、精神的な疲れや抱えているストレス、例えば6畳一間で妻と顔を突き合わせ続けているようなウンザリした気持ちなどをここで湯に溶かすのです。
言い換えればここで風呂に全身をゆったりと浸けることで今日一日の自分を一度滅する。新しい自分が明日の朝に生まれるための儀式をやっているのです。
そういえば西洋式のバスタブって寝転がってようやく全身浸かれるサイズが多いんで、そうやって平たくなって入るもんだと思ってたんですが、映画とか見てると全身湯に浸かってる場面はあんまりないのですね。胸まで覆っているのはお湯じゃなくて泡だけだったりします。
ちなみに『プリティウーマン』でリチャードギアとジュリアロバーツがバスタブでイチャイチャするシーンは私、もしかしたらあの映画で一番好きなシーンと言ってもいいんですがイチャイチャはよくても床がビチャビチャは駄目です。
…私は何を言っているのでしょうか。とにかくあの西洋式のバスタブはあくまで『洗うための作業場』が基本です。対するに日本式の『湯舟』はどっぷりと肩まで浸かるものなのです。幼い日に「100まで数えてから出るのだ」と父親に肩を押さえられて、それで数を百まで覚えたという方も多いのではないでしょうか。私は「ぼんさんがへをこいた」を十回言うことで百まで数えたことにするという荒技を兄から教えられ、実践して通じなかったことをここで告白しておきましょう。
とにかく私たち日本人はどっぷりとお湯に浸かりたい。できれば頭まで潜ってしまいたいくらいの勢いでお湯に浸かりたい。そう、胎児のような格好で。
そこはお母さんのお腹の中にも似た湯舟、胎児の格好で浸かって、生まれ変わりの儀式が行われているのでした。
つらかった一日が終わる時、私たちは湯に浸かって一回死んで、次の朝に新しい自分になって生まれるのです。そんな神聖な場所を他のものと一緒くたにしては罰が当たるというものです。
はっ、何となくトイレを貶めるような論旨になってしまっております。風呂が私たちにとってスペシアルな場所であることを強調するあまり、ついつい相対的にトイレが一段低く受け取られ兼ねないような流れになってしまったことを全国二百万のトイレ愛好家およびトイレの神様烏枢沙摩明王ならびに、植村花菜様にはお詫びせねばなりません。
私は風呂が生まれ変わりの場所ならば厠は思索の場であり、また別の神様が宿る場所と信じて疑いません。つまり神様の管轄が違うのだから場所は分けねばならないと言っているのです。
さてさて、私は妻と大変仲が良いのですけれど、いや本当に仲が良いのですが、まったく間違いなくオシドリが赤面するほどの睦まじさなのですが、それでもやっぱりトイレや風呂は個室で一人の方がいいなと思います。あっ、トイレは当たり前か。
大浴場はまた別の楽しみとして、はたまたプリティウーマンもまったく異次元の憧れとしておいて、風呂は基本ひとりで時間も深さも心ゆくまで浸かりたい。
「ブハーーーッ♡」などと声を出して肩まで浸かり、しばらく天井を向いて目をつぶり、「ハフーーーン♡♡♡」ともう一度ゆっくり息を吐き出したいではないですか。
その日あったすべてのこと、とりわけ嫌なこと辛かったことはその瞬間に過去のこと、過去の生です。そうやって死に変わり生まれ変わり新しい自分が始まるようにセルフリセットしながら生きていけたら楽なのかな、などと。おう、ここにきてホントに哲学といやあ哲学っぽい結論が偶然。
さてこのようなことをダラダラ考えながらブラシやスポンジを動かし続け、本日の風呂掃除も間もなく完了します。神聖なる湯舟を清潔にできて今日も満足ですし、その丹念な仕事ぶりを妻に褒めてもらえれば尚更というものです。
追記:読んでいただいた方から「誤解している人が多いのですが、トイレと洗面台がセットだからユニットバスなのではなく、浴室を規格品としてパーツごとに工場生産して、それを組み立てる浴室をユニットバスといいます」との指摘がありました。その風呂だけのやつが『1点ユニットバス』、洗面台が加わると『2点ユニットバス』、風呂とトイレと洗面台で『3点ユニットバス』というのだそうです。
「誤解してる方」の文章ということで笑って流していただければありがたいです。水回りの話だけに。
読んでいただきありがとうございます。書き上げた時は「おおっ、俺って凄い哲学者みたい!大発見!」とか思ってたのですが、深夜のテンションによるものだったと言わざるを得ません。意外と普通のことを延々と書いているような気もします。ご容赦ください。