5 つばさ
まみちゃんは僕を振り返った。ふわふわのスカートの裾と、くるくる巻いたツインテールの毛先が揺れる。屈託ない笑顔だった。
「助けてもらっちゃったね。ありがとう、大江戸芝蘭さん。――栗田岳彦さん」
「どうして知ってるの」
僕はぽかんとした。栗田岳彦。僕の本名だ。
「つうちゃんに聞いた」
彼女は洋館の窓を指さした。
「つうちゃん?」
僕ははっとした。彼女が指さした先には、確かに見覚えのある姿が――七歳くらいの女の子の顔が見えた。彼女は、僕がそちらを見たのに気がつくと、はっとしたようにカーテンの影に身を隠した。
「つばさ! つばさなのか?」
僕が十三、彼女が七つの時別れた、たった一人の妹。
いや、そんなわけない。つばさならもうとっくに、十九歳になっているはずだ。どうしてまだ、あんなに小さい?
「つうちゃんが、ミサトなの」
「まみちゃんが一緒に、カレンダーガールを見た子?」
「そうだよ。つうちゃんはあの頃、アタシの家の近くに引っ越してきたんだ。いつも寂しそうな顔をしてたのが気になって、窓から見てた。でも、カレンダーガールの時間だけは必ず、とっても楽しそうで、それでアタシも、カレンダーガールが好きになったの。そしたら、つうちゃんがある日アタシに気付いて、窓をあけて、一緒に見ようって入れてくれたんだ。それから、毎週、一緒に見たんだよ。放送が終わっちゃったら、レンタルショップでアタシが見られなかった最初のほうのDVDを借りてきてくれて、それも二人で見たの」
「どうして、つばさはあんなところに?」
僕は洋館を指さした。
「つうちゃん、海の向こうに行っちゃったんだ。アタシ、もう、会いに行けない。だから、夢の中でだけ、会うの。その時は好きな姿になれるから、アタシと遊ぶときは、つうちゃん、あの格好がいいんだって。お兄さんが来て恥ずかしいから隠れちゃった」
僕は必死でまみちゃんの腕を掴んだ。
「生きてるのか。つばさは、どこかで元気にしてるのか」
まみちゃんは僕をなだめるように微笑んだ。
「もちろん。遠い国にいるけど、つながってる。岳彦さんが音を出せば、聞こえるよ」
彼女は僕の背中を指さした。あのどさくさの中でも、僕は、ずっとギターとルーパーを入れた楽器ケースをせおったままだったのだ。
「ね、つうちゃんにも聞かせてあげて。カレンダーガール」
「え? ここで? ルーパーはアンプがないと音が出ないから、あれはできないよ」
「岳彦さんは頭が固いなあ」
ため息を一つついて、まみちゃんは手をたたいた。オレンジの提灯が、僕の右手がわの空間にふわりと浮かんだ。ぱちん、また、明かりが一つ増える。こんどは左手に緑。まみちゃんが一つ手を叩くごとに、一つ、例のカラフルな提灯が現れる。あっという間に、あたりは昼間のように明るくなった。
「電気があって、音が大きくなればいいんでしょ」
「できるの?」
「できるよ。だってここは、アタシの夢の中だもの」
「夢の中って?」
「あの蛇を捕まえるために先に店を出て、店ごと、アタシの夢の中に包み込んだんだ。誘い出して捕まえるつもりだったのに、逆に後をつけられちゃったの。そこに、岳彦さんが助けに来てくれたんだよ。メリーゴーランドは、あいつを捕まえるための罠。岳彦さんに邪魔されて、あいつが逆上して追ってきたから、うまく誘い込むことができたんだ」
まみちゃんは、提灯のような明かりを幾つも抱えて集めてきた。それを数珠つなぎにして、つないだ端の提灯から何かをつまみだした。細い光のひものようなもの。その先端は、ルーパーのジャックに差し込める端子の形をしていた。
「ほら、これだけあれば、電気、足りるでしょ」
すべてが、僕の理解を超えていた。
もう、どうにでもなれ。
僕はギターを取り出すと、ストラップで肩にかけた。ルーパーとアンプを繋ぐ要領で、アンプの場所に光る提灯を繋ぐ。
ルーパーは、見慣れたパターンでLEDを光らせた。電源が入ったときの挙動だ。
本当に使えるらしい。
僕はギターの弦を軽くかき鳴らして、チューニングを整えた。何もかもがいつも通りだ。
「いくよ」
心の中で唱える。いち、にい、さん。
僕はまず、ギターの胴を叩いて、リズムセクションを作り始めた。
まみちゃんと初めて出会った日、これ以上なく楽しく弾いて以来、この曲は僕のお気に入りになっていた。人前で演奏したのなんて、あれが初めてだったのに。
あの日以来、何か所もさらに工夫を重ねて、記憶をさぐり、あの頃聞いたアニメソングのトラックを再現しようと試みていた。ずっと完成度は上がっているはずだ。
まみちゃんは楽しそうに縦ノリし、頭の上で手をたたいた。はしゃぐまみちゃんのリズムに合わせて、提灯の明かりは強く弱く、瞬くように光った。
ちらりと目をやると、カーテンの向こうで動く影があった。
つばさ。見ているのか。聞こえているのか。
十三で両親が離婚し、父についていった僕は、それまで習っていたピアノもやめた。母に引き取られたつばさとはそれ以来会っていない。カレンダーガールのアニメも見る機会がなくなって、シリーズの後半は見ずじまいになっていた。母と妹の行方については、父は何も教えてくれなかった。
家族四人で暮らしていた頃、僕がピアノを弾くたび、六つ年下のつばさは、手をたたいたり、ぴょんぴょん飛び跳ねたりして喜んだ。ちょうど、今のまみちゃんみたいに。あんな風に全身全霊で僕の音楽を喜んでくれたのは、つばさとまみちゃんだけだ。
ぼくは、つばさに聞いてもらうみたいに誰かに音楽をきいてほしくて、また、始めたのかもしれない。ピアノやちゃんとしたキーボードを買うお金はなかったし、父も嫌な顔をした。だから、ギターにした。誘われてバンドを組んだけど上手くなじめずにすぐやめた。自分で演奏したものを聞いてほしかったから、一人でできるルーパーをつかったスタイルを始めた。
この瞬間を、僕は待っていたのかもしれない。
音楽はあふれ出るように空間を満たした。重なっていくギターの音色も、まみちゃんが光らせている提灯も、暗いガラスの向こうで小さく飛び跳ねるつばさらしき影も、全部が、音楽だった。
二番まで演奏して、アウトロも丁寧に弾いた。最後はルーパーの演奏を止めて、CM前のアイキャッチのサウンドを再現したメロディで、僕は演奏を締めた。
まみちゃんはあの日と同じように、熱狂的な拍手をしてくれた。
カーテンの向こうの影も、手をたたいているようだった。
まみちゃんにアンコールを頼まれて、あの頃つばさが好きで、何度もせがまれて弾いたフォスターの歌曲『夢路より』のメロディをモチーフにした即興曲を演奏した。ガラスの向こうで当時と同じように嬉しそうに身体をゆする少女の影をみて、僕は、まみちゃんの言ったことを全部信じることにした。
あの子はつばさだ。生きている。僕たちはみんな、今はまみちゃんの夢の中にいる。
まみちゃんは悪いやつをやっつけた魔法戦士で、僕はそれを助けたから、今夜はヒーローってことでいいらしい。
すごく、爽快だった。
楽器を片付けていると、まみちゃんは神妙な口調で言った。
「岳彦さん、あの店、辞めな。もう逃げなよ。あの蛇を使ってた悪魔は、あの店を狙ってるんだ。蛇が警察に捕まれば、一度はお店を閉めるだろうけど、うろうろしてたら、アイツらに目をつけられちゃうよ。また便利に使われちゃう」
便利に使われる。考えてみれば、その通りなのだった。音楽にやりがいを感じていた僕を、経験をつませてやると甘い言葉でつって、最低賃金で働かせながら店のために埋め草扱いで演奏させていた。僕は都合よく飼い殺しにされながら、すっかり恩を受けたような気にさせられていたのだ。
僕は僕で、漫然と立ち止まって、ただそこにいて自分がギターを弾いているだけで満足していた。ノルマを払って、必死でチケットを売っていたバンドの子たちのほうが僕よりずっと立派だ。そこからずっと目を背けて、受けないのを環境のせいにして、僕は自分では何もしてこなかった。
「アタシ、岳彦さんの音楽、好きだよ。きっと好きな人、いっぱいいるよ。つうちゃんだって好きだよ。せっかくなんだから、つうちゃんに聞こえるようにやりなよ」
「つばさに聞こえるように?」
「昔と違って、今はできるんでしょ。つうちゃん、海の向こうの国にいる。でもきっと、岳彦さんの音楽なら見つけるよ。夢の中で出会うみたいに、きっと出会える。あの店じゃなくたって、岳彦さんの音楽はできるし、あの店じゃないほうが、聞いてほしい人にきっと届くよ」
「まみちゃんは? 君は何者なの。これからどうするの?」
「アタシは一度、山に帰るよ。この街に蛇の気配があったから、つうちゃんのお兄さんは助けなきゃって思って、山から下りてきてたんだ」
彼女はツインテールを結んでいた、マカロンの飾りがついたヘアゴムを左右ともとった。ふわふわの巻き毛が肩に落ちて弾む。
その髪の間から、ぴょこんと覗いていたのは、茶色くてふわふわした毛が生えた、丸い耳。
「アタシ達タヌキ一族は、悪い蛇と戦うんだよ。昔話にある通り、化けるのも化かすのも得意で、音楽もにぎやかな場所も大好き」
「タヌキ?」
「うん」
「化けてたってこと?」
僕は完全にあっけにとられて、まみちゃんの言うことをほとんどオウム返しに質問しながら、その顔ともふもふの耳を交互にまじまじと見つめてしまった。もう、あらゆる意味で、すべてが理解を超えている。
「そう。今日は、ありがと。アタシが助けようと思ってたのに、ドジ踏んじゃってさ」
「ドジ?」
まみちゃんは、照れくさそうに耳の付け根をこすった。スカートの裾の辺りで、耳と同じもふもふの尻尾がゆらんと揺れる。
「あいつがこれ以上他の人に渡さないうちに、と思ってまず最初にラムネ盗んだの、バレちゃったんだ。それで気づかれて、逆に追われてたの。岳彦さんがあのとき、蛇につっこんで逃がしてくれなかったら、あんな風にうまく罠には誘い込めなかった」
「まみちゃん、やっぱり結構危ない橋をわたってたの?」
僕が眉をしかめると、彼女はいたずらっぽく舌を出した。
「まだまだ、未熟でして。もっと修行するよ」
大きく伸びをしてから、彼女は僕に全開の笑顔を向けた。
「岳彦さんには、アタシ、きっとまた会うと思う。そのときは、今日助けてもらった借りを返すからね」
そう言うと、大きく手をたたいた。ぱあん、と、その音は奇妙に歪んで反響した。
次の瞬間、僕は、自宅アパートの最寄り駅の前にあるベンチに座っていた。
街灯の向こう、植え込みの近くで、キラリと光る目が二つ、こちらを見ていた。次の瞬間、さっと逃げるように駆け出したそれは、確かに、尻尾が大きくて、毛がもふもふ、ふさふさした、猫くらいの大きさの獣だった。