4 真夜中のメリーゴーランド
「メリーゴーランド?」
庭に置いてあるものとしては不釣り合いなくらい大きい。直径で十メートルちょっとはありそうだ。オレンジ色の電球がいたるところに取り付けられて、温かい光を放っている。赤とカナリアイエローのストライプの傘の下に、いろんな色のくらを置いた馬や馬車が円を描いて整列している、絵葉書にでもなりそうなオーソドックスなメリーゴーランドだった。ここの周囲の木立ちにも提灯が取り付けられているのか、大小様々で、ピンク、青、黄色、白と色合いもとりどりな明かりが浮かんでいる。
現実感がない。奇妙なメリーゴーランドだった。僕は思わず、洋館を振り返った。いくつも並んだ窓ガラスには、メリーゴーランドの照明や、カラフルな提灯の色がキラキラと反射していた。鏡には映るんだ、と僕が思ったその時、その窓ガラスに煌めく反射した明かりの向こうに、一瞬何かが動いた気がした。
「こっち!」
まみちゃんは僕の手を引っ張ると、一頭の白馬に駆け寄った。
「乗って」
僕を促して乗らせてから、自分も同じ馬に乗ろうとする。訳が分からないながら、僕は彼女に手を貸して、自分の前に座らせた。
「待て、返せ! 俺の命がかかってるんだ!」
追ってくる男の声。数頭後ろの馬に乗ったようだった。追跡劇なのに、絶対に逃げられない馬に乗るまみちゃんも、絶対に追いつけない馬に乗る男も、本当に何が起こっているのか意味が分からない。僕がそう思ったその瞬間、緊迫したこの場面には全く不釣り合いな、明るいオルゴールのような音色の音楽が流れ、メリーゴーランドが動き始めた。
馬が、馬車が、あらゆるメリーゴーランドの乗り物たちが、てんでんばらばらに駆けだし始める。だが、中に入ってみるとサーカスのテントくらいもありそうな、巨大な傘のような赤と黄色の天蓋の下からはみんな出られないようだった。ばらばらのリズムながら、結局輪を作ってぐるぐるとすごいスピードで回り始める。
「かえせええ!」
男の乗った馬が迫ってくる。まみちゃんは、僕たちが乗った馬の腹を軽く蹴った。僕たちの馬はぐんと加速して、男の馬を引き離した。
「もうちょっと。あと一周。芝蘭さん、見て。上。お屋敷が正面に見えるタイミングで、上に手を伸ばすとちょうどそこに、幸運のリングがあるの。金色の輪っか。ほら、メリーゴーランドにつきものの、掴むともう一回乗れるやつ。でも、今日は違うんだ。掴むとここから抜け出せる。次にあの下に来たら、掴んで。合図するから」
まみちゃんは、いつの間にか、白馬の手綱をとっているのだった。
「わかった」
さっぱりわからないけれど、金色のリングを狙えばいいことだけはわかった。
僕は呼吸を整えて、リングを探した。きらり、と光るものが、天蓋からぶら下がっているのが見えた。あれだ。
「芝蘭さん、来たよ! いち、にい、さん!」
まみちゃんの掛け声に従って僕は輝く輪っかを見つめながら右腕を思い切り伸ばし、大きく伸びあがった。
ぱしん、と手の中に冷たくて硬い感触が飛び込んでくる。僕はそれをはっしと握りしめた。
僕たちの乗った馬が大きく前足をあげた。振り落とされないように、僕はリングを掴んでいない左手で馬の鞍を掴んで身体をささえ、ひざと太ももにありったけの力をこめた。
次の瞬間、馬は跳躍した。メリーゴーランドのぐるぐる回る列から一頭だけ抜け出して、芝生の上を走り始める。
「どう、どう!」
まみちゃんが手綱をひいた。僕の右手には、天使の頭の上に乗っているような黄金の輪っかが掴まれたままだった。白馬は足を止めた。
振り返ると、メリーゴーランドの馬たちは、ますますスピードを上げながら、ぐるぐると同じ場所を回っていた。もう、速すぎて形を目でしっかりとらえることすら難しい。カラフルな綿あめの雲が、機械の中でぐるぐる回っているみたいだ。
「うわあああああ」
追ってきていた男の絶叫が聞こえる。
「これで、よし」
まみちゃんは満足げに言うと、白馬のたてがみのあたりを優しく手のひらでたたいた。
「ありがとう。よくやったね。もう、下ろしてもらえる?」
白馬は、その言葉がわかっているように、前後の足のひざを曲げて、姿勢を低くした。まみちゃんはぴょんと馬から飛び降りる。僕も彼女に倣って、あわてて降りた。僕まで綿あめの雲になってしまってはかなわない。
馬は立ち上がると首を下げ、まみちゃんの頬に自分の頬を一度こすりつけた。
まみちゃんが、ポケットから角砂糖のようなものを出すと、馬はそれをパクリと食べた。それから、悠々と歩いていって、ぐるぐる回る、メリーゴーランドの構成要素だったものに近づいて行った。並走して走り、次第にスピードを上げていく。速度をあわせて、タイミングをはかっているのだろうか。
次の刹那、馬はひょいっとはねて、カラフルな雲の中に飛び込んだ。まみちゃんが楽しそうに叫ぶ。
「いち、にい、さん!」
僕は目がおかしくなったかと思った。そこには、ぴたっととまったメリーゴーランドが、何事もなかったように立っていたのだ。馬も、馬車も、さっきまでの大騒ぎが嘘のように、すまし顔で正確な間隔を開け、頭上のバーと床に固定された真鍮色の棒で上下を支えられて並んでいる。サーカスのテントほどもあると思った天蓋は、いつの間にか元通りの、せいぜい差渡し十メートル程度のコンパクトなものになっていた。
先ほどと違うのは、あの男が、目を回したように床に倒れ込んでいることだった。顔色が真っ青だが、腹のあたりがわずかに上下しているので、死んだわけではないらしい。
まみちゃんは僕の手から幸運の輪っかをとると、男に近づいて行った。
「目が覚めても、大人しくしててよね」
男の両手を背中に回させ、手首のところで束ねるように片手でつかむと、幸運の輪っかをそこに通した。一瞬ゴムのように伸びた輪っかは、するりと男の手首に吸いつくように縮み、そこでそのまま固まったようだった。手錠だとしたら、何て便利なんだ。
「返せ返せって、あんたの手に負えるものじゃないっての」
彼女は背負っていたくまのリュックサックから、ジップ付きのキッチン用のポリ袋を取り出した。中には、カラフルな小粒のラムネのようなものが見える。
「まみちゃん、それって……」
「悪魔のクスリだよ。こいつが持っていたのをアタシがとったの」
まみちゃんは吐き捨てるような軽蔑しきった口調で言った。
「この蛇は悪魔の使いだ。これをみんなに配って歩いてたの。一回目は試供品。次は、初回限定、お買い得価格。次からは、サブスクリプション。毎月、途方もないお金がこいつから悪魔に流れ、悪魔からはこの蛇を通じて、このラムネがかわいそうな人達に渡る。痩せてきれいになる、疲れが取れる、最高のインスピレーションが湧いてくる、好きな人が自分に振り向いてくれる。そんな謳い文句で売りつけられるけど、ホントは、悪魔に首輪をつけられて奴隷にさせられる、操られるだけの薬なんだ」
ジップ袋を僕の目の高さに掲げて振る。中でかさかさとラムネのような錠剤が揺れた。毒々しいまでにカラフルで陽気な色味が、逆に禍々しい気配を感じさせた。
「一度使い始めたら、止めるのはほんとうに難しい。一つ食べたらまた次がほしくなる。それがなくなったらすぐまたほしくなる。そうやって何もかも、命や魂まで吸いとられるまで、踊りつづけさせられるんだ。最初の一つを絶対に受け取っちゃダメだよ。よく見て、覚えといて」
まみちゃんはその袋を、昏倒している男のジャケットのポケットにねじ込んだ。
「この男には、もう二度とこんなことはさせない。捕まえてもらうんだ。悪魔は、一度身元がバレた蛇は使わない。あとは、この男が悪魔と縁を切って良い蛇になりたいと思うかどうかだね。アタシはそこまでは関われないから。ここで怖い思いをしたのを、どう生かすかはこいつ次第」
まみちゃんは、メリーゴーランドの中心にある、鏡張りの円筒に近づいた。人一人が立って入れるくらいの大きさのその円筒には、扉がついていた。まみちゃんはポケットから取り出した古めかしい真鍮色の鍵でその扉を開けると、片手で男を引き起こして、なかば蹴り込むようにしてその小部屋に押し込んだ。
「ばいばい」
場違いに明るく言うと、ぱちんと手をたたく。
僕は目をこすった。
メリーゴーランドが一瞬で消えてしまったのだ。後に残ったのは、周りで輝くカラフルな提灯の明かりと、がらんとした芝生だけ。














