3 走れ!
ある雨の日のことだった。蛇顔の彼は店内でしつこくまみちゃんに話しかけ、まみちゃんがさりげなく何度か席を変えても、付きまとって離れようとしなくなった。
「お客さん、ナンパは困りますよ。ウチ、そういう店じゃないんで」
見かねて、テーブルに残された空き瓶を片付けに行くふりをして近くを通った僕が声を掛けると、男はぎろっと僕をにらんだ。これは、本当は店長が言うべき一言なんだけど。
まみちゃんはちょっとほっとしたような顔をして、僕についてカウンターまでやってきて、そこでしばらく残りのオレンジジュースを飲んでいたけれど、他の客の注文をさばいていて目を離した一瞬の隙に帰ったようだった。
男はその時まだ、フロアで他の客をじろじろ見たり、おそらくもうとっくにぬるくなっているであろう、入店した時に買ったビールをちびちびなめたりしていた。嫌な雰囲気の男だった。だいたい、ぐいっと飲まず、ちびちびとなめるだなんて、ビールに対して失礼だと思う。あれは冷たいうちに、のど越しを楽しむべきなのだ。
そのちょっとした出来事の後、小一時間で閉店になった。僕が帰り支度をして、ギターを背負って店の裏口を出たときだった。僕は、いつもとは違う、変な感覚を抱いたのだ。
妙な天気だった。出勤した時降っていた雨は、少し前に止んでしまったようだった。路地にはいくつかの水たまりがあって、アスファルトは濡れたままだった。見上げると、雲は晴れていないのか、星は見えず、奇妙に赤みがかった見慣れない色の曇り夜空が広がっていた。なんだかざわざわするような、落ち着かない気配だった。
気のせいだろうか。何とはなしに視線をあたりにさまよわせた僕は、はっとした。とっくに帰ったと思っていたまみちゃんを見かけたのだ。
その日のまみちゃんは赤と淡いカナリアイエローのストライプのスカートに、白いブラウス。その上からなでしこの刺繍が入ったピンクとグレーのスカジャンを羽織り、茶色のクマのぬいぐるみのようなリュックサックをしょって、ネオンピンクのタイツに厚底の黒いショートブーツだった。見間違えようがない、個性的なファッションだ。彼女は、路地の先を、急ぎ足で通り過ぎていく。その少し後ろを、例の、蛇顔の男が足音をひそめるようにしてついて行くのを見て、僕は眉をひそめた。
何してるんだ、アイツ。
嫌な予感がして、自宅に向かうのとは反対方向だったが、僕はそのさらに後ろを追いかけた。
まみちゃんは、振り返りもせずにずんずんと歩いて行く。その後ろを小走りについて行く若い男。
街灯の明かりがぽつりぽつりとあるだけの、暗い住宅街の道へとまみちゃんは進んでいく。星も月もない空から、奇妙に赤黒い空が垂れこめていて、街灯と街灯の間は闇に沈んでしまう。かなり見通しが悪かった。
だめだ。そっちは危ない。僕はそう思うものの、まみちゃんと僕の間には、例の男がいる。大声を挙げて男に気づかれると不利だ。こうなっては、後をつけるしかなかった。
前方の左手に、うっそうと茂った木立ちが見える。ひときわ大きな、玉ねぎのように下が丸く上がツンと尖った形に茂った木が印象に残った。こんなところに、公園だろうか、神社だろうか。まみちゃんがその前に差し掛かった時、男が動いた。
「待て、この雌ダヌキめ!」
威嚇するような大声を挙げてまみちゃんに突進し、その腕をひっつかんだ。
きゃっ、と小さく悲鳴を挙げて、まみちゃんが振り返る。
「やめて! 離して!」
「何をするんだ! やめろ!」
僕も怒鳴りながらあわてて二人に向かって走った。
男は、まさか自分の後ろから誰かが追ってくるなんて思いもしなかったのだろう。虚を突かれたように僕を振り返った。
「その子を離せ!」
僕は駆け寄った勢いそのままに、肩口から相手にぶつかった。相手は大きくバランスを崩してよろけ、まみちゃんの腕をつかんでいた手が緩んだ。
僕はけっしてケンカに強いほうではない。その隙を見逃さず、まみちゃんの手を取ると、駆けだした。
「まみちゃん、走れ! 人通りの多いところまで逃げるんだ!」
普段は全く足を向けない方向だった。だが、地図が頭に入っていないわけではない。この方向に走り続ければ、ほどなく、飲食店やコンビ二が立ち並ぶ幹線道路の大通りに出るはずだった。
まみちゃんも僕に後れを取らず、全力で走っているようだった。走りにくそうな厚底ブーツを履いていることを考えれば、驚異的な速さだ。
街灯が、一つ、また一つと近づいては後ろに去っていく。
「待て! 返せ!」
後ろから追ってくる、蛇顔の男。
白い街灯。オレンジ色の、誰かの家の門灯。塀の奥からわずかに漏れる家の明かり。また白い街灯。
走っても走っても、男は追ってくる。
僕は奇妙なことに気がついた。一回も曲がらず、幹線道路の方向に走っているはずなのに、一向に住宅街が終わらない。幹線道路にたどりつかないのだ。
「待て!」
また背後から叫ぶ声が聞こえる。だが、その声は妙に間延びして響き、足音も一向に追いついて来ない。
僕は気味悪くなって、まみちゃんの手を握って走り続けるまま、ちらりと後ろを振り返った。
その瞬間、振り返ったことを後悔した。
ずっとはるか彼方まで無数に続く街灯。うねうねと波打つように不自然にアップダウンしている、アスファルトの道路。そのはるか向こうを、蛇顔の男が必死に追いかけてくる。だが、その距離は一向に縮まらない。
道に迷ってしまったのか。それにしても、この道はおかしすぎる。こんなに見えなくなるほど彼方まで延々と街灯が続く道なんて絶対にこのあたりにあるわけない。恐ろしくなって、顔を正面に向けた。
とにかくまみちゃんの手を引いたまま、しゃにむに走る。すると、左手の前方にこんもりとした木立ちが見えた。玉ねぎのように、こずえがツンと尖った独特の形に茂った大きな木に見覚えがあった。これは、ついさっき通り過ぎたはずの公園か神社だ。
その瞬間に、さっきからもう何回もこの前を通り過ぎている、と気がついてしまった。一度も曲がっていないはずなのに。
ループしている。
走って走って、汗が噴き出して息も上がっているはずなのに、背筋が凍ったようにぞくりとした。
「どうなってるんだよ」
荒い呼吸の下、思わず独りごちると、その声に我ながら不安と恐怖がにじんでいるのに気がついてしまい、一層落ち着かない気分になった。だが、男はなおも異様な形相で追ってくる。走るしかない。
「芝蘭さん、こっち!」
ふいに、まみちゃんがつないでいた手を引っ張った。
左手の木立ちの中を突っ切ろうとしている。
僕はわけもわからず、まみちゃんについて木立ちの方向へ道を曲がった。
すると、神社か公園か、と思っていたそれは、大きな屋敷の庭なのだった。
木立ちの向こうに、どっしりとした洋館が、羽を広げたまま日向ぼっこをしてうずくまるタカのように、左右対称に広がった構造でうっそりと建っているのが見える。明かりのついている窓は一つもなかった。
木立ちの中に、提灯のようなカラフルな光が幾つも浮かんで見える。まみちゃんは、その木立ちをジグザグに縫うように走った。広大な庭だった。走っても走っても、端にたどり着かない。
隣を見ると、まみちゃんは必死で走ってはいるけれど、少し、楽しそうなのだった。
「まみちゃん、どうなってんの。何で追われてるの」
あえぎながら僕が聞くと、まみちゃんは前方を指さした。
「もうちょっとだから。芝蘭さんがんばって」
シランさん。ふだんまったく呼ばれない呼び方なので、自分のことのような気がしない。お芝居の世界か、夢の中に迷い込んでしまったみたいだった。
ふいに、視界が開けた。木立ちが途切れて、芝生が広がる。いつの間にか、屋敷の正面に出てきたのだ。
「ほら、あれ!」
まみちゃんが指差したその先にでんと居座っているのは――。
「メリーゴーランド?」