1 バーテンダーとギタリスト
僕がライブハウスでバイトしていた時期の話だ。
それは、雑居ビルの地下にある、あまりぱっとしない店だった。
僕の仕事は、バーテンダー。といっても、出すメニューは瓶入りのビールやカクテルの封を切って、レモンやライムを入れたものか、包装されたままのスナックくらいだ。特別な技能は必要ない。自動販売機があるから、最悪、いなくてもいい。
給料はこの地域の最低水準ギリギリだった。そのうえ、手渡しされるはずの僕の給料はしょっちゅう滞った。住んでいたアパートの家賃も払えなくなる寸前で、僕はシフト中でも暇になると、掛け持ちできるバイトを探して、駅でもらってきた無料の求人情報誌を眺めるのが習慣になっていた。
なら、辞めて他に移ればよかったのである。ここの給料で、そのうえ未払いに苦しめられるくらいなら、他のどこに行ってもマシだ。それでも、僕がここを辞められなかった理由は、たまにある「役得」のせいだった。
「栗田。今日、一八、いいぞ」
「はーい」
店長の声がかかった。僕は返事をすると、カウンターを磨いていたふきんを片付け、『バー、十八:五〇~』と書き込んだ小さなホワイトボードをレジの横に立てた。硬貨を入れて扉を開ける方式の自動販売機に、ドリンクの瓶やスナックが満タンに入っていることを確認した。
バックヤードに引っ込んで、バーテンダーの制服から、Tシャツにデニムの私服に着替えた。出勤時に着てきたもので、洗濯こそきちんとしているが、よれよれに着古している。だが、これがステージ衣装でもあるのだ。こんな時のために――と言っても、こんな幸運は、営業日フルの週四日シフトに入っていても、月に二度あるかないかなのだが――毎日持ち込んでいる、ギターと自前の機材をバックヤードから持ってきて、ステージのセッティングを自分でする。
このライブハウスで演奏するバンドのほとんどは、アマチュアからプロになるのをそこそこ真剣に夢見ているくらいの若手バンドだった。そのため、バンド側が最低売り上げ保障、いわゆるチケットノルマというやつを引き受けて一定の金額をライブハウス側に支払い、パフォーマンスを行う形式が通例となっていた。
バンドはノルマのチケットを自分たちで売りさばいて、客を呼ぶ。なので、来店する客は、そのバンドの追っかけや、付き合いでバンド側からチケットを売りつけられた観客が四分の三くらい、残りの四分の一が、面白い若手バンドが見つかればいい、とこのライブハウスに直接足を運ぶ常連客だった。
ライブハウス側の取り分はバンドから受け取る売り上げ保証金とバーカウンターの売上、ノルマ枠を越えて追加で売れたチケットのバックマージンの合計ということになる。
当然、ステージでパフォーマンスするバンドをきっちり埋めていかないと、ライブハウスの経営はうまくいかない。空きを作っていては、人件費や光熱費で損をするばかりなのだ。
だが、ステージには時々、ぽっかりと穴が開いてしまう。決して安くない金額をライブハウス側に支払っている割に、趣味の延長上だからなのか、突然『行けなくなった』とドタキャンしてくるバンドも中にはいるし、単純に営業に失敗してその枠を買ってくれるバンドが見つからない場合もある。
そんなとき、バーテンダーの僕に声がかかるのだ。
僕は、言われたら基本断らない。一人で言われた時間、ステージを務める。ステージから見ていると、自動販売機からビールがそれなりに買われるようなので、バーテンをしているときと同程度には店に貢献しているらしい。
店側としては、ライブハウスなのにステージが空っぽでは、ふらりときた客に見せるものがない。それでは困るので、たとえドタキャンしたバンドから売り上げ保障金を受け取っていたとしても、ステージでは何かをさせておきたいのだ。埋め草程度でも、生演奏である以上、一応チケット代は取れるというわけだ。
僕はそんな扱いなので、チケットノルマ無しで演奏させてもらえる。そのかわり、売れたチケット代は全額ライブハウスの取り分となり、僕の演奏には一切報酬は支払われない。名前も、観客がよくよく探さないと見つけられない程度の場所に、言い訳程度にしか出してもらえない。
しかもその名前と来たら、センスゼロの店長が、覚えやすいに越したことはないと言って無理矢理付けた、「大江戸芝蘭」というふざけた芸名だった。僕の演奏スタイルから、海外の大物アーティストを連想して、その名前をもじってつけたのだ。彼のファンが怒って夜討ちを掛けてきたらどうしてくれるのか、と僕が抗議すると、店長は鼻で笑って言った。
『おまえの演奏に夜討ちをかけようなんて熱意をいちいち燃やす暇人がいたら俺のところに連れて来い。そいつにビール一杯、おごってやるよ』
ずいぶんと人をバカにした話である。
だが、正規のルートでここで四十五分演奏するバンドは、最低売り上げ保障として二十万円以上店側に支払っているはずなので、自分の持ち出しなしで観客の前で演奏し、技量を磨く機会が得られ、演奏した時間の分もバーテンのバイト代がつけてもらえるだけ、お得だ。
と思うことにしていた。
そうでないと、こんなバイト、やっていられない。
一八から、というのは、開店直後の客もろくに入っていない時間帯だ。この時間に声がかかることが一番多い。四十五分演奏して十五分休みを挟むと、十九時からの次のステージが始まる。その十五分の間に、ステージの担当スタッフは次のバンドのために機材の設定を合わせ、観客達もお目当てのバンドのために入れ替わるという寸法だ。
僕はもはや慣れっこになってしまったほとんど空っぽの観客席に向かって軽く頭を下げると、演奏をスタートした。
アコースティックギターを弾き、ルーパーと呼ばれる録音と再生が同時にできる機材を使って、その場で自分の演奏を重ねていくのが僕の演奏スタイルだ。
最初はギターの胴を叩いたり、音を響かせないで弦をたたくようにする技法を使ってパーカッションのまねごとをし、その音を足で操作するルーパーで録る。次はその録音を流しながら、低音の弦を使ってベース音を入れる。パーカッションもどきとベースもどきが重なってリズムセクションができたら、その上に重ねるように、繰り返し演奏してきれいにつながるような進行で和音を演奏し、伴奏パートが出来上がる。今度はその伴奏を繰り返し流しながら、自分でその場で思いついたメロディを弾いて行く。そうして、音の上に音を重ねていって、数分で即興の多重録音ギター曲が出来上がるというわけだ。
その過程すべてを、客の前でやる。
僕自身は、このスタイルの演奏を見て、その足で電気街の楽器専門店にルーパーを下見にいったくらい衝撃を受けたのだが、客の受けはさほどよくなかった。僕の腕前のせいなのか、大音量で激しいロックサウンドのバンドが中心のこのライブハウスの客筋と、アコースティックでテンションの低い僕のスタイルがそんなに合っていないせいなのか、僕の演奏は邪魔にならないBGМくらいの扱いを受けている。
だが、その日はちょっと反応のいい客がひとりいた。
人気の少ないフロアでひときわ目を引いたその客は、若い女の子だった。明るいブラウンの髪を高い位置で二つにわけてくくり、毛先をくるくると巻いている。ミントグリーンとラベンダーのボーダーTシャツに、クリームイエローのパーカーを重ねて、落下中のパラシュートみたいに膨らんだパウダーピンクのひざ丈のスカートに、ひし形の柄が入ったタイツ、厚底の白いヒールパンプス。
大きな瞳で、目じりがちょっと垂れた目元や、ふっくらした頬もあいまって、アニメーションの画面からそのまま抜け出してきたような、なかなかかわいい子だった。二十歳になっているかどうか。十八歳未満入場禁止のこの店では、確実に入り口で年齢を聞かれ、身分証の提示を求められるだろう。服装の趣味からして、一九時スタートのコスプレ系パンクバンドの追っかけの子だろうか。
彼女は僕が演奏を始めるとほどなく、僕の手元がよく見える、正面からすこし下手寄りの最前列に陣取って、ステージと客席を申し訳程度に隔てている簡易の柵にもたれかかり、瓶入りのコーラを飲み始めた。
僕がゆったりしたテンポで叩いたリズムにあわせて軽く身体をゆすっているらしく、僕自身のリズムと気持ちよくシンクロしてくるくるの毛先が揺れる。
録音を繰り返して、音が重なっていくたびに、彼女は目を見開いたり、にっこり微笑んだりして、楽しそうに身体をゆすり続けた。メロディをのせはじめると、目を閉じて鼻の頭でリズムをとるみたいにしながら、気持ちよさそうに音楽に浸っている。メロディを閉じてアウトロにつなげ、演奏を終えると、彼女は目を開けて、大きく拍手した。つられて、ステージにはさして興味なさそうに飲み物を飲みながら連れと談笑していた他の観客たちも、ぱらぱらと拍手をくれた。
面白い子だな、というのが、その時の僕の印象だった。














