表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小さな森の物語

作者: Ringo


 公園は森のようだった。その森に隣接したマンションの最上階に住んでいる者は、幸せ者だった。彼らにとって、そこはあたかも自分の家の中庭のようであったのだから。

 森太郎は徹夜明けの目を赤くして、眩しい朝日と清々しい朝の空気を部屋の中に招き入れた。眼下には緑、緑、たくさんの緑が息づいていた。葉平はコーヒーを沸かしに台所へ向かった。玄関のチャイムの音が、朝の静寂な空気を遮った。

「おーい、草司。起きてくれ」

チャイムだけでは心もとないと思ったのか、ドアをガンガンと叩いている。

「今、開けるから。お静かに」葉平はドアのチェーンを外した。

「おお、葉平。兄貴はまだ寝ているのか」ドアの前に、長身のがっちりとした体躯の哲雄が立ちはだかっていた。

「朝の6時です」

 コーヒーの香りが部屋中に満ちて、コポコポというドリッパーの音が忙しげに鳴り出した。

「あいつは寝起きが悪いからな」

 哲雄は大きなボストンバッグを抱えて、勝手知ったる部屋へ上がり込んだ。この騒ぎの中でも、草司の部屋からはコトリという音も聞こえなかった。

「兄貴は寝ているというより、気を失っていると言った方がいいと思う。一晩中ね」

 葉平はベーコン・エッグとオレンジジュース、トーストを哲雄の前に差し出した。

「一晩中チャリンコを走らせていたから、腹ペコだ」

「家から? 自転車で?」

哲雄の自宅は都心の一等地にあった。

「ここは都下だよ。トライアスロンにでも参加するつもりなの」

「残念ながら、哲雄はカナヅチだ」青ざめた顔に乱れた前髪を垂らした草司が、パジャマ姿で現れた。「朝っぱらから、一体何の騒ぎだ」

 草司は大層怒っていた。寝起きはいつも機嫌が悪かった。

「幽霊かと思ったよ」哲雄はまじまじとその青い顔を見た。

 整った顔立ちゆえ、一層不気味さが感じられた。草司はよろよろとテーブルの方へ歩いてくると、崩れるように椅子に倒れ込んだ。

「気付け薬だよ」

 葉平が熱いブラックコーヒーを注いだ。草司はまぶしそうに朝日を手で遮ると、差し出されたコーヒーをコクリと飲んだ。

「まるで、吸血鬼だ。朝日を怖がっている」哲雄はフォークで空に十字を切った。

「今は何時だ。朝の5時だ。人間の起きている時間ではない」

「人の家を訪問するには、ちょっとばかし早すぎるかなとは思ったのだけど」哲雄はさすがに神妙な態度に出た。「あいにく、この辺には開いている店もなかったので」

「あたりまえだ」

「ともかく、早起きの弟が居てくれてよかった。なんせ、怒りに任せて家出しちまったからな」

「家出したの、哲雄さん」

「お前、一体何が不満なのだ。俺達には喧嘩する両親もいないんだぞ」と草司。

「居れば居たで、また厄介なものなのだ」草司は溜息を洩らした。

「まあ、当分、家に居ればいいさ」草司は諦め顔で言った。「そのつもりで来たのだろう、ボストンバッグ提げて」

「草司、お前がキリストに見えるよ」

「我が家は代々浄土真宗だ」

「お釈迦様でも天使でも、何でもいいさ。感謝。持つべきものは素晴らしき友だ」

「そういえば思い出した」草司はにんまりと笑って、皿を洗っている葉平を見た。「あいつが小学生の時に書いた作文。一体奴は大きくなったら何になりたいって書いたと思う?」

「さあ、なんだろう」

「仙人だよ、仙人。霞を食って生きたいとさ、小学生のガキが」

「へー、人生達観していたのだね」哲雄は愉快そうに笑った。

 葉平は水道の蛇口をギュッと捻った。夏の終わりとはいえ、勢いよく流れ出す水は清々しくて心地よかった。

 それは、両親を飛行機事故で一辺に亡くして間もなくのこと。授業参観で葉平が読み上げた作文は「大きくなったら何になりたいか」という誰でも一度は書かされるテーマであった。まあ、この作文に対しての教師の採点は言うまでもなく最悪のものであったが。

 かれこれ4年も前になるのか。両親が残したものは、このマンションの最上階の一室と、幾らかの保険金、高校一年の兄と小学校6年の弟だった。

「おい、葉平。もう学校へ行くのか」

 学生鞄を持って部屋を出る葉平に、兄が呼びかけた。

「今日は試験の最終日。さっさと教室へ行って、静かに教科書と語り合うよ」

「おう、がんばって励めよ」

「兄さん達もちゃんと大学へ行きなよ」

 葉平は、明るく輝く9月の太陽の下へ駆け出した。

「さて、講義は午後からだ。もう一眠りするか」

「俺も少し眠っておこう」

 2人はカーテンの閉ざされた薄暗い闇の中へと向かった。


 試験中の教室は静かであった。鉛筆の絶え間ない音が、静けさを強調していた。40数人の者が、一言も発せずに思考を巡らしていた。戸外は強い陽射しで何か白っぽく感じられた。室内は暗く陰になっていた。

 間もなく試験終了のチャイムが鳴る。葉平は、いきなり室内に目を戻したため、一瞬くらっとした。しばらく目の前に斜が掛かったように、辺りがぼんやりと霞んだ。

 チャイムが鳴った。一時間の苦闘の結果が、後ろの座席から順々に集められた。教師はそれを一つにまとめると、教室を出て行った。生徒達はガタガタと席を立ち、口々に喋り出した。

 


 葉平は、試験の打ち上げを終えて、帰途についていた。公園は次第に闇に包まれようとしていた。木々は黒々と浮かび上がり、頭でっかちに見せている葉っぱどもが、ざわざわと音を立てて争っていた。たっぷりと湿気を含んだ大気が、葉平の鼻孔をくすぐった。

「台風が来るぞ」葉平は小声で呟いた。

“風の精がやって来るわ”

生暖かい空気の流れの合間に、高い澄んだソプラノが、葉平の耳に届いた。いや、そう聞こえたように思えた。葉平は立ち止まって辺りを見回した。遠くのベンチでいちゃついているカップル以外、誰も見当たらなかった。

「空耳か」

 葉平は、公園を抜けた。森は一気に暗闇の中に溶けていった。風はますます激しくなっていた。


 エレベータのチーンという音と共に、青い扉が勢いよく開いた。葉平は一番上の9という数字のついたパネルに軽く手を触れた。橙色に光った数字を見ながら、葉平は思った。ここである筈のない13階のボタンでもあれば、まるっきりSFなのに、と。さっきの幻聴といい、台風の前触れというのは何かしら人の心をわくわくさせるものだ、と常々葉平は思っていた。何かの到来を告げるような。何かがやって来る予感。嵐の前の風が好きだと言ったら、そんな奴は10人に1人もいないと一笑に付されたことがあったっけ。

 葉平の期待に反して、エレベータはいつものように9階で止まった。ポケットから鍵を取り出すと、ガチャガチャいわせて扉を開けた。部屋には煌煌と明かりが点っていた。リビングのソファには、マグロのように横たわる兄が居た。いや、この場合、表現が適切ではない。兄の草司は母親譲りの細い線で、弟の自分が言うのもなんだが、俗に言う美形タイプであった。

「よう、お帰り」

哲雄のばかでかい声が葉平を迎えた。右手に包丁を握り締めて、エプロンを掛けている姿は、なんとも奇妙でそぐわなかった。ラグビー部のエースには、林檎の模様の付いたエプロンは小さすぎたのだ。葉平は思わず苦笑した。

「哲雄さん、この怠惰な怠け者を大学に引っ張って行ってくれましたか」

「何を言う。君の兄さんは我が学部のおそらくトップだぞ」

哲雄は大胆に、少し皮の残っているじゃが芋をガンガン叩き割っていた。

「それが不思議でしょうがない」

 葉平は、まな板がぶち割れないかと心配しながら、哲雄の手元を恐る恐る眺めていた。

「安心し給え。講義には出たぞ」

 哲雄は楽しそうに、次には人参の叩き割りに挑戦していた。

「いや、心配なのは、その包丁の方なのだけど」

「いやいや、心配御無用。居候の分際だからな、飯炊きくらいはせんとな」

 打ちのめされた野菜達は、煮えたぎる鍋の中に一気に放り込まれた。アーメン。葉平は心の中で十字を切った。哲雄は鼻歌混じりに、いそいそと料理に励んだ。


 葉平は台所からリビングを横切ると、カーテンを半分開き、ベランダへと続くガラス窓を開けた。どっと押し寄せた風でカーテンが膨らみ、葉平は一瞬なだれ込んでくる空気に息を止められた。ソファの横のサイドテーブルに積まれた紙の束が、バサバサっという音と共に部屋の中をすっ飛んで行った。

「俺のレポートが空中分解しているぞ」草司がソファの中から叫んだ。

「後で僕が拾うよ」葉平は体中で、押し寄せてくる風を受け止めていた。

「台風が来るな」いつの間にか、草司が葉平の背後に来て、荒れ狂う黒い木々を見ていた。

「風の精達が集まってくるんだよ」弟は小声で呟いた。

 

 晩飯は実に大胆なものであった。哲雄が能天気な明るさで、場を盛り上げた。テーブルに並べられた3つの皿は山盛りだった。

「この芯がうまいのだ、芋というものは」草司はカリカリと音をたててじゃが芋を食べた。

「嫌みだよ、兄さん。およしよ、ガンになる」

「お前の方がきつい」草司はナプキンで口を拭った。

「芋は煮返せば柔らかくなるよ」

「少なくともカレーの味だ」哲雄は悪びれずに言った。


 哲雄は台所でパシャパシャと勢いの良い水音をたてていた。

「昼間はあっという間に過ぎ去り、夜はゆっくりと更けていく」

 草司は窓辺に立ち、夜の闇を見つめ、一人哲学していた。風は幾分収まって、小康状態を保っていた。

「昼も夜もあっという間だよ」葉平が茶々を入れた。

 車の走る音が、鈍い水飛沫を引き摺って行った。葉平は片手にホットコーヒーを持って、自室に戻った。部屋の窓を開けると、湿った空気が流れ込んできた。雨は吹き込まなかった。静かな夜。雨が音を吸い込んでしまったようだ。風は一休みしているのだろうか。雨はさほど強くなかった。台風はそれてしまったのだろうか。

 葉平はラジオのスイッチを入れた。甘い歌声が部屋を包んだ。それはもうずっと昔に流行った曲。

“僕は泣きながら目覚めた”

 天使のような歌声がしっとりと語り掛けた。人を魅了する声の持ち主とは、彼のことをいうのだろう。人を感動させることのできる彼らは、素晴らしい。時に僕等は、涙を流しさえする。一体、実生活において、僕等は感動に泣きむせぶ等ということがあるだろうか。まして、人と人との関わり合いにおいて、それは皆無に思える。人は容易に僕を苛立たせ、失望させ、怒らせ、もちろん一時的には喜ばせることもできるのだが。

 音楽が途切れると、廊下を伝って、哲雄の声が聞こえた。次の曲が始った。

 僕はやはり今だって、仙人になりたいと思ってしまう。お山のてっぺんから、傍観者のように人々を見渡していたいのだ。争いや恨みごとや、そういったどろどろしたものから自分を解き放して、悠々と。しかし、時に僕は天使のようにありたいと思う。隣人を愛し、人々を受け入れ、あくまで優しくありたいと思う。それは、いうなれば躁鬱病のように、周期的なものであった。

葉平はブラックコーヒの効き目もなく、瞼が重くなってくるのを感じた。窓を打ち付ける音が、ぱらぱらという音から、急に激しくなった。葉平は急いで窓を閉めた。



 翌朝は大雨。ニュースは台風11号の接近を告げていた。外は薄暗かった。葉平は、湿った靴下が靴の中で浮いているあの気持ち悪い感覚で、靴をぐちゃぐちゃぐちゃいわせながら、教室に入った。

「おはよう」

 葉平は背後に人の気配を感じて振り返った。

「傘は、傘は差してこなかったのか、轟」

「大破した」

 轟はそう言うと、持っている傘を苛立たしげに葉平の前に差し出した。ビニールが破れて、妙な具合に骨が突き出していた。

「台風の日にビニール傘をさすことが、どんなに無謀なことかわかった」

 轟はそう言って、傘の残骸をごみ箱に放り投げた。

「そりゃ、とんだ災難だ」葉平は同情した。

 一時限めは倫社。教師はこの雨にも負けず、時間通りに教室に現れた。自習という期待感は、これで一瞬のうちに消え去った。生徒達は机をガタガタいわせ、5・6人のグループで机を向かい合わせた。机が取り去られた空間に、2・3の水溜まりが取り残されていた。上下履きの区別がつかない奴の席だった。葉平の水溜まりは、机の下に隠された。教室はざわついていた。風はいよいよ激しくなり、雨は滝のように流れていた。窓ガラスがガタガタと震え、夕方のような暗さになっていた。蛍光燈の点った教室で、皆、落ち着かなげだった。ちらちらと窓の方を気にしていた。

 グループでの話し合いのテーマは、“自殺について”であった。教師はなにやら本を読んでいた。葉平のグループでは結構真剣に話し合いが行われていた。一度は自殺を考えたことがあるとか、残された人々のことを考えた場合自殺するべきでないとか、昔クラスメイトが自殺したとか。皆口々に意見を述べた。葉平はちょっと意外であった。自殺を考えたことがないのは自分だけなのだという事実を初めて知ったのだ。ふーん、結構自分は能天気なのだと葉平は感じた。

 午後になると、外の光景は恐ろしさを増していた。校庭の端に植えられた木々がひん曲がって、まるで悪魔がやってくる構図そのものになっていた。葉平の靴の中は生ぬるく暖まっていた。轟がしきりに「すげーなー」を連発した。葉平は一緒に窓の震えを見守っていた。風はヒューヒューという音からゴーッという唸りに変っていた。突然、、校内放送のスピーカーがカチッと音をたてた。

「えー、諸君」

 校長の声だろうか。

「台風11号が間もなく上陸する模様です。交通機関が止まる恐れがあるので、皆速やかに帰宅するように」

 教室から一斉に歓声が上がった。

「本当に電車はやばいかも」轟はさっさと帰り支度を済ませていた。「なんたって俺の線は、ちょっとした雨で土砂崩れのために止まってしまうのだから」

「ローカル電車の悲劇だね。田舎を走っているからだよ」

「お前はいいよ、徒歩通学だもの。公園の真ん前のマンションだろう」

「ああ、そうだ。轟の傘は」

「ごみ箱の中だ」

2人は下駄箱置き場から外を眺めた。

「さしてもささなくても、あまり変らない気がしてきた」

 哲雄がバケツをぶちまけたような雨を前にして言った。地面を流れる水は、ちょっとした濁流を思わせた。強い風に煽られて、葉平が開いた傘は、たちまち裏返ってしまった。

「走って行った方がよさそうだ」轟は雨の中に勢いよく飛び出した。

 葉平も後に続いた。向かってくる風に必死に抵抗して歩を進めた。

「風に飛ばされてしまいそうだ」そう言った葉平の口の中に大粒の雨が流れ込んできた。

 水が足元でばしゃばしゃと跳ね上がった。2人は必死の形相で、駅までの道のりを進んだ。

「おお、偉い。動いているじゃないか」轟は改札口で定期券を取り出した。

「気を付けて帰れよな」

 自宅のマンションは駅から5分程のところにあった。葉平は一呼吸すると走り出した。葉平は公園を駆け抜けた。いや、本人は駆けているつもりなのだが、風の勢いに押されて、その歩みは遅遅としたものであった。プールの中を歩いているような水の抵抗を感じた。森は猛り狂っていた。灰色の、それも不思議に油絵を思わせるような重厚感のある雲が、一杯に覆い被さって今にものしかかってきそうだった。そんな中で、木々はいやにその存在を誇示していた。生き生きとくっきり浮かび上がり、鞭のような鋭さで、辺りの空気を切り裂いた。唸る風の合間に、高い澄んだソプラノが聞こえた。

“よ―へ―”

 葉平は顔面に打ち付ける雨を片手で拭いながら、振り返った。公園には人っ子一人居なかった。

「なんだ、これは。またこの間の幻聴か」

 葉平は眉間に皺を寄せ、首を傾げながら、避難場所であるマンションの自室へ急いだ。玄関に走り込んだ葉平に、兄はバスタオルを投げた。

「風邪をひかないうちに早く服を脱いでしまえ」兄はそう言いながら、やかんで湯を沸かし始めた。「今、熱い茶を煎れてやる」

「随分機嫌がいいじゃないか」葉平はタオルで頭を擦りながら、台所へやってきた。

「雨の日は、何故か心が穏やかになるのだよ。兄は雨の日が好きだ」草司は茶筒をぱかっと開けて、急須に新緑の芽を入れた。

「外に出てごらん。雨が好きだなんて言っていられないから」葉平は乾いた服の下の身体がほてって、暖かくなるのを感じた。「哲雄さんはどうしたのさ」

「ラグビーの試合があるからと言って出掛けたのだが。まさか、この台風の中でボールを追いかけているとは思えないし」草司はリビングのバルコニーへと続く窓を眺めた。

 葉平は公園の木を見て、今さっきのことを思い出した。

「ねえ、兄さん。この頃幻聴が聞こえるのだけど」

「なんだって」草司が首を回した。

「兄さんは難聴かい。僕はこの頃、幻聴が聞こえるみたい」

「難聴はお前だろう。中学の健康診断書にやや難聴の判子が押されていただろう」

「違うよ、あれは。機械に反応するのが遅かっただけだ。微かな音波が聞こえたかどうかなんて、確信を持って答えられるかい。いや、違うよ、兄さん。そんな話ではない。僕はどうやら幻聴が聞こえるようになってしまったのだ。真っ昼間から。公園を通り抜けると聞こえる。僕を呼ぶ声が」

「それは幽霊かもしれない」草司は神妙な面持ちで言った。「1年ほど前に、公園の池で溺れて死んだ少年がいたろう」

「ああ、自殺した少年ね」

「きっとその霊がさ迷ってお前を呼んでいるのだ」

「冗談、幽霊に知り合いはない。僕の名を葉平ってちゃんと呼ぶんだ」

「精神病か、葉平」

「簡単に言うね」

「いや、ありがちなことだ。実際社会は生きにくい。精神に異常をきたさない方がおかしいとさ言える」

 兄は葉平の右斜め前方、湯飲み茶碗のある位地から目を離さず、一点を凝視していた。

「現に兄には幻覚が見えている」

 葉平は兄の言葉に戸惑った。「なに、どうしたのさ、兄さん」

 葉平は兄の目線を追った。湯飲み茶碗の陰に、何やら動くものがあった。それは、ちょうど手の平くらいの大きさをしていた。ぺったりと座り込んだ人形が、おずおずと立ち上がった。人形の形をしたもの。しかしながら、生命あるもの。

「うわー、小人だ」葉平は叫んだ。「兄さん、僕は幻聴の上に幻覚まで起こって、いよいよ精神病院行きかい」

 葉平は震える声で、その場に凍り付いた。

「とうとう来たわ、葉平」

 緩やかに波打つ栗色の髪。大きく開かれた茶色い目が、葉平をじっと見つめていた。赤い唇から、澄んだ高いソプラノが発せられた。

「この声。これが幻聴の原因だ」

「幻覚の原因でもあるよ、葉平」兄が言った。「ねえ、お嬢さん。君は一体現実なの」

 兄は、その小さな生命に優しく語り掛けた、前かがみになりながら。彼女はその質問が風変わりなものだったため、少し戸惑ってから答えた。

「ええ」小さな生命は頷いた。

「物語だよ、御伽噺だ。それこそ、児童文学だ」葉平はやはり信じられなかった。

「やれやれ、お前は空想家だと思っていたのに。この眼前の光景を理解しようとしないとはね」

「現実家には負けるよ、事態の飲み込みの早さには」

「驚かせてごめんなさい」親指姫は不安そうな表情で葉平を見上げた。「来てはいけないとは思ったのだけど」

「いや、驚いたけど…」

 草司が好奇心を発揮して、このかわいらしい生物に話し掛けた。「ねえ、君は何処から来たの」

「公園の森が私達の住処よ。窓の外に見えるあの木々達よ」

 愛くるしい目がくるくるとよく動く。

「公園だって」葉平が反復した。

「私達って、じゃあ、他にも仲間が居るの」草司が訊ねた。

「ええ、そう多くはないけど。私達の国は小さな国で。だけど、他の森にもその他の森にも、仲間はいるわ」

「ディズニー映画は見ただろう」草司が言った。「ほら、ガキの頃一緒に映画館で見たじゃないか」

「あれは、映画だよ、兄さん。現実ではない」そう言いながら、葉平の目は熱っぽく輝いていた。「ねえ、君の名前は。どうして僕等の前に現れたの。いや、何から聞いたらいいのかな。僕はすっかり興奮しているみたいだ」

「落ち着け、葉平。あせらずとも、話してくれるさ」

 小さな女の子は、同意の印にコクリと頷いた。薄緑のパフスリーブから覗いている腕や円形のスカートから覗いている足はマッチ棒のように細かった。彼女は話し始めた。自分の名はリンということ。公園は彼女達の王国だということ。そして、彼女はその王国の王女だということ。

 昔、昔、ずっと昔には、小人達も人間と共に暮らしていたという。しかし、やがて彼らは身の危険を感じて、密かに隠れることにした。彼らはじっと身を潜めていた。息を殺して見ていた。キリストは十字架に掛けられ、魔女裁判で魔法使いは火炙りになった。異質のものを許さぬ人間達の姿を見ていた。決して人間達の前に現れてはいけない、という固い戒め。しかし、ひょんな弾みから、たまに人間たちの前に姿を現してしまうこともある。(そして、それは物語となって僕達の目に触れることになるのだ。)

 そして今、その戒めを破り、危険を犯している。自分一人の危険ではない。全ての小人達の生命を危険に晒しているのだ。この行動は、一国の王女として恥ずべき行為である。

 リン姫は、一息ついて次の言葉を続けた。

「けれど、その戒めを破っても、葉平に会いたかったの。一言でも話をしたかった。私、葉平をずっと見ていたわ。葉平の駆けるところ。笑うところ。葉平の言葉を追い掛けていた」

 リン姫は、真っ直ぐな視線を葉平に向けた。

「驚いたね」草司はヒューと口笛を吹いた。「よっ、憎いね、この色男」

「茶化さないでよ、兄さん」

「ごめん、悪気はない」草司はすぐに謝った。

 葉平は、ありったけの誠意でもって応えた。

「歓迎するよ。ようこそ、リン姫。僕は嬉しいんだ。危険を冒して、僕達を信頼してくれたことに、感謝。大丈夫だよ、気に病むことはない。僕等は、君達を危険に晒すようなまねはしない。この小さな秘密を、僕等は守ることを誓うよ、ねえ、兄さん」

「神にかけて」草司は右手を上げて神妙に誓った。

「さあ、約束成立。僕等は楽しくやっていけると思うよ」

 リン姫の顔に笑顔が広がった。

「ええ、そうね。きっと、そうだわ」

 そのとき、玄関のドアを勢いよく開ける音がして、哲雄が悲惨な姿で現れた。

「いやー、まいった、まいった」哲雄は、ぼろ雑巾のように水をおもいきり滴らせて立っていた。頭や肩に数枚の葉っぱが張り付いていた。

葉平は新しいバスタオルを放り投げてやった。

「溝の中にでも落ちたような有り様だ」草司は豪快な巨漢を、しげしげと見た。

「電車はみんな止まっちまってる。道路はまるで川だ。洗濯機の中にぶち込まれた気分だ」哲雄は大声をあげながらリビングに入ってきた。

 テーブルの上のリン姫が会釈をした。

「いったい、どういう趣向さ。その精巧な人形は、何処で手に入れたのさ」

「こんな精巧な人形を、たかだか人間の手で作れると思うかい、哲雄」草司が肩を竦めた。

「こんにちは、哲雄さん」リン姫が首を傾けた。

「すごい、喋ったりもする」

「これはね、神の創造物だよ。人形ではないんだ。生きている」

「小人だよ。知ってるでしょ、哲雄さんだって」

 哲雄は眉をひそめた。「円盤が故障したとかさ、そういうわけ?」

「それは、エイリアンだよ」葉平が抗議した。

「期待に反して悪いけど、そこの公園からやってきたの」リン姫は窓の外を指差した。

「宇宙から来たって方が信じられる」哲夫は呆然としながら答えた。

「仲間もいるそうだ」草司が説明を加えた。

「ふーん」哲雄はわかったのかわからないのか、ともかく納得した。途端に腹の虫がグーッと馬鹿でかい音をたてた。

「そうだ、俺は死ぬほど腹ペコだ」哲雄は大声で叫んだ。「もう、夕方だ」

 葉平は時計を覗いて驚いた。「ずっと薄暗くてわからなかった」エプロンを着け、夕食の支度に取り掛かった。

「人間というのは、順応性が高いものだな」草司は独り言を呟いた。「それとも、俺達が特別なのかな」

 夕食の席で、リン姫はしばらくこの家に居たいという申し出をした。

「いいよ、いくらでも。こんなむさくるしい馬鹿でかい奴だって、あと何日いるかわからないのだから」主の草司は、心良く承諾した。

 哲雄はこの言葉に抗議のブーイングを送った。

夕食を終えると、リン姫はすっかり疲れた様子で、ぐっすりと寝入ってしまった。

 ニュースは台風の通過を告げていた。荒れ狂った一日がようやく終わろうとしていた。電車は再び動き出したらしい。雨は落ち着きを取り戻していた。静かな雨に変っていた。

 兄は本から目を離すと、葉平に話し掛けた。

「リン姫はさ」兄は一つ間を置いてから言った。「お前に恋して、会いに来たんだよ」

 弟は肩を竦めた。

「よっぽど、僕がいい人に見えたのだろうね。僕なら大丈夫だと思ったのだよ。彼女達だって人間に興味があると思うよ。本当に小さいとき、僕は魔法使いになりたいと思っていた。それから、僕はコロボックルの本を読んだときに、小人に出会えないかと期待していた。期待しながら、そんなことは絶対にありえないと思っていたけど、それでも夢見ていた」

「お前は、ぼーっとしているからな」草司は再び本に目をおとした。


 夜半に雨は止んだ。翌朝は快晴だった。抜けるような青空が広がっていた。葉平は兄にリン姫の世話を頼んで出掛けていった。何度も繰り返しては念を押しながら。まるで宝物を貰った子供の様だと、草司はぶつぶつ言った。

「あいつは、すっかり母親気取りだ」

 草司はパジャマのまま、朝食代りのコーヒーを飲んでいた。

「草司、今日は顔色がいいわ」リン姫がテーブルの上から声を掛けた。

「たっぷりの睡眠はお肌に良いのだ」草司はにっこりと微笑んだ。

「いつも青い顔をしている」リン姫は心配そうに言った。

「美青年は青白い顔と相場が決まっているのだよ」草司は陽気に答えた。「だけどねえ、リン姫。君は僕達に何か助けを求めに来たのではないのかい」

 リン姫は、一瞬草司をその澄んだ緑の瞳で見つめてから、首をゆっくりと左右に振った。そして、胸元をしっかりと握り締めた。

「救いはあるわ」

 襟元から、銀の鎖の十字架が見え隠れしていた。

「神の救いかい」

 リン姫は、穏やかな微笑みをその小さな顔に浮かべた。



 葉平は、公園を駆け抜けるとき、立ち止まって木々を見上げた。あそこに、リン姫達の仲間が住んでいるのだろうか。木々は痛めつけられた様子も見せずに、その緑を一層濃くしていた。地面には折れた枝や葉が、隅に掃き溜められたように固まっていた。でもいったい、どの木なのだろう。葉平は腕時計に目をやり、大慌てで学校へ向かった。


 就業のチャイムが鳴るのを待ちきれずに、葉平は早々とカバンに教科書を詰め込んだ。チャイムと同時に、葉平は立ち上がって、帰る体勢をとった。心は家に居るリン姫に飛んでいた。雨に洗い流された街には、気持ちのよい風が吹いていた。太陽は、勢いよく照り付ける夏の太陽ではなくなっていた。秋がそろそろやってくるのだろうか。やさしい太陽、やさしい風 。公園には、緑の風が吹いていた。


 リン姫は一人家に居た。開け放たれた窓から、レースのカーテンを揺らして、心地よい風が吹き込んでいた。リン姫は、眼下に広がる森を見下ろしていた。

「なんだ、皆出掛けたのか」

「哲雄のお母さんが倒れたって、連絡があって。草司は一緒に病院へ行ったの」

「そうか。大丈夫かな。酷く悪いのかな」

「わからない」リン姫は小さく首を横に振った。

 葉平は黙ってソファに身を沈めた。

「本当に家族というものは、不思議に他人とは全く違うものなのだわ」リン姫が口を開いた。「長老の弟子の一人が言っていたわ。もう青年と呼ぶには年を取りすぎ、中年と呼ぶにはまだ早すぎる。カイという名で、ある日ぶらりとこの森にやってきて、今は長老の弟子の一人になっている。無口な彼が、ある日ふと口にしたことだけれど。『世界中の人々が不幸になっても、その中には自分も含まれるのだけど。それでも、自分の家族だけは幸せでいて欲しいと思ってしまう。自分の両親の人生は、とても幸福だったとは言い難い。むしろ、なんの楽しいこともなかったのではないかとさえ思える。このまま、悲しいことや辛いことだけで死んでしまったのでは、あまりに可哀相過ぎるのではないかとね。他人はいい。誰かが幸福にしてくれるだろうから。けれど、自分の両親を幸福にできるのは、自分しかいないのに。どうだい、この自分は。なんの幸福も彼らに与えることができない。むしろ、心配やら苦痛やらを与え続けただけなのだ。若い頃に僕の投げつけた言葉の一つ一つが、傷付けた幾千もの言葉が、今思い出すと痛いくらい胸に突き刺さってくる。そして僕は、彼らの期待を踏み躙って、一角の人間にもなれず、放浪の日々を送り続けている。今、僕は無性に彼らを喜ばせたいのだけれど、すでに彼らを喜ばせるなにものも、もやは僕の手の中にはないのだ』」

「哲雄さんに聞かせてみたいね」

「でも、それはカイの思い出あって、私の思いではないわ。無論、哲雄さんの思いでもないのだわ」

「そうだね」

「まあ、カイ。なんだって、こんなところに」リン姫が叫んだ。

 葉平はベランダに視線を走らせた。黒い瞳と黒い髪、ゆったりとした灰色の布を纏ったもの静かな小人が、葉平にペコリとお辞儀した。

「今、あなたの話をしていたところよ。どうしたの、カイ。約束は明日の12時まででしょう」リン姫が不安げに言った。

「リン姫。残念ですが、直ぐにお戻りください。隣国の国王御一行が到着されました。御婚礼は今夜です」

「今夜ですって?」

「お分かりのことと思いますが、我々は弱小国。長老も、もうリン姫の不在を隠し通せません」

 リン姫は、唇を噛んだ。

「葉平」リン姫は葉平の方へ振り返った。「ありがとう。楽しかったわ。今夜、この森で婚礼の儀式を終えたら、明日には隣国へ向かうことになるわ。草司にお別れを言えなくて残念だけど…」

葉平は頷いた。「また、おいで。嫁いで行ったとしても、里帰りをしに。この森は君の故郷だ。兄さんも、僕も待っているよ。もちろん、哲雄さんも」

「リン姫。長老が気を揉んでいらっしゃいます」

「ええ、ええ。長老を心配させるものではありませんね。それでは、葉平。元気で」

 リン姫はベランダへ歩き出した。

「感謝するのは、僕の方だよ」葉平は、立ち去ろうとするリン姫に呼びかけた。「僕は、すっかり忘れていた。少年の時の憧れや夢なんか」

 リン姫は、振り返り、満面に笑を湛えるとベランダから姿を消した。


 森は夜を迎えた。緑、緑、たくさんの緑は、闇の色に染まっていった。風に飛ばされて流れていく雲の間々に、今夜も青ざめたきれいな月を見ることができた。哲雄は家に戻っっていった。

 草司は森の木々を見ていた。

「木を見て森を見ず。森を見て木を見ず。僕等は両方を見たいものだね。僕は常々不思議に思っていることがある。僕はこの世界のほんの一部にしかすぎないけれど、この世界はまさにこの僕の中にこそあるのだ。そうして、一人一人の中に、全く同じことが言えるのだ。僕は自然の一部であり、自然は僕の一部なのだ。そう思うと、僕は全てのものに対していとおしく、限りなく優しくなれる気がするのだ。なにか、感傷的になっているようだ」

「とても静かだね」葉平はベランダに立って呟いた。「もう、婚礼は始っているのかな」

「12時ジャストだ」

 草司は薔薇の花束を抱えて、ベランダへやってきた。花びらを契ると、それを風に乗せて飛ばした。リン姫に届くように。願いを込めて。無数の花びらが、風に流れていった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ